2011年6月13日月曜日

『教会における聖書の解釈』④

カトリック教会の教皇庁聖書委員会の文書「教会における聖書の解釈」(和田幹男訳)のコメントの四回目です。

今日は『第3部 カトリック聖書学の諸特徴』についての感想です。

前回は内容が絞られててコメントし易かったのですが、今回は第一部と同様内容テンコ盛り。適当に選んでコメントしなければとてもカバーできません。やれやれ。

では第3部のアウトラインを載せてみます。
A.聖書そのものの伝承におけるその解釈
  1. 再読(Relectures)
  2. 旧約聖書と新約聖書の関係
  3. 若干の結論
B.教会の伝承における解釈
  1. 正典の形成
  2. 教父たちの解釈
  3. 聖書解釈における教会の様々な成員の役割
C.聖書学者が果たすべき任務
  1. 基本方針
  2. 研究活動
  3. 教育活動
  4. 出版活動
D. 神学の諸分野との関係
  1. 神学と聖書本文の先行理解(precomprehension)
  2. 聖書解釈と組織神学
  3. 聖書学と倫理神学
  4. 異なる視点とその相互交換の必要性
この中で個人的に、プロテスタントとして、興味深いのは「B-3 聖書解釈における教会の様々な成員の役割」というところだ。
プロテスタントは聖書の解釈権を平準的に捉えることによって宗教改革時のカトリック教会の教導権に対して抵抗したわけであるが、それから今日まで5世紀近く経ってこの文書を読んでみると、大分プロテスタントに近寄ってきたような印象を受ける。
 それゆえ、このように教会のすべての成員に聖書を解釈するということにおいても役割がある。司教たちは、 自分たちの司牧的任務を実行する中で、使徒たちの後継者として、時代毎に聖書の解釈がなされてきたその生きた伝承の第一の証人であり、 保証人である。・・・司教の協力者として、 司祭たちには第一の義務として御言葉の宣教がある。・・・聖体祭儀共同体の司式者と信仰の養成者として、御言葉の奉仕者たちは、主要な責務として単に教えを授けるだけでなく、信徒たちが聖書を聞いて瞑想するとき、彼らを助けて神の言葉がその心に語りかけるものを聞いて、識別するようにしなければならない。
中世においてカトリック教会は「教える教会」と「教えられる教会」に二分されていたが、この文書では聖書解釈において「個々の信徒の役割」をどう捉えているかと言うと、
 聖霊は、当然キリスト教徒各自にも与えられており、彼らが自分の個人的生活の文脈の中で祈り、聖書を祈りながら学ぶとき、彼らの心が「中で燃える」(ルカ24:32参照)ようになることができるようになさる。・・・このように聖書を読むことは、まったく個人的性格のものとは言えないことを指摘する必要がある。信徒は教会の信仰の中で聖書を読み、また解釈し、つづいてその聖書を読むことの実りを共同体にもたらし、共通の信仰を豊かにするからである。
近代を潜ったカトリック教会は聖書解釈において歴史的批判的方法や、信仰共同体を豊かにするあらゆる近代的視点やアプローチを受け入れる用意がある、と言う開明性を備えている。問題は教導権をどのように処理するかと言う点であるが、プロテスタントが個人的聖書解釈権の原則に立ち分裂の連鎖を続けてきたのに対し、やはり教会の信仰の一致と言うことで教導権を保持することは妥協しないようである。
 すでに述べたように、聖書が教会全体の財産であり、司牧者と信徒たちすべてが「保ち、信仰宣言し、協力して実践に移す信仰の遺産」の一部をなすとはいえ、「書にされたものにしても伝承されたものにしても、神の言葉を権威をもって正しく解釈する任務がただ教会の生きた教導職に委ねられており、その権威はイエス・キリストの名において行使される」(『デイ・ヴェルブム』、第10項)ということも、依然として正しい。それゆえ、このように最終的には、教導職には聖書解釈が正真正銘であることを保証し、万一の場合、ある具体的な特殊な解釈が正真正銘の福音とは相容れないことを示す任務がある。教導職はキリストの体としての心が通う(KOINONIA)中で、この任務を果たすのであり、教会に奉仕するために教会の信仰を公に表現する。教導職は、この目的で神学者や聖書学者その他の専門家に諮問するが、それはその正当な自由を彼らに認め、彼らとは「自由を与える真理の中で神の民を守る」という共通目的をもって相互に関係し結ばれているからである(教理聖省『神学者の教会的召命に関する指針』、第21項)。
筆者の知る限り、聖書の個人的解釈権から派生するプロテスタント諸派の安定性のなさから、北米などではカトリックに改宗したり、聖書解釈中心より典礼的な要素の強い正教に改宗する者たちが増えている印象がある。
カトリック教会の教導権の主張はそう言う時代背景からは改めて強みになる可能性があるように思う。
逆を言えば聖書解釈で泡沫的になってしまうプロテスタント教会の中に、どのように「教えの一致」を保つ機能を発揮するかも問われているように思う。

とまあ、ほんの一部についてしかコメントできませんでしたが、カトリック教会の柔軟さと剛健さが両方垣間見られたように思います。

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