2011年2月21日月曜日

文化批評

文学作品、アート、音楽、映画、・・・いわゆる現代文化メディアは作品を介して作者と視聴者(鑑賞者)が対峙するだけでなく、批評(家)が存在する。

ある人は「批評家」など必要ないと言う人もいるだろう。
視聴者が自分で納得するように作品を鑑賞すればよいのだ、と。
又アートを作る側でも「批評家」たちに理解されず、評価されず、残念な思いをすることも多いに違いない。

しかし作者の側でも、一般鑑賞者の側でも、それなりに作品を鑑賞し、批評する第三者の意見が欲しい場合があるのは否めない。
特にその作品の背景となる歴史や文化の影響に関する専門的知識を持っている批評家たちの鑑識眼に助けられて、よりよく作品を鑑賞できる・・・と言うことがある。

日本において西洋クラシック音楽の批評家の大家を一人挙げよと言われれば吉田秀和氏の名前は外せないだろう。彼の批評の対象となる音楽そのものだけでなく、彼の批評する文章それ自体が一つの作品のように感ずるほど軽妙洒脱な表現を用いる。
ところが先日の朝日新聞の音楽展望コラムで彼は「相撲の八百長問題」を取り上げ、最後までそれに終始した文章を書いたのである。
あれっ、音楽と相撲に何か深ーい関係でもあるのかしら・・・と思わされたほどである。(多分大衆芸能としての相撲が音楽鑑賞とどこかで通底するのであろう。)

さて、話が寄り道してしまったが、本ポストで話題にしたいのは映画のことである。
教会には様々なイベントの案内が郵送されてくるが、そのうちの一つがいわゆる「キリスト教に関連した映画」の案内である。
筆者は最近は映画など殆んど見に行く機会がないので、そのようなパンフレットを頂いても殆んど関心を持たないか、せいぜい会堂の掲示板に貼っておくだけである。

こういう言い方をしては何だが、キリスト教関連の映画だから、と言うことで教会に案内が送られてくることに少々違和感を感じるのである。
パンフレットに添えられた文章には大抵「伝道に用いて下さい」みたいなことが書かれていたりする。
「それはちょっと違うだろう」と思うのである。
むかーしビリー・グラハムの伝道映画あったが、ストーリーの最後の方にクルセードの場面が出てくるのが決まりであった。
あのようなストレートな「キリスト教映画」は今は殆んどお目にかからないが、配給会社が教会宛に映画案内を送りつける手法には(そして動員を当て込む手法には)このような昔の名残を感じるのである。
(映画)作品は伝道に好適かどうかではなく、作品として素晴らしいかどうかが大事ではないか。
「内容がキリスト教に関連するから」ではなく、「キリスト教に関連し、作品的に素晴らしいので推薦します」と言うような案内をして欲しいものである。
また内容的に直接キリスト教に関係なくても、テーマ的に相応しいから推薦してください、と薦める作品もあるだろう。

と、まー文句みたいなことを書いたが、最近案内が送られてくる映画は段々内容的に一定レベルに達しているものが出てきているようである。
今年になって目に付いたのは、「大地の詩 留岡幸助物語(公式サイト)」や、イギリスで奴隷解放運動の立役者となったウィリアム・ウィルバーフォースを描いた「アメージング・グレイス(公式サイト)」。
それから案内が来たわけではないが、「ヤコブへの手紙(オフィシャルサイト)」や「ハーモニー 心をつなぐ歌(紹介サイト)」も評判がいい。

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