2011年4月25日月曜日

教会の「司牧」と原発問題

受難週からイースターにかけて「原発問題」ポストから遠ざかっていたが、学習は進めていた。

東日本大震災から「東京電力福島第一原発問題」だけ切り離してポストを続けるのは心苦しいのだがそれだけ今論じられるべき問題だと思うからである。
被災地の復興もある意味日本という社会の将来の見取り図を変えるような意義を持っているが、原発エネルギーもまた大きく社会のあり方を変える意義を持つ問題だと思う。

筆者の見渡したところキリスト者や牧師、教会のブログで継続的に原発問題に警鐘を鳴らしてきたのはやはり「小海キリスト教会牧師所感」だろう。
水草牧師がどのような経緯で原発問題と取り組むようになったのかその経緯を知らないが、これだけ量も質もこの問題の啓発のために文章を書いておられる方(キリスト者、牧師)は珍しいのではなかろうか。

最近ある方がこのブログを読んで以下のようなコメントを寄せた。
 神の前にでる備えが各自できているかどうかが大切と説くキリスト者の方が、同時に、現在の原発事故の事態を傍観するのではなく、現実を直視して、通信してくださっていることに感謝いたします。
 人々の生活と故郷を奪い、動物や自然を傷つける放射能と原発を容認してしまっていることに対して、日本人として責任を逃れられる人は一人もいないのだと思います。
 神の前でのどう生きるかを問うからこそ、この問題を語ってくださっているのだと思って、ブログを拝読しました。
これに対して水草牧師は以下のようにコメントを返している。
 イエス様が私たちにくださったもっとも大切なご命令は、全身全霊をもって神を愛しなさいというこ とと、隣人を自分自身のように愛しなさいということです。そして神への愛と隣人愛は不可分だと主イエスは教えてくださいました。原発問題ということも、こ の二つで一つの愛の戒めに誠実に応答しようとすれば、どうしても傍観しておくわけに行かないなと感じています。
このコメントを読みながらあらためて「キリスト者として『原発問題』と取り組むスタンス、アプローチとはどうあるべきか」と言うことを考えさせられた。
水草牧師は既にはっきりと反原発あるいは脱原発の態度を取っておられ、浜岡原発即時停止のアッピールもしておられる。

筆者の場合はこの度の苛酷事故が起きるまで、ぼんやりとした反原発の立場であったが、人々を啓発したり、アッピールしたり、と言うところまではこの問題に対する考え方、立場を煮詰めて来なかった。やっと遅まきながら原発の問題が孕む様々な諸相を学習し始めたに過ぎない。

このブログにおいても原発問題の深刻性を訴えることはしているが、神学的、倫理的に議論するまでにはまだ至っていない。
そんな中で教会の働きとして最近三つのことが連関して想起されている。
①礼拝
②司牧
③宣教

特に原発問題に関連しては「司牧」と言うことばが想起されている。プロテスタントでは「牧会」と言うことばがよく使われるが、これはややもすると教会内に限定されがちである。
しかし教会が社会との関連を余儀なくされた歴史の中では「司牧」の範囲は社会全体、教会が位置する共同体全体に広げられる。

このような視野をよく表しているのがカトリック教会ではないかと思う。
カトリック教会の社会正義の問題との取り組み、特に経済的弱者や社会的弱者への目配りはある種分離主義に傾き、伝道を社会との唯一の接点としやすいプロテスタント福音派教会が学ばなければならない手本だと思う。

カトリックのイエズス会が出している「社会司牧通信」の第158号(3月15日号)にちょうど原発問題を扱った鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリー映画『ミツバチの羽音と地球の回転』が紹介されている。

日本の小さな島の原発との戦いと、スエーデンでの脱原発の取り組みが紹介されているものだそうだ。やはり住民が原発と言うものをよく理解し、自分たちの未来(子孫)にどのような社会・文化を遺産として残して行くか、と言う視点が大事なのだと思う。

先ほどの水草牧師の『隣人愛』と言うことで言うと、その対象は今の世代だけでなく遠い将来にわたる隣人、そして生態系も含まれるのだと思う。
原発問題はそのような長いスパンでの視野に立つ選択を必要とする問題ではないだろうか。
そして教会の「司牧」の働きもそれに合わせて視野が広げられる必要があるのではないだろうか。

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