2011年2月16日水曜日

摂理(続)

多分内容的には2月2日のポスト「摂理」の続きになると思います。

先のポストでは思いつくままに書きました。
と言うか余り神学的伝統とか教理的伝統とかを意識しないで書いたわけでした。

最近感ずることなのですが、たまたま筆者がネット上で行き当たるサイトで(キリスト教系、キリスト教神学系サイト)カール・バルトの名前を耳にしたり、議論されたりするのをよく目にします。
ツイ友(と言う呼び方があるらしいですが)鎌野直人先生も最近バルトの教義学全集を購入したらしいです。
何かカール・バルト復興みたいな機運があるのでしょうか・・・。

先般の「のらくら者の日記」とのブログ交換でも「総合的な神学叢書」が最近見当たらない、みたいな発言がありました。
そんなことからバルトが読まれるようになって来ているのかもしれません。

さて「摂理」の話題に戻りますが、考えてみれば筆者は「ウェスレアン・アルミニアン主義」の神学的伝統から神学教育をスタートし、現在当教会が属する「日本聖泉基督教会連合」も同立場を表明しています。
してみると「摂理」を神学的、教理的言語で枠付けると、「神の主権(的意志)」と「人間の自由意志」に関わる話題なのでした。
と言うことはこの話題は宗教改革の時点まで遡れば、カルヴィン、カルヴィン主義の「神の主権」と秘造世界に対する神の摂理的統治(ケアー)に関することです。

もっと砕けた表現にすれば、
神様は私たちのこといつも見守っていてくださるのだ。
神様の救いの御意思はイエス・キリストの救いにおいて十全に顕されているが、私たちが遭遇する日々の出来事にも神様の主権を顕されているのだ。
と言う感じになると思います。

しかし問題は、先のポストで書いたように、
だからやはり信仰的な問題として「摂理」を考える上で最も困難なのは到底神の計らいとは思えない苦難を抱えている方々のことになる。
ただその国に生まれてきただけで貧困・飢餓を宿命付けられているような人たち。
不治の病やハンディを背負って生まれてきた人たち。
圧倒的に不当な不正・抑圧・差別を故なく受けている人たち。
このような人たちの現実を前にして「神の摂理」は問われなければならないのだろう。
いわゆる「神義論」と重なってくる部分での「神の主権と摂理」の問題です。
このような艱難辛苦や不条理な出来事の背後に「神の御意思」があるのか。
神は大地震や大津波で多数の犠牲者が出るような災害を「意図される」のか。

こう言う問題です。
神学的には「神の主権と摂理」を主張すれば、何らかの形でこれらの「不都合な事実」を弁明する必要に迫られます。

このような摂理の神学的問題について宗教改革者ジョン・カルヴィンはどう考えていたのか、その後のカルヴィニストたちはカルヴィンの神学的解決をどのように受け止めてきたのか、を一神学生がプログ上で発表しているのに出くわしました。
その入り口になったのがDer Evangelische Theologe、と言うバルトのことを良く取り上げている神学専門サイトです(タイトルはドイツ語ですが英語サイトです)。
と言うわけでちょっと余計でしたが、カール・バルトの話題に言及しました。

(※これも余計ですが、筆者は“本格的に”改革派神学と向き合ったことはありません。以前バルトは読んでいないと書きましたが、改革派神学も今後の宿題です。)

さて、その神学的エッセイはプリンストン神学校の一年生でナサニエル・マドックスさんです。
わが身を振り返ると、神学校一年の時はまだ神学入門したばかりで、とてもこんな込み入った義論など書けるはずもありませんでした。筆者が晩熟だったのか、マドックスさんが早熟なのか・・・。

とにかくそのエッセイIntentions and intentional limits in Calvin's Doctrine of Providence or Why John Piper can't "have"John Calvin (Pt. 4)
はご覧のように現在第四ポストに突入しています。

エッセイはこんな風な議論としてスタートします。
So, "Christian, absolutely nothing can touch you today apart from the sovereign hand of a God who wills your good & His glory." Would Calvin say this? I will argue yes. Yes he would. Calvin did say many things to this effect, near verbatim. But, I will demonstrate that what Calvin would mean by this is not what John Piper would mean, and this can be attributed to their competing doctrines of providence, different pastoral interests, and Calvin's awareness of his own limitations, an awareness that, ultimately, Piper lacks.
「キリスト者よ。あなたに今日起こる事柄で、主権者なる神の御手により、善とご自分の栄光とを意図してなされること以外は何もない。」果たしてカルヴィンはこんなことを言っただろうか。イエス。カルヴィンは殆んどこの言葉通りのようなことを何度も言っている。しかし私はカルヴィンがこのように言ったからと言ってそれがジョン・パイパーが解釈しているような意味ではないことを示す。パイパーの間違いは多分カルヴィンの対立する摂理論、牧会的配慮、そして彼自身の限界の自覚から来るものであると言える。その自覚が結局のところパイパーに欠けている点である。
と言うわけです。
「神の主権と摂理」に関するかなり込み入った神学的義論、特にこの点に関するカルヴィンとカルヴィニストたち(ジョン・パイパーがその主たる矛先ですが)との違いに関心のある方は是非一読ください。

※それにしても一神学生のブログなのに結構力入っていますなー・・・。

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