2010年12月13日月曜日

ポストモダンを考える

文献によってでもなく、ネットによるキーワード検索によってでもなく、ただ筆者が漠然と「現代はポストモダン」であると前提していることについて。

あまりにも多様に解釈され、使用されるポストモダンという用語。

本当に自分でよく理解して使っているのだろうか。
他人の尻馬に乗るように、流行語のように、あまり掘り下げもせず使っているのではないか。

そんな反省をしてみたい。

①筆者が「ポストモダン」と言う時どんなことが一番念頭にあるのか。
恐らく思想的な面での問題だと思う。
西洋啓蒙主義の理性信仰の崩壊、といった感じかな。
「客観的真理」の確実性・普遍性が揺らいでいる、そんな文化的環境にいることが即ちポストモダン時代であると。
それは同時に反動として、「真理・真実」が個人の主観、(理性ではなく)感性的、直感的に捉えられる傾向、とも言える。
それは総合的に言えば「価値の多様性」、グローバルな次元での「多元化社会」での「合意形成」の困難さ、あるいは悲観的な展望に繋がる状況の出現、とも捉えられる。

②思想面以外ではどのような面を見ているのか。
やはり後期資本主義の爛熟型である「大量消費社会」を背景に見ていると思う。
つまり近代がもたらした資本主義を「正」と見るのに対し、その現在を「負」の視点から見ることと言える。

③モダンからポストモダンの変容とは、物語的に言えば、啓蒙主義の楽観的歴史観、社会観、人間観が、実際にモダンプロジェクトを進めた結果、予想外の状況に逢着し、啓蒙主義思想がやはり一つの神話であったことに気付き、幻滅と失望を味わっている状況、と言うことができるだろうか。

大雑把に言えばそんなことが挙げられる。

では、「ポストモダン」は西洋の思想的問題で、日本には限定的にしか適用すべきでない問題なのか、について。

思想・言論の世界で「ポストモダン」を前提しているのは西洋先進国の知識人である、と言える。
これはもう常識と言っていいだろう。
日本ではどうかと言うと、少し距離がある感じがする。

上記②で掲げた状況は日本社会にも十分当てはまる。その意味では日本もポストモダン社会の諸問題を抱えていると言わざるを得ない。
しかし①と③の自覚は相対的に希薄であり、対岸の火事のように評論されることも多いのではないか。
その点明治維新時の「和魂洋才」的問題整理のし方を踏襲している感じかな。

キリスト教会、宗教界におけるポストモダン言説の適用
 上記のような観察にも拘らず、ポストモダンは一定の市民権を得ている。
その最も顕著な例は「霊性・スピリチュアリティー」が置かれている状況が、欧米先進国と日本との間で極めて近似している、と言うこと。

これは二つの異なる文明圏が同様の現象を並行して現出させた、と言う意味ではない。
片や西洋キリスト教文明は、その字の通り根幹にキリスト教と言う精神文明があった。
しかし日本は多くの人が観察してきたように「キリスト教ほど強力な精神的根幹」がない、しかし適度に儒教的・仏教的・神道的、習合的な精神文明に支えられてきた。

欧米でのポストモダン状況の出現は、(啓蒙主義の媒介による)脱・キリスト教文明と密接に関わるが、日本における“無宗教化(非宗教化ではない)”はそれとは大分趣をことにする。
多分に資本主義社会の進行による、都市化、核家族化、等による崩壊現象と見える。

しかし彼我のポストモダン霊性の在りようは、その雑種性、個人的志向、など色々な面で重なるように思う。
孤立した個人、既成宗教(組織)に対する不信、なども似ている。


と言うわけで、キリスト教会の現代的宣教は、どの程度日本の文化状況がポストモダンなのか、安易に前提することなく、丁寧に分析しながら、対応していかなければならないだろう。

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