2011年7月30日土曜日

ご案内

明日、7月31日主日の礼拝をお休みいたします。

(※例年この時期には聖泉連合のサマーキャンプと合同礼拝がありお休みしていました。今年サマーキャンプは中止となりましたが、そのままお休みといたします。)

次の主日礼拝は、8月7日となります。

2011年7月29日金曜日

満身の怒り

目下注目の人が、2011年7月27日 (水) 衆議院厚生労働委員会で、
「放射線の健康への影響」に関して参考人説明をした児玉龍彦氏。
東京大学先端科学技術研究センター教授
東京大学アイソトープ総合センター長

標題の「満身の怒り」は、児玉教授が福島第一原発事故以降の政府の対策に対して、総じて後手後手であり、無策に過ぎていることに対して発せられた言明のようである。


と言うことで先ず関心のある方は、この児玉教授の国会参考人質疑のYouTube画像をご覧になると良い。リンク

さらにこの時の衆議院厚生労働委員会での質疑の全体は
URL:http://www.shugiintv.go.jp/jp/video_lib3.php?deli_id=41163&media_type=wb

筆者は全部を見たわけではないが、児玉教授の危機感露な発言に対して、質問に立った国会議員の質問は生ぬるい感じがする。

ファラオの前に夢を解釈するために呼び出されたヨセフが、7年の豊作と7年の飢饉を解き明かした後に、この国難に対する危機管理長官に直ちに選出された。
児玉教授のような発言はこのヨセフの時のように、正しく評価して、「国会がすぐにやるべき対策」を取るべきだろう。
アクションを起こす代わりに、国会であーだこーだ審議しているだけでは埒が明かない。

とまあ、児玉教授だけではなく正しい危機感を持って自分の専門領域で働いている人が少なくないことを願う。

2011年7月28日木曜日

ジョン・ストット(1921-2011)

ビリー・グラハムと並んで、戦後福音主義を代表する人物であったジョン・ストットが天に召された。90歳だった。


不思議なことに筆者は殆んど何もストットに関する縁というかつながりを持っていない。著書を一冊も持っていないし覚えている限り彼の著作と言えるものを何一つ読んだことがない。

彼の講演を聴いたこともない。

と言うわけで、これを機に師の訃報を伝える記事をあちこち見ながら改めて師の人柄や業績を学んでいる次第である。

少し遡るが、ストット師が熱烈なバードウォッチングの愛好者であること。それを切り札に日本伝道会議の聖書講演者として招くことに成功した次第を、「のらくら者の日記」ブログが紹介している。(「二つの書物」

先ずストット師の業績を概観する記事として「クリスチャニティ・トゥデー(オンライン)」のティム・スタッフォード記者の文章、John Stott Has Died、を読むことをお勧めする。
記事の最後に彼の人柄をこうまとめている。
He was known all over the world, but when you met him he was a most devout, humble Christian man. His private life was no different from his public life. It was the same person. That's another way to say that he had integrity. There was no posing."
筆者が回覧している英語ブログで一番早く訃報を伝えたのは、デニー・バークのブログだった。

やがて次から次へと哀悼のメッセージや彼の影響を語るブロガーたちの記事に接した。
マイケル・バード「ユーアンゲリオン」
スコット・マクナイト「ジーザス・クリード」
(以上は右側のリンクを参照あれ。但し「ユーアンゲリオン」の新しいアドレスは新しくなっているので、古い方からジャンプしてください。)

マイケル・ゴーマンの「クロス・トーク」ブログでは、Thoughts on the death of John Stott、と言う記事でストット師から受けた影響(主に著作を通して)を紹介している。

と言うわけで、個人的にはジョン・ストット師と殆んどつながりを持たない筆者だが、彼の残した影響は色んな形を通して筆者にもやって来ているのだと思う。

改めて幾つかの訃報記事を読んで筆者が惹かれたのは、ストット師のキリスト者としての人柄だ。伝えられるところによると、彼の「謙遜さ」、「表裏のないこと」、「大げさじゃない」、「知的誠実さ」、そんなところだろうか。
しかし人柄だけでなく、何よりも福音の宣証に対する熱心さ、その福音の意味を社会的広がりにまで広げた、ローザンヌ誓約をまとめあげた人間関係を大切にするリーダーシップ、が印象に残る。

さて遅くなったが彼の本を何か一つ読んでみようかな。

2011年7月25日月曜日

ノルウェー銃乱射事件

この国で、こんな事件が・・・。

衝撃だった。
福祉が充実し、比較的裕福で安定した社会。
それがノルウェーを含めた北欧三国のイメージだった。

アンネシュ・ブレイビク容疑者(32)については色々な報道がなされていて、ある程度この人物の輪郭は掴めるようである。しかし、政府庁舎爆撃とウトヤ島での銃乱射と言う政治テロと見える行動の背景はまだまだこれからではないか。

報道によるとブレイビク容疑者は保守的キリスト者であるという。
しかしノルウェー労働党政府の移民政策や反イスラム主義に対するテロとしては単なる保守キリスト教を背景と見るのは早計ではないか。


