2010年11月11日木曜日

非キリスト者による信仰論

先日友人から「ブログ時々覗いているよ。でも難しいのはパスしている。」とのコメントをメールで頂いた。
今日書こうとするポストは恐らくパスされる方だろう。
でも書かざるを得ない理由が二つある。

先日ポストした「教理と政治歴史的文脈」から数日後、同ポストで取り上げた『殉教と殉国と信仰と』が著者の一人である高橋哲哉氏からの依頼で、「謹呈」と言うことで出版社から送られてきた。

「えっ、こんなブログでちょっと発言したぐらいで?」
「著書を貰っちゃっていいの?」

と言う訳で、せっかく頂いたからにはちゃんと読んで感想を書く、と言うのが礼儀と言うもの。それが第一の理由。

二つ目の理由は、先日のポストはあくまでメディアによる報告に対する感想であったが、今回その著書(シンポジウムの高橋氏の発題講演部分)を読まさせていただいて、非キリスト者、非信仰者の立場からではあるが、かなり具体的な「キリスト教観」「イエス観」「信仰観」が述べられていたのに驚くと共に、これはやはり一キリスト者として、一信仰者としても、提示された考え方に稚拙ではあっても応えなければならない、と感じたからである。

先ず氏のスタンスは、「キリスト教学や神学の専門家ではない」、「クリスチャンですらない」、が『靖国問題』『国家と犠牲』の著作過程で、「殉教・殉国・信仰」の問題に「出会ってしまっている」ことから迷いつつもこのシンポジウムの招きに応じた、というもの。

先ず氏はその講演において、「殉教と殉国」が単に似ているだけでなく、歴史的に「殉教神学」が「殉国思想」に整合させられてきたことを歴史的に跡付ける(第二次大戦中の日本のキリスト教会、ヨーロッパの十字軍等、戦争に際しての教会人の発言等)。

例えば、日本基督教新報『殉国即殉教』、
もし殉教の意味を、聖書本来の意味に解すれば、それは現在この大戦の真っ只中において、切実に求められているものと言わねばならない。聖書に従えば殉教とは、生命を賭して、福音を立証することである。それはただ宗教闘争に死することばかりを意味しない。生命を賭して福音を立証することであれば、それはみな殉教である。今は国民総武装の時である。我々一億国民は、皆悠久の大義に生き、私利私欲を捨てて、ひたすら国難に殉ずることを求められている。しかるにこの国難に殉ずるところにこそ、福音への立証があり、殉教がある。これは殉国の精神を要する時である。全国民をして、この精神に満たしめよ。
高橋氏はこのような国家の戦争遂行目的に同調した教会人による神学的援用が、「果たして偶然のことであったのかどうか、これをあらためて問い直す必要があるのではないか」と指摘する。

次に高橋氏は、「本来のキリスト教はこう言うものではないか」と言う、氏のキリスト教観を披瀝する。すなわち「愛敵の宗教」で、「敵を殺すことを当然とする国家の戦争(あるいは端的に戦争)における兵士たちの死を、『殉教』としてたたえるものではない」。要するに原理矛盾だ、と言う指摘をする。

次に高橋氏は、カトリックの列福の伝統に論点を移す。「殉教者」を「聖人」や「福者」として、「ある人の死に方について、それがたたえられるべき死であるかどうか、どの程度たたえられるべき死であるのか」、を判定する主体が教会と言う組織であることを問題視する。
この組織による死者の一定の顕彰の仕方が、国家の場合も教会の場合も構造的に同型だ、と指摘する。

氏はさらに、「一個の人の死」について、特に「殉教」のような場面(遠藤周作『沈黙』)において「棄教」や「転向」した人の信仰内容について、一介の人間が踏み込んだ判定や評価はできることなのか、と言う疑問を呈する。
クリスチャンではない私は、イエスの教えの大事な点は、神の愛が、太陽の光のように、あるいは雨のように強者にも弱者にも、富者にも貧者にも、善人にも悪人にも、絶対無差別に注がれる、と言うことではないかと考えてきました。いやそれどころか、むしろ弱者や、貧者や、悪人の近みにこそあって、これを受け入れ、救おうとするものではないか、と。ですので私は、まるで信仰の強さと弱さで人を区別し、前者の功績を特別にたたえるかのような列聖、列福の儀礼に違和感を覚えるのだと思います。
最後のパンチは、顕彰行為は「信仰」のあり方にそぐわないものだ、との認識。
信仰は、むしろ本質的に、人に知られること、有名になること(すなわち名を残すこと)、名誉を得ること、ほめられることを、嫌うのではないでしょうか?神の前に自分を低くする信仰は、他の信仰者に対しても、また世界に対しても、自分を低くすることを望むのではないでしょうか?名を求めない信仰は、誰にも知られず、全くの秘密にとどまることを、むしろ良しとするのではないでしょうか?
さらに秘匿の信仰者の可能性に言及する。
私はクリスチャンではないと申しました。しかし、その私が、じつは隠れてキリスト教の信仰を持っているとしたら、どうでしょうか?私が自分の信仰を神に対してしか「証」せず、他の誰にも秘密にして生きているとしたら、どうなるのでしょうか?クリスチャンとして信仰告白していない人の中に、熱烈な信仰が生きていることなどありえないと、誰が断言できるでしょうか?
そしてユダヤ人に伝わる「メシヤ」のエピソードに見る「incognito(自らを隠すあり方)」と重ね合わせながら、「信仰を誇ると言うこと、それを名誉や栄光や栄転の対象にするということ、信仰をその現れた形によって評価し、ランク付けし、そして信仰の故の死を美化することは、はたして信仰にふさわしいことなのでしょうか?」とたたみかける。

さて、プロテスタントの筆者としては矛先が半分はカトリックの列聖、列福の伝統にあるとは言え、昨今の「教会不祥事、牧師不祥事事件」を考えると、高橋氏の言って見れば清清しい「信仰観」に共感を覚える。ある種の「信仰の美学」的なニュアンスも感じないわけではないが、「信仰の本質」と言うことでは、氏が指摘していることはあながち「非キリスト者」の言論では片付けられない問題提起だと思う。充分「現代信仰論」として耳を傾ける要素があると感じた。

高橋氏のキリスト教・信仰観は、ラジカル・リフォメーション(アナバプティズム)の延長線で見ることが出来るかもしれない。でも基本的に「教会」がなく、ラジカルに「私的」なものであるので、やはりポストモダン的な「信仰のあり方」の一可能性を描いているような気がする。ただ「秘匿の信仰の可能性」が「信仰の非開示性」にあるとすると、そしてそれによってしか信仰の純粋性が保てない、と言う認識であるとすれば、それは「秘匿の信仰」の可能性ではなく、必然性へと導かれる考え方ではなかろうか。
だとすると、そのような信仰のあり方は公的歴史に跡を残さない、と言うことであり、人との関係性における信仰の発露が様々にありえるのに、それを禁欲する理由が絶えず内発的にあるかどうか・・・。その辺がもう一つ形として見えないところではある。

また機会があったら、シンポジウムでの討論について感想を書くこととしたい。

(※筆者と同じように同書を取り上げて高橋氏から上掲書を謹呈されたブログ主がおられる。筆者より丁寧に取り上げているので一読をお薦めする。「関口康日記」

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