2012年11月21日水曜日

主に神学ブログ 1

神学、と短縮形で言ってしまうと宗教多元主義の文脈では厳密ではなく、不遜に映ってしまう危険がある。
キリスト教神学の短縮形とご理解いただきたい。

日本語で読める「主に神学ブログ」のトップバッターに選んだのは、東京にある教会の牧師職を辞されて今は北海道の余市で生活をなされている後藤敏夫先生の
どこかに泉が湧くように 
である。
(まだ先生と呼んだ方がいいのか、それとも最早そのような呼称には何の未練もないのか、筆者には何とも言えないのだが、ここでは便宜上「先生」と呼ばせていただく。)

もともとはこの「主に神学ブログ」の連載でも取り上げることになるだろう、
のらくら者の日記
に何本か北海道での生活ぶりや神学的随想などを寄稿していたのだが、ご自身でブログを開設される事になり、以後続々とこれまで書き溜めた(?)説教敲やら、随想やらをアップなさっている。

2012年2月に開設して、既に160本以上のエントリーがあると言う極めて充実したブログである。

筆者もその一部しかまだ読んでいないのだが、僭越ながら「牧師の先輩」として学ぶばせていただくことは多いと思っている。
もちろんそれは神学に限らない。

さて最近の記事で関心を持って読んでいるのは「『神の国の証人ブルームハルト父子』覚書」 シリーズである。

後藤先生が「井上良雄先生」と言うブログ・カテゴリーを用意しているように、大いに影響を受けている方であるその井上良雄氏の『 神の国の証人ブルームハルト父子』(新教出版社:1983)について後藤先生が30年前に書いた文章がブログに再録された訳である。
はじめに
Ⅰ 敬虔主義から出て敬虔主義を越える
 1 敬虔主義の特質
 2 決定的転回点——ゴットリービン・ディトスのいやし
 3 敬虔主義を越える特質
Ⅱ 終末論をめぐって
Ⅲ 父ブルームハルトに対する幾つかの疑問
おわりに
 という構成になっているので、目下連載の途中である。

筆者はバルトも殆んど読まないし、ブルームハルト父子についても殆んど知らないが、暫く前
FEBC 
で井上良雄氏の「ブルームハルト父子」についての講演のようなものを聴く機会があった。
(期間限定なので今は見つけられないようだ。)

後藤先生の「覚書」の文章から読み取れるのは、ブルームハルト父子が敬虔主義の伝統の中から、「神の国」の福音のリアリティーを牧会経験を通して回復していくプロセスである。

また余白に後藤先生自らの福音派の伝統に対する反省的省察が挿入されている。

このあたりのことは書かれたのが30年前とは言え、日本の福音派の現状を考える時、依然として有効であると思う。

少し長くなるが引用する。
それよりもまず私たち福音派にとって重要なのは、福音を「神の国の到来」と理解すること から、先に述べたような敬虔主義を越える父ブルームハルトの特質が生まれたということである。著者も言うように、これは敬虔主義には終末論がないというの ではない。「『最後の事物の問題』の再発見は、敬虔主義においてこそ起こった」(182頁)とバルトもその事実を認める。しかし、著者はすぐに続けて、 「ただし、それは、千年王国説という形における終末論であった」(182頁)と言う。この指摘は、敬虔主義的伝統に立つ教会の終末論に対して、今日でもほ ぼそのままあてはまるだろう。

現在福音派に支配的な終末論的関心は、主に究極的終末に至るシナリオをめぐるものであり、そこでは、今も含めた「歴史」は、 まったくと言っていいほどに関心の対象とはならない。「歴史」が問題となるのは、人々に救いの時を与える舞台としてであるか、終末論的シナリオの成就とし てである。もちろん、福音派諸教会の終末論を大雑把に一つに語ることは、歴史的にも神学的にも厳密さを欠くことではある。しかし、そのようなものが福音派 に支配的な終末論的雰囲気であることは確かなことのように思われる。

これは福音派の教会において、「神の国」について語られないということではない。もちろん、そういうことはあり得ない。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ 6:33)という御言葉が引用される機会は少なくない。しかし、多くの場合、それは、「神さまのことをまず第一にする」というように、「私」の生活の優先 順位のこととして語られる。それが大切なことではないというのではない。すべての神奉仕は人間奉仕であるべきだというような「気の効いた逆説」(18頁) が、活ける神への畏れを忘れさせ、単純にキリスト者としての生活があるということさえあいまいにするとしたら、そこで見つめられているものは一体何だろ う。だがしかし、私たちが「神さまのことを第一に」と言うとき、そこで言われている「神さまのこと」とは何だろう。神の国をまず求めるということが、ほとんど「私」の生活におけることだとすれば、神の義をまず求めるのは、神の国のためだろうか、それとも「みな与えられる」ためだろうか。(以上「覚書」5から。アンダーラインは筆者。)
先日久し振りに「日本福音主義神学会」の東部部会研究会講演に行って来た。テーマは「キリスト者と原発」である。
このようなトピックが選ばれたこと自体は喜ばしいことだが、神学的分析の切り口(「キリスト教の科学観」や「文化命令」)がいささか旧態然と感じた。
「主イエス・キリストの主権」や「神の国」と言う新約聖書の福音メッセージとは殆んど切り結ばれていなかったような印象を覚えた。


最後の一文は乱雑な感想で蛇足だが、日本の福音派も少しは後藤先生の30年前の分析より一歩進んだかもしれない、と言うことの例証として言及しただけ。


いささか尻切れトンボのような感じだが、とにかくまずは日本語で読める神学ブログの紹介をスタートさせたことでよしとしよう。

2 件のコメント:

  1. 小嶋 崇先生
     拙ブログをご紹介下さり有り難うございます。山里から世間に開いた窓のようなの個人的な便りですが、小嶋先生のような見識ある牧師先生にお読みいただき感謝しています。御教会で尹東柱の詩の朗読会がなされたことを知り、大変驚きました。いつか彼についても書きたいという願いはありますが、難しいことです。ご多用な季節になります。主が先生を御国の前進のためにお用い下さいますように。
    後藤敏夫

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  2. 初めまして。丁重なご挨拶のコメントありがとうございます。

    当方のブログの文章は御ブログとは異なり粗雑で少々読者には不親切な言い足りなさなどがあります。そんなブログで勝手に紹介させていただきました。内容も少々我田引水みたいになってしまいました。お許しください。

    尹東柱の詩の朗読会は立教大学の方で毎年行なわれているようです。
    http://www.rikkyo.ac.jp/events/2012/02/10352/

    そちらは寒い冬を迎えていることと思います。先生もお体を大切にお過ごしください。

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