YouTubeで流されたと言う反イスラム主義の、Knights Templar 2083としての主張や、戦争ゲームなどを好んでいたとの情報を合わせると、何やら子供じみた大げさなドラマ仕立ての主役であるかのように振舞ったように見える。

目下の関心は法廷でのやり取りを公開するかどうかにある。と言うのも容疑者自身が自分の行動の背景を説明したいと言っており、もし公開すればテロリストに自己のイデオロギーを宣伝する機会を与えることになるからだ。

BBCによると
His lawyer, Geir Lippestad, told Norwegian media on Sunday: "He thought it was gruesome having to commit these acts, but in his head, they were necessary.
"He wished to attack society and the structure of society."
つまり彼の頭の中では今回のテロは残虐であるが必要だとの確信に基づく蛮行であったわけだ。殺戮についての計画も念の入ったものであっただけでなく、それを正当化するイデオロギー強化にもかなり時間をかけた様子である。

非道な暴力を冷血とか人の血が通っていないとか言うが、少なくとも普通の人間の感覚や感情が彼には全く備わっていなかったのだろうか。
それとも自分のイデオロギーの正しさに余りにも自己陶酔してしまって、殺戮行為を犯すと言う感覚が麻痺してしまったのだろうか。

彼の爆破行為や銃乱射に何かシュールでバーチャルな感覚がつきまとう。
テレビゲームで大量殺戮を日常的にやっている姿が重なってしまう。
現実とバーチャルが実際の世界で摩り替わってしまったのだとすれば、何と短絡的なテロ行為だったのではなかろうか。

従来のテロ行為は、軍事的に圧倒的劣勢に立つ者が起こす自爆的なもの、と言う構図があった。
先進国で今回起こったテロ行為はそれとは異質なものだと思う。
日本では数年前に秋葉原事件があったが、政治的メッセージが込められていなかったにせよ、現代の孤独と不満を暴力によって発散する構造には何か通底するものを感じる。

これだけの人の命をまるでゲームをするかのように手玉に取った容疑者の行動には言い知れぬ恐れとともに、悪の非道性を越え、人倫の規範の枠の外で行われた、無機質な一種の表現主義を見るような気がする。

2011年7月23日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月24日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:12
説 教 題 「私のようになってください」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(64)
ガラテヤ人への手紙(52)
・4:8-20 訴えかけるパウロ

※次週、7/31の礼拝はお休みします。

2011年7月22日金曜日

J.H.ヨーダー

今日は神学者で既に故人となったジョン・ハワード・ヨーダーについて。

迂闊にも20世紀から21世紀にかけて在野(と言う表現はちょっと正確ではないが)の神学者として影響力を持つヨーダーのことを余り注意してこなかった。

たまたまとあるグループのヨーダーの著書『イエスの政治』(原題、The Politics of Jesus)の読書会に加わることになった。
毎月一回のペースで、昨日が二回目の参加。
でも途中から加わったので昨日はもう12章ある本の11章目だった。

この読書会に参加することになって本棚からThe Politics of Jesusを見つけ出した。
いつ頃購入して読んだのか記憶がはっきりしない。
多分アズベリー神学校時代(1978-1981)だったろうと思う。

一応本にはアンダーラインやメモが入っているので、読んだには読んだのだと思う。最後まで。
でもこれと言ったインパクトがあったかと言うとそのような印象はない。

ヨーダーはアナバプティストのグループの一つ、メノナイトの神学者で、平和主義者であり、本の題が示すようにイエスの教えを行動原理として現代に活かそうとするラディカルな神学者、と言う位置づけとなり、その頃の自分には多分距離が離れすぎていたのだろう。
それで余り感銘を受けなかったのかもしれない。

本を枕にースピリチュアルな日々」ブログで紹介している「『クリスチャニティ・トゥデイ誌』が選んだ宗教書、宗教思想書100選シリーズ」では第5番目だそうだ。
この本についてのクレオパさんのコメントは
アメリカ人。プロテスタント。非暴力、絶対平和主義のメノナイト派の神学者。日本のキリスト者はぜひ読むべきなんでしょうね。わたしも持ってますが、読むのはまだ・・・・。
だそうである。

ヨーダー『イエスの政治』読書会に参加するようになって、例によって色々ネットで検索してみたが日本語ウィキペディアでは記事にもなっていない。
英語ウィキペディア(John Howard Yoder)ではヨーダーの個人的スキャンダルについての消息が結構詳しく書かれている。

昨日の読書会では筆者がN.T.ライトの次くらいに注目している、リチャード・B・ヘイズ(現デューク大神学科長)にも多大な影響を与えている、と聞き「えっ」と思った次第である。
これはいよいよヨーダーをもっと読まねば、と思わされた。

さて神学者としてのヨーダーはどうやら重量級だ、と言うことは感じられた。
彼の著作は今後も編集者によって発掘され発刊されるようである。
日本でも邦訳は進んでいくのではないか。
とすると「ジョン・ハワード・ヨーダー」の名前は記憶にとどめておくべきものと思う。

