2011年4月4日月曜日

原発問題とどう向き合うのか

現在進行中の危機、東京電力福島第一原発の問題は、原子力発電が一旦「想定外」の事故を起こした時、どこまで深刻化するかを見せつけている。

筆者は原発推進論者でも原発反対論者でもない。
ただ直観的に「原発はもう要らない、安全ではない」と思ってきた。
たまたま遺産として譲り受けた東京電力株の株主総会で、マイノリティーの「原発反対グループ」の対案に賛成票を投じてきたことくらいがせめてもの意思表示であった。

現在深刻化する問題の中で多くの国民は「原発」に対しこれまでにない恐れと不安を抱いていると思う。
近年報道された原子炉事故は幾つかあるが、人々の危惧は一過性でしばらくすると関心から消えて行ったように思う。
しかし今回は未曾有の自然災害と同時並行で深刻な事態となったため、国民の原発に向ける厳しい目は一気に沸騰した観がある。当然といえば当然だが。

東日本大震災以来毎日目を通すツイート(ツイッターのメッセージ)は日増しに原発に関するものに集中してきているような感じがしている。(筆者がフォーローしている数はほんの少しなのでその印象は限られたものだが。)

毎日これを読め、あれを読め、新たな放射線測定値だ、東電の会見の様子だ、などなど。
なるべく目を通すようにしているが、改めて「原発問題とどう向き合うのか」を考えさせられている。
直感的には「ノーモア原発」なのだが、政治的選択としてはどうなのか。今回の事故による政権及び東京電力の不始末、対応のまずさ、処理能力のなさだけで決めてしまっていいのだろうか。

既に結論ありきとしても冷静に考えて検証しておくべきことが沢山あるのではないか。
そういうものを一つ一つ拾いながら「改めて考えていく」ことが求められているのではないだろうか。

①「安全」という“ことば”を具体的に担保するものは何か
原子力の平和利用としてその危険を認識しながら構築されたとする二重三重の安全対策はどうだったのか。
「東京電力福島第一原発の何が問題だったのか」
「福島原発は欠陥工事だらけ」
「原発がどんなものか知ってほしい」
「(動画)原子力保安院の大ウソ暴露(関東エリア未放送)
これらの文書やビデオが総じて指摘するのは、安全を保障し監視する側の「ことば」「設計」「手続き」「約束事」が机上のものであるということ。
実際は高レベルに複雑な施設を施工管理し運営するにあたって人為的なミスが当然の如く起こるが、それを修正したり改善したりするシステムが脆弱らしいということ。

②原発は民主政治の政治的選択の対象なのか
例えばツイートの中にこんな提言があった。
「現下東京電力の株価は449円。100株買って株主総会で原発推進をストップさせることも夢じゃない」
「原発を国民投票に」

ドイツでは原発推進反対デモに25万人が参加したという。(ウイキ
日本の現状を考えると、今回の事故で情報開示が不十分と感じられる背景には、原発が国家と電力会社の専権事項的な意識が強いのではないか。
民主的な統治の対象として構想されていないことがあるのではないか。

③最も気になること
今回の事故で改めて思い知らされる事となった事実の中で最も気になったのは多量の使用済み核燃料の管理の問題。
これは国債を発行して赤字財政を継続し、結果として多額の債務を後々の世代に負わせることと似ている。
東京で賄う電力を他県の過疎地で調達し、原発の危険をひとまかせにすること自体問題だが、使用済み核燃料処理がちゃんとできるかどうかの確認は現在電力の恩恵を受けている私たち世代では検証できないほど先のことである、という問題。これが最も引っかかる。
原発をたとえ今安全に運転できたとしても、その後始末まで自分たちで保障できないエネルギー技術は持続可能(サスティナブル)なのか・・・。

原子力の科学技術と真摯に取り組んでおられる方々は多いと思う。
今回の事故でも独自に大気中の放射能測定して発表してくれた研究機関の方々がおられた。
だから今回の問題の根幹は国のエネルギー政策という事になるのだろう。
国民一人ひとりが原子力に対する正しい科学的知識を持ち、果たしてその平和利用の範囲はどこまでか、と叡智を集めるときではないか。

以上科学的知識に乏しい一市民の戸惑いつつ感じたことをまとめてみた。

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