2010年11月23日火曜日

「犠牲」と「贖罪論」の問題性

今回のポストは、高橋哲哉氏らによるシンポジウムをまとめた本、

『殉教と殉国と信仰と』  高橋哲哉・菱木政晴・森一弘著  (白澤社発行・現代書館発売、1680円)

に関するポストの続きです。
参考までに既ポストのリンクを以下に:
「教理と政治歴史的文脈」 (10月29日)
「非キリスト者による信仰論」(11月11日)

今回は、10月29日分ポストで取り上げた「贖罪論」と「犠牲」の関係について注目します。
・高橋氏の基調講演、
・その後の三人のシンポジストの討論、
・さらに別の時期になされた同じ方々による座談
から拾い集めた標題の件に関する(高橋氏と森氏の)意見に対して、筆者の考えることを少し述べようと思います。


さて、筆者は10月29日分ポストで以下のように書きました。
《引用開始》
筆者が一番驚いたのは、

講演の冒頭、イエスの十字架上の死を贖罪の犠牲としてとらえることに疑問を呈した同氏の主張に対して、「贖罪論はキリスト教信仰の核心だから譲れない」 との反響があったことを紹介し、「欧米の神学者の間にも批判的な議論が存在してきた。贖罪論なしに信仰が成り立たないかどうかは、もはや自明のことではな い」と反論。
と言う部分。(アンダーラインは筆者)

これはかなり踏み込んだ意見だと思う。
《引用終わり》

2009年11月23日シンポジウム当日の高橋氏の基調講演には「イエスの十字架上の死を贖罪の犠牲としてとらえることに疑問を呈した」主張はありませんでした。
氏の基調講演は「殉教の死をたたえることが、キリスト教の信仰と本質的なところでそぐわないのではないか」と言う問題提起でした。
と言うわけで、上記の報告は、10月9日、神奈川県の川崎市総合福祉センターで行われた『殉教と殉国と信仰と』(白澤社)の出版記念講演会(カトリック横浜教区正義と平和協議会主催)での発言とある通り、シンポジウムでの討論と、それから約一年の間にあったことを踏まえての発言であったことが判りました。


さて「イエスの死」と「贖罪の犠牲」の関連の問題が特に提起されたのは、その基調講演後の「ディスカッション」においてでした。
この点筆者の最初の反応が、高橋氏の言説に正確に対応していなかったことを、お詫びします。

と言うことで、著書中「5.ディスカッション」部分から少し引用が長くなりますが、高橋氏と森氏の間での「イエスの死」と「贖罪の犠牲」に関するくだりを紹介します。
高橋:・・・キリスト教で殉教が語られるときに、イエスが十字架上で刑死したこと、これを「犠牲死」ととらえるのかどうかが問題になるのではないでしょうか。従来は、これを犠牲死と見て、見習うべきモデルとする見方が強かったのではないか。・・・しかし、このイエスの死を犠牲死ととらえる見方そのものについて、キリスト教思想の中でも議論はあったと思いますが、もっときちんと検討しなおす必要があるのではないでしょうか。
森:・・・結局、キリストの十字架を生贄とか犠牲としてとらえると、神理解が色々歪んできてしまうんです。
高橋:やはり、そう思われますか。
森:キリストの十字架を「犠牲」というかたちで説明するのは、先ほど申し上げた正義、交換の正義と言う視点が、聖アンセルムス(1033-1109)とかトマス・アクィナス(1225-1274)あたりで神学の中にどんと入ってきてしまった論理です。それがのちに主流になって今日まできてしまった。
ところが、キリストの十字架を「犠牲」としてとらえてしまうと、神の姿が歪んできてしまう。それは現代の神学者たちも指摘しているところです。・・・ちなみに、福音書をずっと読んでみても、福音書の中にキリストの十字架を「犠牲」とする、あるいは罪のあがないとするような言葉は全く出てきません。ですから、そういう意味で、現代はもう一度、真正面から神理解、そしてキリスト教の教義理解に取り組まなければならないと思っております。
(以上、98-99ページ)
勿論、高橋氏の関心事は「犠牲」そのものではなく、「殉教」を正当化する神学的議論としての「贖罪論」での「犠牲」の役割であろう。
筆者は、中世神学のややこしい議論をフォローしきれないので、話を簡単にするが、高橋氏はここで「イエスの十字架による死」を、殉教の模範となるような意味での「犠牲」と取っているようである。つまり「自己犠牲」と言うことになる。

これに対し森氏は「贖罪論」と「正義論(ジャスティス)」の絡まりの中で、「犠牲」が「交換の正義」で果たす役割に限定して問題視しているように思う。
そして「福音書中にはそのような議論を支持する記述はない」と断定する。

高橋氏はこのディスカッション後の『座談会』で(当日か後日かは明記されていないので不明)アンセルムスの「贖罪論」を次のようにまとめている。
高橋:トマスの影響は大きいでしょうし、贖罪論との関係でいうと、アンセルムスの『クール・デウス・ホモ 神は何故に人間となりたまいしか』・・・の存在が大きいのでしょうね。要するに、人間は神を裏切って罪を犯したことに対して償わなければいけないのだけれども、神に対する背信という罪は無限の罪であるので、人間には償う力はない。そこで神自身が人間に手を差し伸べて、それを一緒にやってくれる。神であり同時に人間であるようなイエス・キリストの死をもって、それをあがないとして、神が人間と和解する。そういう理屈だと思うんです。(以上、152ページ)
さて、中世神学議論に疎い筆者が述べられることは僅かである。
①中世からの神学的伝統の枠組みとしての「贖罪論」は森氏の言うように、ローマ法的背景(?)、あるいは「名誉を重んじる社会的背景」(?)、と深く繋がっていると思うので、アンセルムスにしても、トマス・アクィナスにしても、彼らの神学的伝統をそのまま踏襲する必然性はない。贖罪論をどう説明するか、言語、イメージが修正可能である、と言うことは言えると思う。
②しかし、「贖罪論」自体がなくともキリスト教信仰が成立する、と言う提案にはかなり抵抗がある。それは一つに、新約聖書の「贖罪」の様々な語彙や、イメージの存在を否定することに繋がらないか、と言う危惧である。
③例えば、森氏は福音書中に「罪の贖い」のような言及はない、と言い切っているようだが、

