2010年10月1日金曜日

「教会」のヴィジョン

「本を枕に‐スピリチュアルな日々」

というブログ(クリスチャンの間ではかなり有名だと思いますのでわざわざ筆者などが紹介する必要のないことと思いますが)で、最近刺激を受けたのが(教会の)ビジョンに関わる二つの連載ポストです。

ビジョンだけで充分ですか

ビジョンに含まれる「目的」「イメージ」、「付随する価値」 


牧師ではなく、信徒の方がこのようなことに深く関心を払われていることに敬意を表したいと思います。(信徒に対して差別的なニュアンスに響いてしまうと心外ですので、一応念のため書き添えておきます。)

同感させられるところが幾つもありました。

たとえ人数が少なくても一つのグループ・組織として機能するためには単なるビジョンやスローガンだけではなく、それを実践し遂行するに至る様々な過程においても、言語化したり、イメージ化したりすることが必要であることを指摘されていると思います。

さらに「究極的な到達地点」が何であり、どのような価値観に基づくものであるかを評価するモメントがないと、途中の実践や・努力が異質の手段に堕してしまう陥穽があることを指摘していると思います。

実は、筆者が当教会の主任牧師になって今でも(足りない)頭を悩ましている問題です。充分突き詰めて答えを出すには時間がかかる問題だとは思いますが、なかなか継続的に考えるのが大変に感じることがあります。

筆者が当初キーワードにしたのは「キリストの弟子」と言うフレーズでした。それで教会の方のウェッブサイト(このブログではありません)の方に、以下のような一文章で表しました。

わたしたちは、聖書からじっくり学ぶ、キリストの弟子たちの群れを目指しています。


筆者が属する群れは、福音派と称する前は、ホーリネスの流れを汲む、リヴァイヴァル運動の影響を色濃く持っていました。ですから何よりも「個人的回心」が前提となり、そして「聖潔の経験」へと「救いの階段」を登って行くよう勧められたわけです。
この“体験的”キリスト者の成長観は、メソジストの祖ジョン・ウェスレーまで遡るものですが、やはり一つの時代神学的枠組みが背景にあると思います。もちろん“聖書的”であることには違いないのですが、「聖書的である」と言う規準は大変巾が広いものです。

それで筆者が考えるようになったのが、より原始教会的、使徒的枠組みで見るとどうなるのだろうか、と言う問題意識でした。
そのような枠組みから半ば直観的に導き出されたのが「弟子」と言う言葉でした。
キリストの弟子は、ある意味一生涯変わらない視点です。
段階的、体験的発展、のようなものを除外しませんが、本質的に弟子であることは、その始まりから終わり(終わりがあるのかどうか分かりませんが)まで終始一貫変わらないものだと思います。

「キリストの弟子たちの群れ」を目指す、と言う表現自体は分かりやすいと思いますが、それ程自明ではありません。それこそ多様な人たちが自称「クリスチャン」と言えるように、中身の問題を取り払って、「レッテル」だけのことにしたら、これだけでは不十分です。

言葉を補ってより明瞭にしていかなければならないと思って付け足したのが、「聖書からじっくり学ぶ」と言う部分です。このことは「キリストの弟子たるために聖書が不可欠である。あるいは聖書を読みながら自己の弟子たる姿を明確にして行くことの必要性を意図した文です。

現在この文章をさらに膨らました「教会のビジョン」文章を、既に教会ウエッブサイトに掲載していますが、その紹介はまたの機会に譲ることにいたしましょう。

4 件のコメント:

  1. 興味深く読みました。私のブログはそれほど有名ではないですよ。閲覧者が一日平均70-100人くらいです。

    各教会、いろいろとミッションステートメント、ビジョンステートメントを明確にするために、試行錯誤しておられるものと思います。教会のあり方、自分の目指すべき方向、たいへん内面を探られる作業となると思います。
    でも、ほんとは苦しくて楽しい共同作業になればいいですね。日本広しといえど、それを行っているところはまれではないでしょうか。

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  2. また一言だけすみません。。
    私は「本を枕・・」というブログ知りませんでした。
    その方の記事も少し読んでみましたが、やはり自分としては「ビジョン」という教会用語が、はたして聖書的なのかどうか疑問に思います。

    正確に言えば、聖書に書かれている「幻」を、なにか自分が思い描く理想とか、夢とかに解釈してしまっているように思いますが、例えば箴言29章18節の「幻」は、「律法」と並行していることからわかるように、神の命令・神のことばを現しています。

    預言者の中で、夢や理想という意味でのビジョンを持って、それによって動いたり、あるいは教会がビジョンを持って成長した、というような聖書記事があるでしょうか。

    「ヴィジョン」「幻」という翻訳が一人歩きをして、アメリカのプラグマティズムと結びついた結果が、今の教会用語としての「幻」ではないでしょうか。

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  3. クレオパさん、
    初コメントありがとうございます。果たしてお書きになられた意図に近い線でこのポストに取り込めたでしょうか・・・。
    (教会の)組織のミッション・ステートメントを共同作業で作るなどと言うのは余り聞いたことがありません。でもそうじゃないと牧師の一人よがりなものになりかねませんね。結果せっかく作っても他の方々にはどこかよそよそしいものになってしまう。
     まあ今までのどちらかと言うと牧師主導で来た教会形成では成り立っていたのかもしれませんが、これからの時代は・・・と考えると、やはり何らかの共同作業的要素が必要になってくるのでしょうかね。
     御ブログは当方にとっては充分“有名”とお見受けしましたもので・・・。
     では、また続きの考察をよろしくお願いします。

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  4. 木人さん、
     またのコメントを歓迎します。確かに「幻」を使用する人が恣意的に用いて、聖書の示している方向ではない方に、あるいは間違った手段で実現しようとすることは、過去もまた現在でも多々あると思います。充分気を付けなければなりません。斯く言う私自身もどちかと言うと「ヴィジョン・幻」を声高に掲げる人には警戒してしまう方です。
     取り上げたブログでも、筆者の書いたことの中でも、そのような連想を与える部分があったかもしれません。
     神学者の名前を突然出して申し訳ないですが、ボンヘッファーという方が「オルティメート(究極)」と「ピノ・オルティメート(次・究極とでも訳しましょうか)」の区別を用いてこの辺の問題を整理しています。筆者が「ヴィジョン」と言う語を用いた意図は、如何にしてこの究極に近い組織の形成理念・ゴールを言語化、ビジュアル化すれば良いのか、と言う問題意識からでした。
     個人でも、組織体でも単に伝統を固守して現状維持を図るのであればそれほどこのような問題は出て来ないのかもしれません。筆者はたまたま自分の受け継いだ「教会観」の再解釈・再構築が必要ではないかと思ってやっています。それはメソジストと言う神学的伝統より、もっと原始キリスト教に近い文脈で「教会」の究極的ゴールを見極めたい、と言う願いです。
     聖書の終末論的表現では「新天新地」「死者の復活」「キリストの来臨」などがありますが、そこに至るプロセスをどのように捉え、自覚して宣教するか、と言う課題だと認識しています。ですから「次・究極」な作業であり、絶えず「究極」に属し、「究極」を志向して継続編集される神学作業ではないかと思っています。

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