2014年2月20日木曜日

(3)機能的意味等価性

暫く前にちょっとした騒ぎとなった本がある。

濱野智史の前田敦子はキリストは超えただ。

このタイトルを目にして筆者が思わず呟いた(ツイート)が拾われ、ネットのニュースに名前を出され、その後週刊誌の記事の取材まで受けた、と言う因縁めいた本だ。

 まさか自分までがこれに絡んでネットメディアに巻き込まれてしまうなんて、ちょっとした「心の傷」を負った。(勿論冗談の意味で)

 その後遺症もあって、その時は実際に読んでやれと思ったのを控えていた。

 そしてほとぼりが冷めた頃を見計らって図書館から借りて(ここ大事)読んでみたわけである。

 読後感を一言で言ってしまえば、両価的、と言おうか・・・。
 それを説明する前に少し長くなるが著者の「AKB(あっちゃん)回心体験」を引用してみよう。
 その翌年の第二回総選挙で、あっちゃんは大島優子に一位の座を譲った。その次の第三回選挙で、一位の座に返り咲いた。それは祝福されるべきことである。事実、武道館はあっちゃんコールで沸き立った。しかしそれでも彼女は、自分の存在を快く思わないアンチたちがいることを思わずにはいられなかった。だからこそ彼女は、「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」と発したのだ。この、自らを切り裂くような悲痛なまでの願いに、AKBヲタは震撼せざるをえない。その徹底した利他性に感染せざるをえないのだ。
 正直に告白すれば、私はあっちゃんのこの言葉を聴くまで、あっちゃんのみならず、AKBそのものに対しても軽いアンチだった。それまで私は、いまの日本社会でもまだ多数派であろう、AKBに対する無関心層とまったく同じ感覚を抱いていたのである。「なぜ、こんなかわいくない子たちがテレビに出ているのか」「なぜ、あっちゃんのような子がセンターなのか」。私も当然のように、ごく自然に、そのようなネガティブな印象を持っていたのだ。
 しかし私はあっちゃんの利他性に満ちた言葉を聞いた瞬間、ひざまずいた。AKBに転んだのである。あっちゃんがいかに巨大なアンチの悪意に耐えてきたのか、その苦しみを瞬時に直覚してしまったからだ。私のAKBヲタ=信者としての日々は、そこからはじまった。それからというもの、私にはもう、AKBの彼女たちがあまりの輝きを持った聖なる存在にしか、見えなくなっていったのである。(048-049ページ)
投稿題を「機能的意味等価性」としたのは、本人が「キリスト」をAKB(あっちゃん)と言う宗教体験を説明するのに際して取っている方法だからだ。
 簡単に言えば「あっちゃんの利他性」はキリストの自己犠牲と機能的に意味等価である、と主張しているのだ。
 実際タイトルでは「キリストを超えた」などと言っているが、実際には利他性を孕む社会現象の中にAKB(あっちゃん)のような「リトル・キリスト」が出現する可能性があることを示唆している。(特に036-037ページあたりの文章)

 彼は回心とは言わず、「転んだ」と表現している。キリシタンや第二次大戦中の知識人の「転向」を匂わす言葉だ。
 世間的に見てAKB(あっちゃん)を宗教することは彼のようなアカデミックな仕事をしているものには「後ろめたい思い」「恥じらい」があるのかもしれない。

 彼は本の中で何回か「超越」と言う言葉を使ってこのAKB(あっちゃん)宗教の「真正性」を示唆している。

 著者の経験は、ウィリアム・ジェームズの「宗教的経験の諸相」の範疇には入るであろう中身はあるのだと思う。それが両価的といった理由である。

 ただ彼が自己が入り込んだAKB(あっちゃん)宗教現象を過度にキリスト教を参照枠にして説明する時、「超越」が指示しているものが余りにも落差があるのである。

 比較宗教的に言えば「AKB(あっちゃん)宗教」と「キリスト教」では「超越」の内容も、次元も、歴史的存立基盤も比較にならないほど、と感じるのは筆者のような立場の者からは致し方ない第一印象だ。

 恐らく「AKB(あっちゃん)的宗教」と機能的意味等価性を持つ現象は案外日常的にありそうな気がする。世俗化した現代人が「宗教」に感染するのはひとえに免疫がないからではなかろうか。

 オウム真理教を引き合いに出すまでもなく、現代人が潜在的に「宗教に感染する下地」はそれなりにある。

 問題はどのような宗教に引っかかるか、ではなかろうか。

 AKB(あっちゃん)的宗教に感染する程度であれば害はない。
 いやタカラヅカや韓流ドラマや、所謂はまっちゃうものは色々あろう。
 そしてそれらはストレス発散になったり好奇心を興して人生に刺激を与えるポジティブな精神的健康効果があるのではないかと思う。

 でも今のところはそんな位に言っておくのが妥当ではなかろうか。
 「キリスト」や「キリスト教」を引っ張り出して張り合う必要はないように思う。
    

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