人の子は・・・多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(マルコ10:45、新共同訳)
これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である。
(マタイ26:28、新共同訳)
 と言うように、全然ないとは言い切れないのではなかろうか。

そして新約聖書全体を見た時には、ヘブル人への手紙全体が旧約祭儀(大祭司、犠牲、大贖罪日、等特に9:12)をベースにキリストのわざが語られているし、第一ペテロも「贖い」が「キリストの尊い血」によると言っているように、「贖い」と言う語彙を否定することも、また「贖い」と「キリストの血」、即ちその死が関わっている(必ずしも磔刑とではないが)ことを否定するのは難しいと思う。

パウロだけを見ても、
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。(ローマ人への手紙4:25、新共同訳)
 キリストは・・・ご自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。(ガラテヤ人への手紙1:4、新共同訳)
とある。
④森氏の「歪んだ神理解」の問題は、察するに「贖罪論」の一部を占める「刑罰代償死説(penal substitutionary death)」や「支払われた代価がサタンに対するものだった」のような説に対する批判であって、「キリストの贖罪の事実」そのものに対する否定とは思えないのである。
⑤筆者が最重要と思うのは、「キリストの贖罪」理解に関して、現代の神学的要請から「犠牲」や「贖罪」の意味を軽減したり、削除したりするような神学作業をするのではなく、「キリストの贖罪」を本来のユダヤ的、旧約聖書的、契約概念的背景を通して理解し、神学的議論をこれによって修正する、と言うことだと思う。

以上、著書を謹呈下さった高橋氏に謝すると共に、幾ばくかの感想を述べさせて頂いた。

一キリスト者として「現代の文脈」で「キリストの贖罪」を考える機会を提供して頂き感謝する次第である。

(※読者の皆さんには、混みいっている割りに不十分な議論にお付き合い頂きありがとうございました。)

3 件のコメント:

  1.  森司祭の主張は、16世紀のソッツィーニと後の自由主義神学の主張と軌を一にしていて、目新しいものではないように思います。ソッツィーニは神の恵みと、赦しの根拠としてキリストの功を結びつけることは矛盾だと批判しました。恵みなのだから無償であるべきなのだ、というわけです。また、罪ある者から罪無き者へと懲罰の対象を移すことは公正とはいえないとか、一人の人の一時的な死が多くの者たちの永遠の死の代行とはなりえないといった主張をしました。
     その背景にあるのは、罪に対して罰を与えることを要求する正義の神に対する嫌悪です。ソッツィーニの神は、なんでも無条件によしよしと受け入れる、いわば観音様的な無限抱擁の汎神論的神観であり、それは自由主義神学でも同じです。
     この場合、その贖罪論は中世のアベラール以来とされる主観的な道徳感化説となります。キリストの愛に感化されて、罪人がかたくなな心を改めることが肝心であって、神はそれ以外に何の賠償(満足)も求めないというのです。神はそれを受け入れるというのです。(もっともアベラール自身は道徳的感化のみでなく、キリストの代償的贖罪についても書いていますが。)
     高橋氏が代償的贖罪説と道徳的感化説の対立をキャッチして、この話題をもちかけたわけですが、それに対して森司祭が、「福音書中にはそのような議論を支持する記述はない」と断定したのは、ひどい嘘だと思います。むしろ、「福音書にもあり、パウロ書簡にも、ペテロ書簡にも、ヨハネ書簡にも、そして旧約聖書にありますが、自由主義神学に立つ私は、それを受け入れがたいと感じています。」とでも答えるのが誠実だったと思います。

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    1. 水草牧師(だと思いますが)、初コメントありがとうございました。

      さて、かれこれ5年前に遡る記事にコメントいただいたわけですが、ご覧のようになかなか神学的にデリケートなトピックであり、コメント欄で云々するのは無理かと思います。
      ご指摘のように森司教はご自分の神学的伝統のある部分に対しては明確に「否」とされ「再考の必要」を主張されているわけですが、その根拠としているのが「ソッツィーニ」的な「自由主義神学」的な発想なのかどうかについては、森司教の著書を一冊も読んでいない筆者としては何ともコメントできません。
      ただこのシンポジウムでの発言・応答を読む限りにおいては森司教が明確に問題視しているのは、「神の正義」と「交換の論理」が組み合わされた説明、その神学的議論の伝統のことです。その背景を「社会の秩序安全を守らせて行く」政治目的だった可能性を指摘しています。(89)

      ぜひご自身のブログの方で「贖罪論」にまつわる「神観」のデリケートな問題を取り上げていただけると幸いです。

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  2. 先生、突然に失礼いたしました。
    この件、誠実とか不誠実ということではなくて、1コリント1:18や2:14がかかわる問題なのかもしれないと思いなおしております。

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