2010年8月16日月曜日

主日礼拝は宣教である

久し振りに“キリスト教”的な話題。

キリスト者が、日曜日教会へ行って礼拝することには色んな意味があると思います。

信徒にとっては“お勤め”のようなものに感じられているかもしれません。
少なくとも「日曜日に礼拝へ行く」ことは、殆どのキリスト者にとって“普通”のことに思われているに違いありません。
もちろん最近では数日前のブログ・エントリー『1%の壁』で書いたように、教会に行かない、礼拝に通わない、“クリスチャン”も大勢いることが分かってきましたが・・・。

私たちの小さな教会では、集まる人数は少ないですが、できるだけ「公同の教会の礼拝」であることを意識しようとしています。
同時期に持たれている世界中のすべての礼拝が祝されるように、主の臨在が伴うように、お祈りしています。

もう一つ大事なこととして自覚しようとしていることが、「礼拝は宣教である」と言うこと。

どう意味でそうなのでしょうか。

それは、私たちが礼拝に集うと言う行為において、私たちは共同で、公けに「イエス・キリストを『主』と宣言」しているからです。回りの人たちがそれに気付いているどうかの如何に関わらず、そうなのです。

そもそも初代のユダヤ人キリスト者たちがイースター後、ごく初期の頃から、「週の初めの日」に礼拝に集まるようになりました。
これは私たちが想像するよりもはるかに画期的なことだと推察されます。
何しろ「安息日(土曜日)」遵守を、異邦人たちと自分たちを区別するアイデンティティーの根幹のようにしていた人たちが、その安息日ではなく、主の復活日である週の初めの日、つまり日曜日を礼拝の日と定めるようになったからです。
その意義は復活の主を宣言することにあったに違いありません。

私たちはこのような初代ユダヤ人キリスト者の「変革された世界観」に基づく「日曜礼拝」を踏襲しているのです。
残念ながらその意義を深く捉えているとは言いがたいですが・・・。

しかし第二バチカン公会議以降、カトリック教会も「ミサ」の語源である「ミッシオ」に宣教的な意義を見出し、その意義を回復しつつあります。
聖体拝領時に発せられる言葉「ミッサ」から、主イエスが愛されたこの世に再び「遣わされる」のだ、という意識を持つように指導されてきているからです。

どちらの意味にしても、どちらの礼拝の仕方にしても、主日礼拝は宣教であり、宣教に遣わされる時であることを自覚することは、現代を生きるキリスト者にとって大事なことではないかと思うのです。

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