2011年2月14日月曜日

政治と宗教

先日は土曜日定例の「明日の礼拝案内」をすっかり忘れてしまいました。

と言うわけでブログ更新に二日も空いてしまいました。

ところで政治と宗教と言う一般的な話題ではなく、時事ネタです。
既に昨年「欧米キリスト教文明は一神教だから」云々で話題になった小沢一郎氏ですが、また似たような発言をしたそうです。(産経新聞2011.2.14 15:52、リンク

小沢氏「一神教の欧州文明は限界」

 民主党の小沢一郎元代表は14日、都内で開かれた自らが主宰する「小沢一郎政治塾」で講演 し、今後の国際社会に関し「キリスト教は一神教だ。欧州文明は地球規模の人類のテーマを解決するには向いておらず、限界に来ている」と指摘した。一方で 「日本人は他の宗教に非常に寛容だ。悪く言えばいい加減で融通無碍だが、うまく伸ばしていけば21世紀社会のモデルケースになる」と述べた。
マスメディア上での「政治家の宗教に関する発言」は多分に厳密な定義や認識に拘泥するものではないことが多いので、この発言もどちらかと言うとやはり放言の部類でしょう。

そんな発言を取り上げてどうするの、と言う疑問をお持ちになられる読者も多いかもしれませんが、やはり公的立場の人の発言としてちょっと分析してみても宜しいのではないかと・・・。

①地球規模の人類のテーマ
国際問題としてグローバル経済化や環境問題、水や食料などの資源枯渇問題を想定しているのだろうか。
このような国際問題の解決に「欧州文明は限界に来ている」とはそもそもどういうことか。
欧米各国は依然としてリーダーシップを発揮する場にあるではないか。
政治的リーダーシップを発揮する基盤となるのは宗教ではないことは殆んどの欧米諸国が世俗国家であることから明らかではないか。
むしろ民主主義政治の熟成度とか、公共理念の明示性、公共政策の具体性、などが問題になるのであって、「キリスト教が一神教であるか、多神教であるか」とは直接関係がないと思うのだが。

②日本(人)は21世紀のモデルケースになれる
このような発言に見え隠れするのは「日本単一民族社会・国家」のような発想ではないか。
欧米諸国に比べ日本国家は他民族に対し排他的(移民政策)ではあると言え、マイノリティーとして複数の民族がある程度の数で日本社会に根を張っている。
もし日本が国際問題解決のリーダーシップを取りたいなら、もっと地元で多民族社会としての共生に関する理念や方向性を示すべきではないだろうか。
目下のところ日本の国際政治発言力は依然として日本の経済力に依存するところ大ではないだろうか。
一体日本を国際社会のモデルケースとして見ている国はどれだけいるだろうか。ちょっと疑わしい。

そもそも小沢氏のキリスト教に対する発言自体が、日本社会にあってマイノリティーであるキリスト教に対するデリカシーを欠いている。(昨年の発言後のキリスト教連合会の抗議声明に対し礼を弁えた釈明はしなかったと見受ける。)

宗教に対する寛容、信教自由に対する見識は、宗教に関して「いい加減で融通無碍」な歴史を持つ国では余り信用できない。機会主義的、日和見主義的政策を取る可能性の方が強いのではないか。
 
とまあー、大したことは書けませんでしたが、日本国家がリーダーシップを発揮できるようになること自体には反対しません。
ただし人と人との関係同様、国と国との信頼関係を築くことが先決問題でしょう。
そうすると小沢氏も対内的な政治的発言ではなく、対外的な発言として海外のメディアに今回と同じ内容の意見を堂々と表明してみては如何でしょう。そしてヨーロッパ諸国首脳から何らかの反応を得てみては如何でしょう。

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