2011年2月9日水曜日

公共の神学

先日来、幸運にも「のらくら者の日記」さんと公開対話をさせて頂いている。
筆者が書く文章は大抵言い足りない、説明の足りないものだが、「のらくら者さんは丁寧に何通りかの言い回しや比喩を用いて読者に届くように書いていてくださる。

その中で「私にとっての公共の神学とは」と言うことで貴重な意見を伺えたので、せっかくだからここに引用して少々考えさせて頂きたい。
私とって「公共」とは、ポストモダンとも言われるこの御時世に対して責任もって神学することであります。その切り口はいろいろありましょうが、やはり「断片化」「局地化」「多元化」の趨勢に対して、大事なことはある種の「総合(synthesis)」を試みることでありましょう。信仰生活の現場のために、 整合性ある一つの世界観を提供することです。

ですから、私の中での独断的な基準は、新約学者なら「新約神学叢書」を、組織神学者(教義学者)なら「教義学 叢書」を世に問わなければ、本物の学者じゃないということです。
原文では二つに切り離されてはいないが、ここでは論ずるために分離させて頂いた。

①ポストモダン状況での「公共の神学」
一般に科学が進歩するにつれ、専門化し細分化する傾向は自然科学だけでなく、人文科学にも見られるものであり、神学においても「神学諸科」に分化して行ったのは近世のことだと思う。
この辺の問題、「神学の断片化」を現象学的に叙述した本として思い出すのは、Edward Farley, Theologia: Fragmentation and Unity of Theological Educationである。今手元に見つからないので、ネットで簡単な要約を見ていただくとファーリーの問題意識がお分かりになると思う。
これはもともとの神学的伝統を一つの理想あるいは戻るべき規範としてみた場合の歴史的再構成で、アラスデア・マッキンタイアーのAfter Virtueに通じるような問題意識とそのための歴史的叙述と言う提示方法ではないかと思う。
要約では
Farley’s basic thesis is that theologia—a unified understanding of “theology”
that leads to a Christian way of life—has been displaced by a disconnected, fragmented understanding of
“theology”.
と、もともと神学が目指していた「実践的知」が視界から消え、神学教育が牧師の必要とする専門知識に分化したことをdisplacementと見ている。

筆者がこの本を読んだ当時と現在のポストモダン状況における知の問題とは少し位相が違うかもしれないが重なる部分はあると思う。
のらくら者さんが指摘するように「統合された知」としての神学は「総合」synthesisあるいはintegrationを高次元で実現するものが期待されているのだと思う。その場合恐らく「神学緒論」「教義学」「倫理学」「弁証学」と言った垣根を乗り越えるような神学的業績になるのではないか。

②叢書
のらくら者さんは現在活躍している学者の中で「叢書」のような形で神学や聖書学の本論になる業績を生産している人物として、マクグラスとライトを双璧と見ているようで興味深い。

神学が分化し専門化した結果実質の薄くなる傾向に対して、スケールは劣るがそれなりの神学的伝統を修復しようとしている人物として、William J. Abraham(パーキンス神学校)とEllen T. Charry(プリンストン神学校)の著作が面白いのではないかと思う。前者は近著Canonical Theismをチームワークを作って出版している。
Charryの方は、By the Renewing of Your Minds: the Pastoral Function of Christian Doctrine を著しているがその副題が示すように実践的な知の回復、一つの統合を試みているのだと思っている。
私の場合、この5年間の置かれた状況とは、「罪の問題」「邪悪の存在」をほとほと考えさせられてきたことです。大きなテーマは「神学の規範性」というこでした。「記述的(descriptive)」から「規範的(prescriptive または normative)」が解釈学的にどう関わり、どのように移行するのか、大きな関心であり続けています。けれどもそのモデルを方法論の著作からではな く、「総合」を試みた著作から読み取りたいと思いました。
うーむ、なんか本格的に神学しているなーと感じさせる述懐ですね。牧会現場における現実から神学的テーマを見定め、それに対して相応しい神学的作業を模索する・・・、どういう風に結実するのか楽しみにさせていただきます。

「悪」の多面的な表現、特に暴力の問題に関して神学的著作を著しているのはMiroslav Volfが一例でしょうか。

何はともあれ筆者が「振った(?)」ことによって瓢箪からこま、になって刺激になりました。色々書いてくださりありがとうございました。

何かの機会に「振る」かもしれませんが、その時は又よろしく。

(※マクグラスの追加情報、大変参考になりました。改めて取り組んでみます。NatureとTheoryは買ってあります。)

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