2015年1月6日火曜日

(5)マルコ7章16節はなぜ「抜けている」のか、①

いやー、あらためて指摘される見てみると本当だね。
今まで殆ど気にも留めなかった。

先ず「マルコ福音書7章16節が抜けている」ことにどうして改めて気づいたのかを説明しよう。


先日マイケル・バードが以下のツイートをした。
で、リンクを辿ってみると(当たり前だが)バード/ウィリッツのユーアンゲリオン・ブログの記事であったが、ただ単に「ダニエル・ボヤーリンのモスクワでの講演動画」が置いてあるだけだった。

で、15分足らずの動画を見た。(面白かったが、腑に落ちない部分がかなり残った。)


と、長い話を短くすると、その後この動画を何度か繰り返し見たのだが、(ボヤーリンの「マルコ福音書7章16節が抜けているのは陰謀だ」説は置いておいて)、彼の解説はある程度説得的だが、イマイチ飲み込めないのである。(全体の流れを理解できないでいる、と言った方が正確だが。)


ここでボヤーリンの動画は一先ずおいて問題箇所を見てみよう。

(1)新共同訳聖書
7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
7:16 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。
7:17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。

(2)新改訳
新改訳では15節の脚注に「後代の写本に16節として、『聞く耳のある者は聞きなさい』を加える」とある。

新共同訳で「底本」、「異本」辺りのことについて追加すれば、
(3)United Bible Societies編のギリシャ語新約聖書
では、16節の欠落については「B」判定となっていて、(この判定を解説する)メッツガー編のA Textual Commentary on the New Testament、では
This verse, though present in the majority of witnesses, is absent from important Alexandrian witnesses... It appears to be a scribal gloss (derived perhaps from 4.9 or 4.23), introduced as an appropriate sequel to ver. 14.
と解説している。

つまり大多数の写本では「16節は欠落していない」が、「重要なアレクサンドリア写本で欠落している」ため、アレクサンドリア写本の信頼性を取った、と言うことである。

また欠落の説明として「写本筆者士による注記ではないか」とある。
写本筆者士が4章9節や23節のように、(本文では15節で無造作に終わって17節へと繋がっていくのを)、15節の後「聞く耳のある者は聞きなさい。」と(16節を)挿入して体裁を整えようとしたのではないか、との推察である。


※次回はボヤーリンの解説を取り上げてみよう。

0 件のコメント:

コメントを投稿