2011年7月6日水曜日

『教会における聖書の解釈』⑥

カトリック教会の教皇庁聖書委員会の文書「教会における聖書の解釈」(和田幹男訳)のコメントの六回目です。

今日は『結論』についての感想です。
と言うことでこのシリーズの最終回を迎えたわけです。

本文としては短い『結論』部ですが、現代において「カトリック聖書解釈」 が目指さなければならない要綱、あるいはその責務を要約しています。
しかし、その反面教師として再度取り上げられるのが『ファンダメンタリズム聖書解釈』です。

ここまで『ファンダメンタリズム聖書解釈』が槍玉に上がると言うことは何を意味しているのか、考えてしまいます。恐らくカトリックにとって『ファンダメンタリズム聖書解釈』は、「外の敵」ではなく、克服すべき内なる危険な傾向と捉えているのではないか・・・。

結論の要点の第一は、霊感された啓示文書である聖書の歴史的性格を根本におくこと。
対『ファンダメンタリズム聖書解釈』の位置取りでは、これが重要になります。
『ファンダメンタリズム聖書解釈』では霊感された聖書テキストの歴史文化的文脈が考慮されず、そのまま「非時間的真理」として、解釈されずに受容されてしまう、と批判しています。

当然その線で行くと、歴史的批判学的解釈の重要性が高調されます。
が、その限界も示されます。
一方で聖書テキストの歴史批判学的研究(通時的研究)が、共時的研究(修辞的分析、語りの分析、記号論分析など)に対する優先性が確認されるとともに、その上で共時的研究の補完的有用性も確認されます。

要点の第二は、少々筆者の深読みかもしれませんが、聖書テキストの歴史批判学的研究が大学と言うアカデミックな環境で発展してしまって、研究の目的が明示的でなくなり、断片化している状況に対する警鐘に思えます。
即ち、聖書が解釈されるのは信仰の養育のためであり、そのため聖書テキストの研究を教会の文脈、信仰の文脈に取り戻さなければならない、と言う責務がカトリック聖書解釈に課せられているという認識です。

さて、このような公的文書をプロテスタントの一牧師がいい加減な感想を言って終わる、と言うのは何か残念な気がします。
ただ個人的に全体的な感想を言わせてもらえば、啓蒙主義以降の近代化の中で聖書解釈が専門化し、アカデミックな世界の占有物となり、教会的伝統や信仰・神学的理解と切り離される状況に立ち至った経緯を受け止め、一方で学問的成果(聖書解釈の近代化)を評価しながら、自己の聖書解釈基盤の中に取り込もうとする強い意思を感じます。
ある面ではカトリック教会の伝承に位置づけられる啓示の書としての聖書と、近代の解釈手法や哲学的解釈学の観点を融合した聖書解釈とをバランスさせている、平衡感覚に優れた文書であるということが出来ると思います。

日本語でこの文書を論評したブログ記事など見つかればもうちょっと面白い感想文か書けたのではないかと思うのですが、邦訳した和田幹男神父の「解説」くらいしか見当たりませんでした。

英語の方ではFirst Thingsが、この文書が出版された翌年に三人の識者に意見を委嘱し、掲載しています。(Interpreting the Bible: Three Views

Paul M. Blowersは全体的に好意的な書評をしています。

ユダヤ教側からの発言として立てられたJon D. Levensonは最も手厳しい書評をしています。文書が立っている観点から、その理論と実践で乖離があることを具体的に数箇所にわたって指摘しています。


個人的には第三番目のRobert L. Wilkenの書評がバランスが取れていてこの文書の意義をよく掴んでいると思います。
という事で二箇所ほどウィルケンの書評から引用してこの記事のまとめとさせて頂きます。
But the significance of this report is not that it defends the legitimacy of historical criticism. Its timeliness is that it reflects a thoughtful turning away from the easy acceptance of the methods of biblical criticism and offers an argument on behalf of a more theological, spiritual, Christological interpretation of the Bible.

The value of the report of the Commission is that it offers a constructive response, one that is firmly rooted in the classical exegetical tradition of the Church, yet at the same time attentive to the intellectual developments of the last two centuries. What the Commission offers is a defense of the "spiritual interpretation" of the Bible.

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