2010年12月9日木曜日

死別と「悲哀」

昨年4月、筆者が心身のバランスを崩したのは、更年期を迎えて運動不足など日常生活をちゃんと管理していなかった迂闊さもあるだろうが、少なくとも末期ガンの母を抱えていたことが引き金となった、と自分では分析している。(母は昨年7月召された。)

思えば「死別の悲しみ」を日々弱っていく母を前にして先取りしていたのだと思う。
抗がん剤の副作用で体調が悪い母の姿を見ていていたたまれなくなって、その場を離れたことがあった。
その日、心療内科を訪れて診察を受けた。

沈黙の中で悲しみは「悲哀」に変容する。これは一種の愛情の形です。風のそよぎにも光の揺らぎにも大切な人の存在を感じる。そうなるともう寂しくない。
これは、宗教人類学者、山形孝夫さんのことばだ。(朝日新聞夕刊、『語る人』、2010年12月6日)

母と生年が同じ山形さんは、子供の時お母さんと死別している。山形さんに「死にたい」とつぶやいていたお母さんは自死され、その後家族の中で「母の話」はタブーになったという。
山形さんも「悲しみ」を封印した。

それが40代になって封印していた悲しみの記憶を解くきっかけが訪れた。
ナイル川西岸の砂漠にエジプトのキリスト教徒コプトの修道院が点在しています。エジプト人が死者のクニと呼んできた荒野で、私は数ヵ月滞在し、修道士たち自身の物語の聞き取りをしていました。ある時、その修道院を抜け出して砂漠を歩いていました。周囲には何もない。聞こえるのは風の音だけ。そのとき、不意にだれかが私の名を呼んだ。オヤッと思いました。それが母の声だと気づいた瞬間、動けなくなりました。
このことが契機となってその後自伝的エッセーを書く中でお母さんの記憶が次々と噴き出してきて、「書きながら涙が止まらな」くなったそうです。
「懐かしい、至福の時」だったそうです。

山形さんは、この経験から、
悲しみは人間の成熟に大切な栄養剤です。その人らしさを形作るパーソナリティーの根幹になる。悲しみは新しい生き方に変化する。
と言っています。

グリーフケアー、と言うカウンセリング用語がありますが、死別の悲しみは個人差はあれ、人生の大きな経験です。筆者に言わせると、母との死別の悲しみは一種独特です。

しかし誰との死別にせよ、山形さんの言う「悲しみ」が「悲哀」に変容する体験は、時間による忘却ではなく深まり、と言う点で人生を豊かにする視点だと思います。

山形さんは今ホスピス病棟を作る活動もされているそうです。その夕刊コラムで最後に言っていることばがなかなか印象的であるとともに考えさせられます。
これまで、死と向き合うのは宗教の役割でした。現代日本で神の存在を信じるのは難しい。でも「祈り」の願望はむしろ大きくふくらんでいるのではないか。その問題にどう切り込むのかを考えています。
筆者も近年その感を強くしています。
教会に時々訪れる「祈らせてください」と言う通りがかりの方の存在がそれを物語っていると思います。

最近は「葬儀の無宗教化」が話題になっているようです。
それは日本人が無宗教になっているのではなく、既成宗教の枠外で「死」や「霊性」の問題と向き合おうとしているのだと思います。

既成宗教はこれら「個人的霊性志向」の方々とどう向き合えば良いのか。

一つの問題はキリスト教会が現在用いている「宗教言語」ではないかと思います。
キリスト教的「神」や「救い」についての表現や、言い回しが習慣的になり、現代人の心の奥深くに届くことばになっていないのではないか、と言う疑念です。
「神の愛」や「キリストの赦し」のことばが、浅薄な自己治癒用に消費されていないかどうか自戒を込めて反省する必要があるのではないでしょうか。

もう一つの問題は、自己の内面にあいまいな形で潜んでいる「現代人の霊性」ではないかと思います。
既成宗教に縛られない形で、自己の霊性と交感するリチュアル(儀式・儀礼)を、現代人は占いなど擬似宗教的なものも含んだ種々雑多なものの中で模索しているように見えます。
教会は彼らの霊的模索にどんなリチュアルを提供できるのか。
教会の伝統的リチュアルの枠組みの中で発見してもらうのか、それとも現代人の個人的霊性志向に適応したリチュアルを作っていくのか。

最後に、キリスト教的視点から言えば、このような現代人の世俗化した「霊性のありよう」に対し、教会と言う本来「霊的共同体」がどのようにその役割を発揮できるのかどうか、考えていかなければならない。

山形さんの問題提起は、現在の教会活動のありようを今一度根本から検証する必要を促しているように感ずる。

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