2012年7月9日月曜日

ツールレーキ強制収容所

筆者の米国遊学時代、1982-1989年は加(カリフォルニア)州にいた。
現地の日系人教会(East Bay Free Methodist Church)に通っていたが、当時の一世の方々の年齢は70歳代から90歳代だった。

一世と言うのは戦前にアメリカに移民した方々で、広島や鹿児島など南の方の県からの方が多かった。
とにかく大変な苦労をして生きてこられた方々と言うことで教会の中でひときわ大事にされていた。

そんな苦労話の中で強制収容所の話も出てきた。具体的な話は余り聞けなかったが、収容所内の食堂が「メス・ホール」と言われていたことなど、初めて聞く語として覚えている。

日本人の移民とその子孫、日系アメリカ人二世、三世が第二次大戦中、アメリカ西部の州の砂漠地帯に作られたキャンプに強制収容されたことは一世にとっての苦労話の中でもひときわ重いものであったのだろう。その時の心の深くに刻まれた感情まではなかなか聞けなかった。

ただキャンプの場所として幾つか聞いた中に「ツールレーキ(一世たちの発音と表記はこのようだった)」があった。
Tulelake強制収容所は10あったキャンプの中でも一番厳重に警戒された収容所であった・・・ということをこのニュー・ヨーク・タイムズ記事で知った。

収容された日系アメリカ人のうちすべての成人に対し、アメリカ軍に通訳として雇用する条件として「忠誠度」を試す質問がなされたのだと言う。
Question No. 27 asked draft-age men whether they were willing to serve in the armed forces. No. 28 asked whether detainees would “swear unqualified allegiance to the United States” and “forswear any form of allegiance or obedience to the Japanese emperor, or any other foreign government.”
この質問にどう答えるかで家族に分裂が起きたりしたのだと言う。
そして忠誠度の低い者達がツールレーキ収容所に移送されたのだと言う。

今、この記事が書いているように、「強制収容所の意味」を問うための現地を訪れる旅が二年に一度行われていると言う。

当時一世たちと暫くの間親しくさせていただいた者として、この記事には色々感ずることが多かった。

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