2010年9月24日金曜日

N. T. ライトと「パブリック」

「パブリック・スクエアでの神学」
に寄せて

最新の「のらくら者の日記」に久し振りにライト師のことが取り上げられていました。
「のらくら者の日記」ブログは度々N. T. ライト師のことを紹介してくれる希少なサイトです。

筆者はライト師とは直接面識はありませんが、「のらくら者」さんは直に講義を聞いたり、同席したりしたことがあるので、そのお人柄をより肌で感じられていることと思います。

さて「パブリック・スクエアでの神学」のポストで、ライト師が「公共の場」に出て論ずることの重要性を強調しておられたことを、「のらくら者」さんは回想されておられます。

この「パブリック」と言う言葉、ライト師にとって幾つか重要なニュアンスを含むものです。

現在筆者は、10/9の「N.T.ライト読書会」に向け、発表メモを用意しているところです。
(当ブログでも9/9のポストで案内させていただきました。)

あらためてこの「パブリック」の意義を考えさせられています。

以下簡単に二点だけ紹介します。

① パブリック・ヒストリー
パーソナル・ヒストリーという表現がありますが、敬虔主義やリヴァイヴァリズムの影響(パーソナルな信仰表現の強調)、によって「イエスの救い」が所謂「救いの証し」のように“個人史的”に語られることへのチャレンジとして、ライト師はprivateに対するpublic と言うことをたびたび強調されます。

また神学論議(キリスト論)でも、The Story of Jesus を語る時、一世紀ユダヤ社会における、ナザレのイエスのイスラエル宣教、ローマ政権のもとでの十字架刑、復活顕現に対する多数の弟子たちの証言、など、しっかりとした歴史的基盤に則って議論されることが必要だと主張されます。
そうでなければ「自分たちの都合のいい部分だけつまみ食いしたイエス」を語ることになりかねません。
啓蒙主義は歴史批評的ツールをキリスト教に突きつけました。しかし、それは却って「史的イエス」への懐疑論的態度を強めました。
また、啓蒙主義の「信仰を公的領域からプライベートな領域に押しやる傾向」は、学者たちを「パブリック・ヒストリー」に支配されない「イエス像」を作りやすくしたと思われます。
But there is simply no point using the word 'Jesus' at all within theology unless one intends to refer to the Jesus who lived and died as a Jew of the first century. Unless quite strict controls are in place here, a whole range of theological debates wander off into pointlessness. And such controls are, I suggest, in place when we attempt serious 'Christian theology'. ...
The Christian reader of the New Testament is committed to a task which includes within itself 'early Christian history' and 'New Testament Theology', ... And this fuller reading of the New Testament neither 'excludes' nor 'contains' Jesus, nor does it merely presuppose him. Rather, it includes as one vital part of itself the task of telling the story of Jesus, with the assumption that this story took place within public history.
(The New Testament and the People of God, p.139.)
②他の世界観的ストーリーとの対峙
聖書が内包する「世界観的ストーリー」を語ることは、宗教的であれ非宗教的であれ、他の世界観的ストーリー(グノーシス主義、汎神論、啓蒙主義、諸宗教)と対峙せざるを得ません。
そしてそれが公開の場でなされる対話ではなく、対内的な場であっても(教会での信者向けの説教)、「ナザレのイエスのストーリー」を語る際、他の世界観的ストーリーとの対話を意識するべきであり、「イエスのストーリー」が「パブリック・ストーリー」であることを自覚するべきでしょう。
The more open we make the Bible, the more we must expect that dialogue with our friends and neighbours of other faiths will include the clear statement of radically different world views. (The Book And The Story)

At the same time, theology-any theology-needs biblical studies, since the claims of any theology must sooner or later come into contact, perhaps, conflict, with the stories contained in the Bible, and if a worldview of any sort is to be sustained it must be able to meet the challenge posed by its rivals.  (The New Testament and the People of God, p.138.)

0 件のコメント:

コメントを投稿