2010年9月26日日曜日

説教と学問

プロテスタント教会の牧師の主たる任務の一つは説教、と言うことには異論はないと思います。
日本に幾つくらいプロテスタントの教会があるか正確な数は知りませんが、少なくとも毎日曜日何千もの説教がなされているはずです。

説教をタイプに分けると大体次のようになると思います。
①講解説教
②主題的説教(神の愛、赦し、隣人愛、etc.)
③一応聖書箇所には言及するが、最近の問題とか、信者さんのこととか、何でも話題を選んでしゃべり通す。最後に祈りで何とか締めくくる。

もちろん「説教タイプ」について網羅しようと言う意図はありません。
ただ牧師が説教するに際しどのように読書や学問が関わってくるか、と言う問題と絡めるために大雑把にまとめてみたのです。

③のタイプは、現在その教会やその信徒が抱えている問題に対して、新聞やテレビや、雑多な読書や、それこそ今だったらネットサーフィン等、外から入ってくる情報を取り込んで関連させるような“お話し”が中心になるでしょう。聖書の引用はそれらの問題や話題に関連すると思われる箇所を“適当に選ぶ”ことになるでしょう。
筆者の勘ですが、いくつも集会を抱えていたり、忙しくて聖書、そして聖書に関連することを十分学ぶような時間のない牧師は、大体このような説教を多くするのではないかと思います。

②のタイプの説教をするためには、それなりに神学の勉強や、キリスト教書を読む必要があります。ただ主題の選択に関しては、その教会や通っている信者の必要や関心に左右されることも多く、聖書が教える主題を系統的・通覧的に説教する牧師はそれ程多くないと思われます。

①のタイプの説教をする牧師は、聖書辞典や注解書をネタ本にしていることが多いと思います。原典釈義を行った上で説教している牧師も稀にいるかもしれません。

①のタイプは、最もオーソドックスと言えます。書斎に聖書辞典や神学辞典、注解書をいくつも揃え、聖書各本の研究書も時々必要に応じて購入し、とにかく聖書からなるべく綿密に説教できるように準備しようと言う構えを持った牧師です。(実際に購入した本を読むか、積読かは様々な条件に左右されます。)

筆者は副牧師時代から、殆ど①のタイプできました。
と言っても、ある時までは神学校時代の学びの蓄えを食い潰す形でやっていました。
新しい本の学びに入る度に、注解書をいくつも買って、比較しながら、・・・なんて言うようなものではありませんでした。

ある程度行き詰まりを感じて始めている時でした。と言うのも「聖書全体に明るい」と言うレベルには到底達していない訳ですから、確かに聖書から説教はしていても、自分が暗い部分(筆者の場合は特に『終末論』)にはなかなか踏み込めませんでした。

そんな状況にいた筆者に、一つの大きな転機を与えた本があります。
それは自分で探して購入した本ではなく、たまたま友人から贈られた本でした。

G. B. Caird, NEW TESTAMENT THEOLOGY (1994)

この本はそれまでどう解釈していいのか困難であった(だから無意識に避けていた)終末論的箇所に「目からうろこが落ちる」ような光を何回も与えてくれました。
聖書は読み方によってはこんなに理解可能なのだ、と言う面白さ、解放感を与えてくれた本でした。

それだけでなく、博識な聖書学者であるケアードは聖書学の専門雑誌の編集もしていた関係で、最近の研究書にも通じていて、例えばマタイ福音書研究ならこれとこれとこれ、と言う風に脚注に丁寧に紹介していました。それを頼りに十冊余購入しました。
この本がきっかけで俄然「聖書学」の学びに火が点いたわけです。

それ以来十余年が経ちますが、二つのことを気付かされています。何とかしなければならない重要な問題だと思っています。
①仮に最近30年くらいの期間を考えても、聖書学(特に新約学)の研究は広範に深く進んでいます。
②聖書から説教するはずの牧師たちが、これら最近の研究成果を説教に反映させられていません。

