2011年3月22日火曜日

自然災害と終末論的解釈

ここ数日ブログの更新をしなかったのは心が重かったことと体調がすぐれなかったこと。
そしてもう一つ東北関東大震災以外のトピックで記事を書こうと散々考えたのだが、どうしてもこのことに戻ってきてしまうことだった。

心が重い理由の一つは、これだけ多くの人の命が奪われ、惨憺たる情景を目の当たりにして、ことばを失い茫然自失となるのが自然だと思いきや、自分も含めて、案外平静としている、淡々としている人間が多いこと。
これって人間としてまともか・・・と言う疑問。(大惨事に当たって冷静でいられることは半面悪いことではなくむしろ賞賛すべきことであるが。)

もう一つはこれほどの大災害であっても彼我の差を非常に感じたこと。彼我の差とは、筆者が常時閲覧している英語ブログと日本語ブログでの取り扱いの差のことである。
一つ二つ例外はあるが、英語ブログではまるで何もなかったように神学やキリスト教の話題についてブログが更新されて行った。

気になったこともある。
例の福島原発関連の祈祷要請メール。
先日ちょっと書いた「命と性の日記」にこのチェーンメールについて警鐘を鳴らしているので筆者としては何も付け加えることはないが、エステル書を参照して「国難」緊急祈祷委員会気取りであちこちに祈祷要請しなければならないほど「総動員」をかけたいのか。依然としてそのメンタリティーにあきれる。個々の教会(教団、組織)はそれぞれの良識と知性と霊の導きによって祈る、そういう自主性に任せておいていいではないか。もしその輪を広げたいのであればこれだけネット環境が出来ているのだから、草の根的ネットワークのやり方、ボトムアップでやって欲しい。いきなり自称「中央」が出来上がってトップダウン、と言うのはいただけない。

さて本題に戻る。
先日「自然災害と宗教的解釈」と言うポストをしたばかりであるが、今度はそれを狭めたトピックである「終末論」的解釈との関連での発言が飛び出した。
米国の著名な大衆伝道者ビリー・グラハムの息子で、サマリタンズ・パースと言う慈善団体の総裁も務めるフランクリン・グラハム師。
昨年は大阪で大伝道集会を開いた。
今回はいち早く義援金と救援物資を送ってくれたことは感謝だが、無言でと言うわけには行かなかった。

この度の日本での地震と津波は「終末のしるし」であるかもしれない、との発言をしたと報道されている。(CNN宗教ブログ
What are the signs of [Christ’s] second coming? War and famine and earthquakes … escalating like labor pains. ... Maybe this is it, I don’t know. We should pray and be vigilant. The Bible teaches us Jesus is going to return someday. Many of us we believe that day is sooner rather than later.
先の石原発言とは宗教的背景は異なるが、「キリストの再臨」を地震のような自然災害と絡めて取り沙汰されるのは何も今に始まったことではない。
ちょっとでも不穏な空気な中にさらされるとすぐ「再臨」を叫ぶメンタリティーは筆者が育ったキリスト教の中でもよくあったことだ。
今回の問題もまた、そのような宗教的、神学的解釈を施した発言をするのに適切な時だったのか、と言うことである。

共感福音書におけるイエスの「終末」の教えに関する解釈は様々である。
文字通り解釈に慣れた根本主義、福音主義の大半は、このオリブ講話(マルコの記述は『小黙示録』と呼ばれる)における天変地異的アポカリプティック表現をそのままキリスト再臨前の兆候と解釈する傾向が強い。
筆者はその解釈の可能性を全部否定するつもりはないが、歴史的に言って、イエスの預言者的使命とその行動の文脈から解釈するのならば、弟子たちの想像をはるかに超えた「キリストの再臨」と言う事態について懇々と説諭したと取るのは不自然だと思う。何しろ弟子たちは三度に渡る十字架と復活の予告さえ理解不能であったのである。その彼らにイエスが時間的にはるかに先の事態を果たして説明できたであろうか。
ルカの並行箇所で明らかなように、イエスの「終末の黙示」はもっと近い将来、イスラエルにとっての政治的危機・混乱を指し示していたことが見て取れる。ずばりローマによる神殿とエルサレムの破壊である。
これが最も自然な歴史的、文学的解釈であると思う。

問題は「終末の始まり」と「終末の終末」の間を生きる教会がこの箇所をどう解釈するか、である。

詳論する余裕はないが、先ほどのメンタリティーの問題としてみるならば、使徒の働きを見る限り、初代教会が「再臨」がいつ来るか、いつ来るかと気にしながら宣教している様子はみられない。
彼らはイエス・キリストおいて「終末」が到来したこと、つまり新創造が開始したことを根拠にして世界宣教に勤しんだのである。

キリスト者の使命は「再臨の時」を占うことではなく、神の国のわざを着実に進めることである。
時が良くても悪くても。
大恐慌の時でも好景気の時でも。
大災害があった時でも平時の時でも。

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