2011年7月11日月曜日

進化論と科学すること

今日は門外漢らしく「横やり」的な記事にまとめてみようかな。

最近とある場所でK・Iと言う方が、「心臓外科医が語る驚異の人体」と題する講演を行ったそうなんだ。

と、これをあるキリスト教出版関係の方でMと呼ばれている方が、「私たちはこういう立場はとりません。→ 聖書は正しく、進化論は間違い-クリスチャンは堂々と説明できるべき」と言うツイート(ツイッターのメッセージ)を流したそうな。

すると、これがツイッター上で議論に発展し、クリスチャンもそうじゃない人も巻き込んで、色んな見方と言うか疑問がやり取りされたんだって。
それをtogetterにまとめてくれた人がいて大体追っていくと議論の展開がある程度読めるって言うわけ。

傍観しながらその一部を眺めていた筆者でしたが、
「こりゃーブログ記事になりそうかなー」などとあれこれ考えていたら、議論の一部を構成していたS・NさんとN・Kさんのツイート応酬を、S・Nさんが自分のブログにまとめちゃいました。

ここ数日、そう言う訳で暫く振りにまた「進化論」なるものの存在を確認したわけですな。

でっ、この一連の議論での「進化論」は、かなり通説的な意味での「進化論」の場合もあるし、少し立ち入って現在の生物学的進化論を念頭に語られている場合もあるし、話者によって「進化論」の意味する範囲や科学的次元での認識に少々差があるみたいなんですね。

傍観者としては議論が炎上するのを見るのは多少面白いのだけれど、何か新たな認識やヒントがあるかというと・・・うーん少し期待外れかな。
でも話題は色々な方向に広がってそれなりに楽しめました。

元に戻って、K・Iと言う某大学の准教授さんがやっつけようとした「進化論」は現在の生物学的進化論のレベルから言うとかなり昔の「子供用の通説」のような印象を受けるのですね。
だからこのような「進化論」をやっつけ、被造物としての人体の不思議さを力説しても、それは必ずしも「創造論」を強化するとは限らないように感ずるのですよ。
所謂「ストローマン(藁人形)」を相手にしている議論のようなんですね。

話の視点を大きく変えますが、この一連の議論、特に「進化論」の話題に関して筆者が大切だと思うのは、「教育」ということなんです。

少し極端な言い方をすれば「教育」とは「文化・伝統」を継承することです。科学にしても(進化論はその一部)宗教にしても、それは文化を伝承することだと思うんです。
ただそのやり方には色々あるし、簡単ではありません。

科学的な教育で大事な点は「データの検証」を導く仮説であり、その発展によって仮説自体が進化することですよね。
この科学的検証のプロセスで「批判的なものの考え方」が大事だと言うことは誰でも認めることです。「信仰(宗教)」の伝承とは正反対のように見えるかもしれませんが、実はキリスト教も単なる「教説」を無批判に継承することが大切なわけではありません。
視点は違いますが、科学が対象にしている「世界(リアリティー)」と、キリスト教(宗教)が対象にしている世界は全く相容れない異なるリアリティーではなく、多分に重なっていると思うのです。
確かに科学は「見える世界」としての物質的宇宙全体を相手にしますが、キリスト教(宗教)はそのリアリティを越えた「見えない世界」「スピリチュアルなリアリティー」だけを相手にしているのではありません。

「進化論」と言うと聖書、それも創世記の一部だけが突出して議論されますが、それはキリスト教全体の真理を代表するものではありません。
キリスト教に限って言えば、「世界はどの程度の客観的時間の長さで生成したのか」は中心ではありません。しかしそれは創世記が重要ではない、と言うことにはなりません。

キリスト教の教えの中核は「イエス・キリストにおける神の救いのご計画の実現」です。
しかしこの「神の救いのご計画」は、科学が対象にする物質的宇宙と深く関わっているのです。
その枠付けをしてくれるのが創世記から始まる「世界」の歴史だと思うのです。

キリスト教教育にとって大切なのは「イエス」に関する、「神」に関する、「救い」に関する「教説」を断片的に押し付けることではありません。
この物質的宇宙全体を含めた救済のドラマ全体を把握し、そこに「私」の存在を発見することです。

科学教育にとっても大切なのは「進化論」と言う「学説」を押し付けることではありません。生徒たちは断片的知識の詰め込み教育には余り関心を示さないでしょう。子供たちが知りたいのは世界全体の成り立ちと、自分の存在がそこにどう関わっているか、と言うことの組み合わせだと思うのです。

