2010年10月6日水曜日

池澤夏樹「多神教とエコロジー:世界を支配する資格」

朝日新聞夕刊に月一度連載されている氏のコラム「終わりと始まり」の十月掲載分のタイトルが上記である。
余り注意してなかったので、「毎月」のコラムであることに改めて気付いた。

ネットでの反応は如何なものかとちょっと検索をかけてみた。
分かったことは、
①最新掲載(上記のコラム)分についてはまだ見つからない。
②過去のコラムの幾つかについては、概ね好評な反応が数は少ないがブログで取り上げられている。

さて、上記タイトルのコラムは、昨日、10月5日の夕刊のものである。
昨日一回読んでピンとこなかった。
特に「創世記」の解釈と、「エコロジー即アニミズム」的世界観の繋げ方が如何にも短絡的過ぎないか、と言う印象を持った。

今日はこれをブログに取り上げようと思い、再読してみた。
所謂日本語で言う「エッセイ」風で、議論として読むには筋が粗いと感じた。
池澤氏自身の視座がそのまま表明されているだけで、例えばキリスト教の視点から「環境問題」と「創世記解釈」の問題の紆余曲折(少なくとも30年以上の蓄積がある)に関しては何も語られていない。

この「エッセイ」を論として読む場合、結語を紹介すれば、後は様々な修飾と位置づけられるかもしれない。こう書き終えている。
エコロジーの背後にはアニミズムがある。あるいは、あるべきだ。一にして全なる神を信じる人々も個々の被造物の中に、それをあらしめている神の意志を認めなければならない。
今、我々は支配力を駆使して支配者の地位から降りなければならない。

この結論の前の文章を見ると、アニミズムから始まって一神教が出現する「進化論的、発達史観的」展望を通して、「現在の人間の立ち位置、立ち居振る舞い、驕り」を分析しているのが分かる。
大雑把に言えば、「西洋キリスト教の聖書に基づく人間観」と言う思想的基盤と、「進化論を認めない『原理主義的キリスト教』」が主たる要因とされている。
原理主義的キリスト教徒が進化論を断じて認めないのは、認めれば人間と世界の関係が逆転するからだ。他の動物や植物と同格では、神にかたどられて造られたという尊厳は保てない。
科学は長い時間をかけてヒトと他の種の連続性を明らかにしてきた。ヒトは動物である。その一方で人間は科学技術によって世界を支配する力をいよいよ強めた。この矛盾の果てに今の環境論がある。
たくさんの神々に祈っていた頃、人間は自分の無力を承知していた。その後で、あるいは別の地域で、一にして全なる神に祈る人々が科学技術を発展させ、自然に対する支配力を強化し、今見るような驕りの姿勢を導いた。
読み方によっては、「文明の衝突」「多神教対一神教」の短絡的な議論に見えなくもない。しかし結論で「我々は」としているように、一部のアニミズム的経済生活を守っているコミュニティーを除けば、資本主義的原理で生きる人類の殆どが、この驕りの構造に絡め取られている、と解釈すれば、それ程無責任な議論ではなくなる。

しばらく前『加藤周一』をこのブログで取り上げたが、彼の『夕陽妄語』ほどのレベルには大分程遠い印象である。大衆紙の教養欄コラムとしては、もう少し議論の緻密さが欲しいところだ。

一つ例を挙げれば「現代の環境問題」の淵源に宗教的世界観の影響があることは否定すべくもないが、その因果関係分析のまとめ方において、近代資本主義の背景となる啓蒙主義的人間観や聖書的キリスト教とはダイレクトに繋がらない「理神論」の介在、また資本主義や科学技術が異なる宗教的背景(それぞれ固有の共同体倫理)を駆逐して普遍的影響を持つに至った過程などにも顧慮する必要があるのではないか。

そして「キリスト教的」な見方から一つ視点を提供するとすれば、池澤氏が
人間が堕落した時、神は洪水を起こして人間をリセットしたが、あれは世界を支配する者としての資格あらずという判断だったのだろう。
と言うところにせっかく注目したのであれば、「堕落の普遍性」をもう少し掘り下げてみてはどうか。近代資本主義の背後にある「貪欲」、あるいは最近の金融破たんで顕になった「相互信頼の崩壊に見る」人間の偽りの深さ、まさに聖書が指摘する「堕落した人類」の姿ではないか。

また、聖書物語の読みをこの箇所で止めてしまうとはどういうことか。「人間の堕落」に対する神の回復プランを聖書全体から読み取ってはどうか。

聖書はその後、創世記の12章から、まさに堕落によって悪循環に陥った人類と被造物全体の行く末を逆転するために、アブラハムの召命、イスラエルの召命、と言う「回復の物語」を開始させる。
そして、この世界の辺鄙な場所で生まれた一小民族のメシヤ、イエス・キリストにおいて「回復の物語」は原理的にクライマックスに達っする。
そして、真の「神の像」として回復されたメシアの世界支配を、キリスト共同体である「新しい人類」が受け継ぐ。

そういう読みが聖書全体を読む視点として必要であることを指摘したい。

と言っても、池澤氏の「一木一草に宿る神々」の“進化論的”世界観が「世界支配に失敗した」キリスト教文明の後始末をする、と言う視点が読み取れるから、ここは互いの物語を対峙させながら、世界をあるべき方向へ導くよう切磋琢磨するのが良いのだろうか・・・。
少なくとも池澤氏がキリスト教的視点全体を落第点にするのでなければの話だが。

2 件のコメント:

  1. 以前、標記の件で拙ブログへコメントいただいたものです。ご返事遅れまして申し訳ありません。もう旬の話題ではありませんが、ちょっと一言。
    環境破壊の原因をキリスト教に求める流れはリン・ホワイト『機械と神』に淵源し、ディープ・エコロジー等の近代批判のなかで一般化してきましたが、9.11を契機とした一神教批判と連動して高まりをみせているようです。しかし大部分は、深い考察もなしに繰り返されている浮薄な主張に過ぎません。落としどころは概ねアニミズム=エコロジーの図式になりますが、「一木一草に宿る神々」を奉じてきた日本列島に、大規模な環境破壊が行われてきた史実を知らないゆえの幻想です。確かに、アニミズムには極度な破壊を防ぐ役割はありますが、逆に人間の日常的営み(生活に必要な資材を得るため、動植物を殺害すること)を正当化し、不快や痛みを解消する機能も併せ持っています。
    歴史を知らない、根拠のない印象論で、それが新聞等に掲載され影響力を持つこと自体、困ったことと思います。

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  2. ほうじょうさん、わざわざコメントありがとうございます。果たしてこの文章をお読みになるかどうかわかりませんが、一応お礼方々。

    私のコメントにはアドレスを載せておきませんでしたから、わざわざ検索していただいたのだと思います。ご丁寧にありがとうございます。
    私は殆ど言論誌など読みませんので、アニミズムやエコロジーに関する評論のレベルがどれほどかは存じ上げませんが、たまたま目にした池澤氏のコラムがキリスト教に関連していたので、思わずブログに取り上げてしまいました。
    それ以後もネットで検索していますが、結局氏のこの件に関するコラムを取り上げた記事は少ないようですね。ある意味ちょっと残念です。

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