2011年1月14日金曜日

イエスの信実と私たちの信仰

最近二回続けて「福音派大衆伝道における福音提示の問題性」のようなことを書いてみた。

福音提示において「十字架贖罪」一辺倒になって、「復活」の意義が統合された形で提示されない、と言うのが一点。
契約の民、イスラエルの歴史とストーリーのクライマックスとしての「十字架と復活の出来事」を捨象してしまうことで「十字架贖罪」が非歴史化され、抽象化される、と言うのがもう一点。

これらの問題と絡んでいるのが、信ずる側の「私たちの信仰」の役割に関する理解である。

筆者の育った「キリスト教」において、「回心」とは、個人が「いついつどこどこでイエス・キリストを信じた」と言うことに力点が置かれ、「お証し」と言うと、その個人が信じた時点で「救われた」と言う理解になる。
「救いのドラマ」はあくまでも「自分史」を中心に展開し、イエス・キリストの十字架と復活と言う客観的な歴史は背景に追いやられてしまう印象であった。
お証しする者は、“救われた時”の喜びや高揚感と言った主観的な体験を綴る傾向があり、救いの基礎となる「イエス・キリストにおける客観的救いのわざ」についての認識は幼稚なままで過ぎてしまいやすい。
斯く言う筆者もそのような一人だった。

そのような福音理解に疑問を抱くようになり、その後、言わぱ「第二の(知的)回心」に至った。
今はそのような視点から過去の自分の信仰、福音理解を反省しているわけである。

しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただ《ピステオウス・イエイスウ・クリストゥー》によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(新改訳)

けれども、人は律法の実行ではなく、ただ《ピステオウス・イエイスウ・クリストゥー》によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。(新共同訳)

上記に引用したのは、ガラテヤ人への手紙2章16節である。この《ピステオウス・イエイスウ・クリストゥー》を両訳とも「キリスト・イエスを信じる信仰」「イエス・キリストへの信仰」とギリシャ語ジェニティブを目的格に訳している。
これは私たち人間が信仰の主体で、イエス・キリストがその対象と言う理解の上に立つ。

しかしギリシャ語のジェニティブは主格にも訳される。むしろ用法的にはその方が自然である。にもかかわらず伝統的に目的格の解釈が取られてきたわけである。

最近(時間の長さとしてはリチャード・ヘイズの著作を起点に取れば30年となるが)、主格説が有力になってきている。N.T.ライトもその一人であるが。

主格に取ればどういう意味になるか。
イエス・キリストご自身の信実が先ずあり、その基盤の上に私たちの信仰がある、と言う構図に変換する。

少し膨らまして言えば、神の御心に従われ、十字架の死にまで従順に従われたイエスご自身の信実が、神の義(ロマ書主題)を成就された。私たち人間の信仰はこの「信実」を信ずることによって義とされるわけである。

目的格は、自分が信ずると言う行為が救いをもたらすようなニュアンスがある。
主格は、客観的キリストの信実が先ずあり、私たちの信仰はそれに従う、と言うニュアンスになる。

ライトは以下のようにまとめている。
'The faithfulness of the Messiah', in the sense described in the previous chapter - his faithfulness to the long, single purposes of God for Israel - is the instrument, the ultimate agency, by which 'justification' takes place. The Messiah's faithful death, in other words, redefines the people of God, which just happens to be exactly what Paul says more fully in verses 19-20 (always a good sign). And the way in which people appropriate that justification, that redefinition of God's people, is now 'by faith', by coming to believe in Jesus as Messiah. The achievement of Jesus as the crucified Messiah is the basis of this redefinition. The faith of the individual is what marks out those who now belong to him, to the Messiah-redefined family. (Justification: God's Plan and Paul's Vision, p.97) 
ほんの一フレーズの訳が信仰理解の根本に関わると言う原典釈義の重要さを示す好例である。
(※筆者は原典釈義は出来ない。あくまでも参考書からの入れ知恵であることを断っておく。)

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