2010年7月11日日曜日

二つの福音?

ナザレのイエスは「神の国」の福音を宣べ伝えた。
イースター後のイエスの弟子たちは「イエス・キリスト」の福音を宣べ伝えた。

これら二つの福音は同じ福音なのか。違うとしたら何がどう違うのか。

先ずイエスの福音宣教で抑えておかなければならないポイントを二つほど。

①イエスは「イスラエルの失われた羊たちを集める」ために遣わされた、と語っていること。
イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけませんイスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。行って。『天の御国が近づいた。』と宣伝べ伝えなさい。
(マタイ10:5-7、新改訳)
しかし、イエスは彼女に答えて、「私はイスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
          (マタイ15:24、新改訳)

②イエスのイスラエル宣教は、神の審きのカウントダウンが刻一刻と進んでいる中で行われた緊急のものであったこと。
彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。
(マタイ10:23、新改訳)
エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
(ルカ19:41-44、新改訳)

イエスの神の国の福音は対象がイスラエルに限定されたものであり、さらに時間的にも逼迫したものであった、と言うことが窺われます。

イエスは神の国が到来していることを宣教の言葉と行い(悪霊の追い出し、癒し、罪人の招き)によって示しました。

多くの人はナザレ出身の“預言者”にエリヤやエリシャの再来を見、神の国の到来を嗅ぎ取ったでしょう。しかしエレミヤのような滅びと亡国の警告を注意深く聞き取った人は少なかったのではないでしょうか。

ナザレのイエスは最終的にエルサレムでの死を意図されて都に向かいます。(ルカ9:51、13:31-35)当時のイスラエルの人々がメシヤに期待していたのとは全然異なった形で「イスラエルの贖い」を成就するために。

イエスの弟子たちは三度の死と復活の予告にもかかわらずイエスが成し遂げようとしておられたことを理解しませんでした。そのような道程は彼らのメシヤ像からは大きく外れていたのです。
しかしイエスは繰り返し、その道程が「人の子」メシヤのものであることを聖書から予告していたのです。

イエスの神の国宣教は“イスラエルの預言者”の死によって失敗に終わったのでしょうか。
ローマによって十字架刑に処刑された他の偽メシヤたちと同じように・・・。

イエスの弟子たちは殆どそのように理解したと推定されます。(ルカ24:21)

当時のユダヤ人の歴史的視点から見れば、イエスに従った者たちのメシヤ運動はこれで終了です。

では、一体いかにして使徒たちによる「イエス・キリストの福音」がそもそも発生できたのか

イエスは死んで三日目に復活した、からです。

イエスが復活したからこそ、まさにイエスは真正のメシヤであり、真の王であり、すべてのものの主であることが明らかとなったのです。(使徒2章、特に36節、ローマ1:4)

「神の国」の到来は、イエスの死(古い世の終焉)と復活(新しい世の始まり)によって明々白々となった、その確信に基づいて使徒たちは神の国の福音を「イエス・キリストの福音」「御子の福音」として宣べ伝えたのです。

ナザレのイエスと言うお方の歴史的時点を境に、世界は更新したのです。イスラエルの契約が更新したのです。
そしてイスラエルの贖いが成就し、イスラエルのメシヤが神の右の座に着くことによって(マタイ28:18)、「罪の赦し」が(ルカ24:47)、「御霊の賜物」(使徒2:38-39)が、全民族に宣言されることになったのです。
なぜならイスラエルもイスラエルのメシヤも、全民族の祝福のために召されたからです。
このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。
(ガラテヤ3:14、新改訳)

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