2011年2月2日水曜日

摂理

Divine Providence 神の摂理

摂理とはキリスト者が結構用いることばだ。
そして気をつけて用いないといけないことばだ。

人生様々なことに遭遇するが、その背後で「神がすべてを統べ治めておられる」というのは信者の持つ基本的信仰態度で、これは誰もが持つべき態度だと思う。
 
しかし個々の出来事・事象に対し神がどの程度、どのような形で介在しているか、と言うことに関してはよく吟味しなければならないことである。

筆者の知人で交通事故で子供を亡くされた方があった。
当然すぐには受け入れられない事実であった。
しかしこのことを通して未信者であったご主人が「子供が行った天国に自分も行きたい」と入信するきっかけとなった。
それでこの方は交通事故自体はさておき、この出来事の背後に神の摂理を信じるようになった。

人が出会う艱難辛苦の中にはとても不条理に感じられるものがある。
あの旧約聖書のヨブみたいに「なぜ神は?」と質問し通しのような所を通られる方もいる。
「神の義」を問い続ける信仰の格闘がある。

一方でキリスト者の中には非常に自分勝手に自分に好都合なことも、不都合なことも、どっちも摂理で片付けてしまうような浅薄な信仰態度の方が居られる様に思う。
「子供が首尾よく希望校に合格した時」も、「期待に反して落ちた場合」でも、どちらにも摂理で説明をつける。

振り返ってみると筆者もそのような一人に入ると思う。
もともと優柔不断なタイプなので、自分から決断して選択しないことが多い。
出た結果を摂理として受け入れたい、受け入れやすい人間なのである。

ただ日常茶飯事にまで「神の摂理」を持ち込むわけではない。
日々出くわすことの多くは、自分の選択や行動の結果であり、又複雑な人間関係、社会的やその他の条件付けの中での出来事であることを理解している。

だから、と言っては何だが、信仰者でありながら、一々自分の選択しようとしていることに「神様導いてください」と祈るわけではない。
「神の摂理」とはそのような人間の自由意志の範囲を許容し、又様々な自律的諸条件を許容された上で、神が働いておられる意志ではないか、と考える。

だからやはり信仰的な問題として「摂理」を考える上で最も困難なのは到底神の計らいとは思えない苦難を抱えている方々のことになる。

ただその国に生まれてきただけで貧困・飢餓を宿命付けられているような人たち。
不治の病やハンディを背負って生まれてきた人たち。
圧倒的に不当な不正・抑圧・差別を故なく受けている人たち。

このような人たちの現実を前にして「神の摂理」は問われなければならないのだろう。
そのような人生の厳しい現実に向き合っている人にこそ「神の摂理」と「神の正義」の深い問いかけが可能なのではないか。

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