2010年8月4日水曜日

性格と品性

血液型でその人の性格がある程度分かる。
と思っている人は案外多いと思います。
実際どの程度まで信じるかは別として、血液型と性格を結びつける話題には事欠きません。話題として入りやすいですし・・・。

筆者はO型です。よく言われるのは、O型は大雑把。何事もきちっと決めるのではなく、“いい加減”にして置くのを好む、と。
対照的なのがA型。几帳面。きちっ、きちっとしていないと気がすまないタイプ。

血液型で性格を判断できるのはかなりあいまいな範囲まで。後は個人差や、一個人に別の性格タイプが共存するのが普通ではないかと思います。
性格は遺伝的に受け継いだもの(血液型はその一つ?)もあるでしょうが、やはり後天的なものの影響も強いはず。

そこで話題にしたいのが「品性」。

最近キリスト教会で度々話題に上がる「牧師不祥事事件」は、個人の人格的欠点や性格の問題に還元するだけでは不十分です。
不祥事を起こしていない牧師も、そしてキリスト者も、等しく「品性」の問題が問われている、と筆者は感じています。

キリスト者の品性は本で学ぶのではなく、人から学ぶことが殆どです。
模範となるべき人物の品性を学ぶのです。
たとえ「キリスト者の品性の模範はイエス・キリストである」としても、実際に対人関係にあるキリスト者たちが模範となるべきです。
その点牧師の品性は重要だと思います。

牧師が目指すべき「キリスト者の品性」のエッセンスは何でしょうか。

恐らく最も抱合的な品性は「愛」だと思います。
しかし、「愛」は実に多面的で、時に捕らえどころのない、あるいは恣意的に解釈される品性でもあります。

筆者は、「愛」を具体的人間の模範となる品性として考える時、次の三つの要素を考えます。

①寛容
人に対して寛容であると言うことは、相手を様々な弱点や欠点を持つにもかかわらず、一個の人格として尊重できる、と言うことではないかと思います。

②忍耐
寛容は時に忍耐と言う「態度」、として持続されることを要請します。愛が相手を建設的に受け容れようとする場合、欠点の多い者同士必要になるのはしばしば忍耐です。

③謙遜
これが最も判定しがたい愛の品性ではないかと思います。しばしば謙遜は自己満足の範囲に留まりがちです。自分が謙っていることに関心が向き、相手を建て上げるために、自己を制御するような謙遜にならないことが多いのではないかと思います。

筆者は牧師としてどれだけ、寛容と、忍耐と、謙遜を持って兄弟姉妹に仕えているでしょうか。

皆さんの教会の牧師たちはいかがでしょうか。

一歩進んで、牧師だけでなく、お互い教会の兄弟姉妹が、どれだけ、寛容と、忍耐と、謙遜を持って仕え合っているでしょうか。

私たちの品性を磨くために他者が必要なのではありません。私たちの品性が磨かれるのはあくまで結果です。もちろん目標にすることは結構なことですが・・・。

大事なのは、お互いを建て上げる、つまり主の体である教会が建て上がるために、寛容と、忍耐と、謙遜が必要とされていることではないでしょうか。

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