2011年4月11日月曜日

危機における情報管理

東日本大震災から一ヶ月。
今日も大きな余震があった。


今回の震災、特に原発事故に関する政府、原子力安全保安院の情報開示の仕方についての疑問。

どっちが国民の「安全・安心」に配慮した情報開示なのか。
①国民を不安に陥れないように、事故の確実な情報がきちんと整理されて報告されるまでは「分からない」としておく仕方。
②想定される危険を適切な範囲で可能な限り速やかに、予断を含んだ見通しも合わせて逐一開示する仕方。

今回政府官邸が取った仕方は①であった。
その姿勢は保安院の中村審議官が事故の翌日に「溶融の可能性もある」との発表を嫌って更迭した、との記事があるようだが、そうだとすると隠蔽とまでは言えなくとも、如何に国民の間にパニックが起こるのを恐れて情報を制御しようとしたかの表れと見える。

現在溶融進行停止策は一進一退であり、最悪のシナリオだと水蒸気爆発によりこれまでとは桁違いの量の放射能が空中に放出される可能性が考えられる、と言う。(京大、小出裕章助教、「福島原発で再臨界の疑いが濃厚に」

安全対策として適切なのは、
①過剰な反応を起こさないようにし、現れた事象に対応してその都度適切な安全対処をするのか、それとも
②予め可能性のある最悪の事態に対応して準備し、事象の危険度が低くなるにつれて避難・退避の指示、警告、勧告を解除していくのか。

どっちの方法が今回の原発事故に相応しいのだろうか。

そのことを今考えている。

政府は現在①を取っている。原発からの退避も最初は数キロ圏内から次第に20キロ、30キロ、そして同心円ではなく、風向きなどで放射線量が変化することを考慮するものに変化してきた。

放射線被曝の危険について十分な知識もなく、政府(お上)の指示に従順に従う国民性の国では、日本政府の取っている方法は「徒に危険を意識させない」と言うことではパニック回避として合っているのかもしれない。

自分の安全は自分でなるべく守る・・・と言う国民性の国の場合は、はっきりと客観的危険性についての情報を開示される方が合っているのかもしれない。

それで現下の危機に関して筆者が感じることは、これまでの「原子力安全神話」をかなり刷り込んできた経緯を顧慮すると、最悪のシナリオに沿った危機管理をするのは困難ではないか、と言うことである。
ただ自分で情報を利用し的確な危険回避行動を個人で取れる人には、現在の政府の情報開示の仕方は不十分と言わざるを得ない。

しかし、どちらにしても、政府は国民の人命を第一にした危険回避対策を採ってほしいと思うのである。国民もお上任せにしないで必要な情報や知識を積極的に取り入れる姿勢が必要ではないか。

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