信仰も科学も今キーワードとなっているのは「ストーリー」だと思います。
この「見える世界」も「見えない世界」も含めたリアリティー全体を有らしめている『原理』『真理』を物語の流れの中で分かるようになりたいのです。

「進化論」教育は単なる学説としてではなく、一つの大きな『世界全体』のエポリューション(成り立ち)として物語られる方向に向かいつつあるようです。
宇宙の進化、物質の進化、地球の進化、生命体の進化、生物の進化、人間の進化、等々を一つの時間の流れの中で展開する物語として子供たちに教えようとする取り組みが試みられています。(Our Common Story

さて傍観者の呟きが説教調になってきたところでやめておくのが賢いでしょうね。
では又いつか「進化論」について呟くことにしましょうかね・・・。

3 件のコメント:

  1. 先生、
    私がまとめたN.Kさんとのやりとりは、進化論についてではなく、「身体性のキリスト教」に関することですよ〜。^^
    http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/20110707#1310070611


    N.Kさんは、NTライトにも言及しつつ、「救済の究極的目的はからだのよみがえり」とおっしゃり、そのことをもっと聞きたいなぁと思っていました。

    先生が
    >キリスト教の教えの中核は「イエス・キリストにおける神の救いのご計画の実現」です。
    >しかしこの「神の救いのご計画」は、科学が対象にする物質的宇宙と深く関わっているのです。


    とおっしゃっていることと、関連があるような… よろしければ、このあたりのこと、ぜひもっとお聞かせください。



    個人的には、進化という膨大な、フィジカルな、プロセスを神様がお用いになられたと受け入れることは、いわゆる「霊的歩み」「霊的成長」を考える上でも、大きなヒントになるような気がしています。

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  2. コメント感謝。「進化論」のツイートからの分岐で出てきたものとは言え、ちゃんと「身体性のキリスト教」とあったのに無視した形となってしまい失礼しました。
    「救済の究極的目的はからだのよみがえり」と言うことと、「神の救いのご計画」は、科学が対象にする物質的宇宙と深く関わっている、という事の関連性を最もよく物語るのはパウロがロマ8:18-25で展開している見方です。
    使徒信条の「からだのよみがえり」は個人的終末論(人は死んだらどうなるの=死後の命)に慣れてしまった私たちには、霊肉二元論的な思想にのっかった「非身体的、つまりギリシャ的思惟の霊的永遠の命」に矮小化されてしまいがちです。
    「ライト的」ということは、この霊肉二元論を克服した上で復活の身体を回復する主張です。しかも復活が単に身体的であるだけでなく、先の聖書引照にあるように「被造物全体の贖い」とリンクされている点が重要です。それは人類が被造物に対して神の代理者として創造された故、人類の身体のよみがえりは、被造物全体の身体のよみがえりを先導するわけです。
    科学あるいは自然神学で言う「ネイチャー」は物質的宇宙として人間から独立してあるように見られますが、神学的には「被造物全体」として「人間」と「被造世界」とがリンクされた存在です。(終末において新しく変革される)贖いの対象はそれ故科学が対象とする物質的宇宙に深く関わっているのです。換言すれば神学的叙述と科学的叙述は実は同じリアリティーを異なる表現と異なる視点でその「エボリューショナルな変革」を見渡そうとしているのだと思います。
    このような包括的世界観を抱合した霊性を目指すことが大切ではないかと思っています。
    以上何か参考になったら幸いです。

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  3. 先生、お返事ありがとうございます!

    贖いの対象は被造物全体(つまり自然も)に及んでいるということ、からだのよみがえりが被造物全体の贖いを先導するということ… 
    それが実現したときには、自分は、またこの世界は、どのようになっているのだろう?と考えると、まったく想像もつきませんが、でも、そこに望みがあるのですね。

    原発事故以来、被造世界の贖いということについて、ぼんやりと考えていました。土地も空気も水も、そこに育つ植物も動物もみな汚染されてしまい、土地が癒されること、贖われること、それを待ち望むことが、とても切実なものになったと思いました。


    >このような包括的世界観を抱合した霊性を目指すことが大切

    鎌野先生も同じようなことをおっしゃっていました。
    「霊性」というと、どうしても霊肉二元論的なイメージで、as opposed to physicalの「霊」を思い浮かべますが、そうではなく、physical, mental, relational, socialすべてが含まれるはずなのですね… 


    とても深くて、壮大で、まだまだとても「分かりました」とは言えませんが、方向性が見えてきました。どうもありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。
    19日、お目にかかれるのを楽しみにしております。

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