この大きなギャップをどう埋めたら良いのか、と言うのが筆者のこの十年余の課題となっています。

一つ目のギャップは、牧師自身が先ず最新の聖書学研究を学ばなければなりません。
学びを通して、今までの聖書解釈を大きく変更させられる可能性があります。その葛藤や軋轢と対峙しなければなりません。
二つ目のギャップは、最新の聖書学の成果を説教に反映させる場合、聴衆をどうリードするかと言う問題です。やたらに「彼はこう言っている」「最新の学説によるとこの箇所はこういう解釈になる」などとぶつけても、聴衆はなかなか咀嚼できず、信徒が説教に期待していることとも齟齬を来たし、混乱が生じます。


試行錯誤の中で、筆者が会得し始めているポイントは、「聖書の包括的メッセージ」の視点から説教する、と言うことです。
この「聖書の包括的メッセージ」の視点自体が、最近の大きな研究成果です。
この「大きな絵」を絶えず意識しながら、講解箇所を説教することを心がけています。
「大きな絵」を意識することが、その時学ぶ「一節」「一パッセージ」の字義的・歴史的・文脈的詳細に埋もれてしまわないために必要である、と肝に銘じています。

3 件のコメント:

  1. 大筋で同感ですが、自分の今の認識としては、その逆の懸念があります。

    >原典釈義を行った上で説教している牧師も稀にいるかもしれません。

    悲しくも、これが現実なんでしょうね。牧師を養成する神学校は何を教えているんだろうかと疑問になるところです。
    例えば、シェークスピアを教えるのに、英語がわからない、という教授がいるでしょうか。
    シェークスピアの様々な評価や研究も大切でしょうけど、重要なのは「原典講読」だと思います。

    >「大きな絵」を意識することが、その時学ぶ
    >「一節」「一パッセージ」の字義的・歴史的・
    >文脈的詳細に埋もれてしまわないために必要

    この「大きな絵」によって、本来の「一節」「一パッセージ」の意味が歪められてしまう、ということがないでしょうか。それが、今の説教における、神学から聖書を読む(②と③)、という危険性だと思っています。

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  2. またまたコメントありがとうございます。
    コメント一つ目のポイントは、残念ながら筆者も含めて現実だと思います。
    そこで筆者の場合だと聖書学の専門家のお世話になるわけですね。実際上、中途半端な原典購読能力で釈義するのに対し、十分信頼できる複数の聖書学者の研究を参考にすることは、牧師が複数の聖書翻訳を参照することも条件にすれば、それ程悲観的なものでもないのでは・・・。
    コメント二つ目のポイントは、「神学」と言う少々「組織された解釈枠組み」を指す場合には、懸念は当たっていると思います。聖書本文の意味の方が、たとえ伝統的神学的解釈であっても、優先するはずです。その意味で聖書解釈者は「聖書の意味が、絶えず新鮮な意味を持つ可能性」を考慮する必要があると思います。
    筆者の「大きな絵」は聖書自体が持つストーリー構造を指していて、神学的なスキームよりもっと根本レベルのものを意図したものです。参考としてはルカ24章でイエスご自身が「聖書はわたし(キリスト)について書いている」と言う時の解釈枠で、表層の意味ではなく、イエス・キリストに焦点が来る聖書全体の連関を下支えするようなストーリー構造のことです。

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  3. いつも丁寧に返信して下さりありがとうございます。
    ブログは掲示板ではないので、あまり多く書き込まない方がいいかな、と思いながらもちょこちょこコメントしています。

    「大きな絵」の類比が「聖書自体が持つ」「神学的スキームよりもっと根本レベルのもの」とわかり、納得しました。

    それと同じかわかりませんが、例えば以前このブログでも紹介されていた、Jesus and the Eyewitnessesで主張しているように、福音書を読むアプローチとして、「史的イエス」の「だれだれのイエス」であったり、福音書記者の個別の神学を検討するよりも、目撃証言として、全体が指し示すイエス像をもっと素直に読めばいいのに、と思います。
    その意味で、「神学より聖書」そのままでいいと思っています。

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