2011年7月20日水曜日

ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ

カタカナの羅列の標題になってしまったが、New Perspective on Paul (略してNPP)は最近のパウロ研究の中心を占めてきた話題である。


ネット上を英語で検索すればざくざくでてくるのに、日本語では殆んどヒットしない。
そもそもまだ定訳がないみたいだ。
「新パウロ観」と訳しているサイトもあるようだが、何しろ日本語サイトでは『ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ』に関する情報を得ることはかなり困難な印象である。

私事で恐縮だが、筆者が主宰する「N.T.ライト読書会」ウェッブサイトで、元ダーラム大聖堂主教、現セント・アンドリュース大学特任教授(と訳せばいいのかな)、のトム・ライト師を「・・・『パウロ神学』の〝新解釈〟の論客の一人として有名です。」と紹介している。

日本にも(新約)聖書学者、パウロ研究者は結構いるはずだろうに、ネット上での啓蒙活動は個人的、個別的研究に限られていて、最近のパウロ研究の動向には余り関心がないのだろうか、と勘ぐりたくなる。
あるいは筆者の検索が悪いのか浅いのか・・・。

と言うわけで、非常に初歩的で簡単な『ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ』についてのメモをここに残しておこうと思う。
もちろん門外漢である筆者のメモであるから、その辺適当に「そんなもんか」と受け流して欲しい。

(英語が大丈夫な方は、ウィキ記事が簡単な入門になる。)

さて、最初に誰の名前を挙げようか。やはり『ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ』の一応の名付け親となった新約学者のジェームズD・G・ダン教授かな。

筆者の理解では、NPPの意義は、宗教改革以来の根本教理である『信仰義認』は関連聖書箇所であるローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙を正しく(歴史的に)解釈していない、と問題提起したことではないかと思う。
宗教改革の『信仰義認』理解の背景となったのは、当時のカトリック教会の救済観(免罪符の問題や功徳の役割)であり、その理解を関連聖書箇所に読み込んでしまった、と言う分析である。

このようなパウロ神学解釈のパラダイムシフトの先駆けとして名前が挙げられるのが、クリスター・ステンダールの、The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West、である。
数年前までこの論文はネット上で入手可能であったのだが、現在は見当たらない。

この論文もそうだが、総じてNPPが主張するのは宗教改革の『信仰義認』理解は、厳密な聖書釈義に基づくものではなく、西洋史における「内省的自己」、個人の罪責感からの解放を救済論における「義認」に読み込んだ、というものであろう。

その点で大事なのは、近年のユダヤ教研究が進み、『信仰義認』の教理の背景となる「戒律主義的ユダヤ教」理解が時代錯誤であることを確認したことである。
この辺りを綿密に実証したのが、E・P・サンダースの、Paul and Palestinian Judaism: A Comparison of Patterns of Religion (Fortress Press, Philadelphia, 1977)、である。

なおウィキペディア記事では物足りない方には、The Paul Pageと言うウェッブサイトがあること紹介しよう。
The New Perspective on Paulのセクションは以下のような内容となっている。
    * Introduction and Summary
    * From The Paul Page
          o Articles
          o Book Reviews
    * Around the Web
          o On the New Perspective
          o From the New Perspective
          o Challenging the New Perspective
          o Book Reviews
          o Discussion Lists
    * Bibliography
    * Related Sites

英語圏では神学や聖書学を専門にしているブログが数多くあるが、日本語圏では非常に少ない。
既に少し書いたがこの辺の事情を日本の研究者たちはもっと真剣に考えて欲しい。
学会に対してだけでなく、ネットパブリックに対してもせっかくの研究成果をもっと発表して欲しいものである。

(※NPPが主題ではないが、ネット上で入手できる論文として栗林輝夫氏の「『帝国論』におけるイエスとパウロ」はNPPも含めて最近の動向を紹介している。)

2011年7月18日月曜日

スポーツの意義

女子ワールドカップ・サッカーで日本チームが快進撃し、ついに優勝した。

先ずは選手たちに「おめでとう」と言いたい。

粘り強く自分たちの力を信じて最後まで走った。
延長でも勝負は決まらずPK戦に。
もうどっちが勝っても両チームとも称えられるべきだと思うが・・・。
そこはやはり優勝戦。勝負を決しなければならない。

(牧師が言うのもなんだが)勝負の女神は日本に微笑んだ。
試合前半あれほど圧倒していた米国が負けるなんて、勝負って分からないもんだね。

ところで日本の選手たちも言っていたが、大震災に遭った日本国民を励まそうと言う気持ちが試合に出ていたのかもしれない。
試合後の感想にも日本選手のメンタルの強さを言っている論評があったが、そのことと関連しているのだろう。
敗れた米国チームも、敗れるんだったら日本チーム、と思っていたそうな。

ところでスポーツと言うと、個人の戦いにしろ、チームの戦いにしろ、ワールドカップやオリンピックでは「国を背負う」と言うことが出てくる。
選手たちもそうだろうが、国家の方が国威発揚や政治的な目的でスポーツ強化に乗り出す場合がある。
スポーツに「国」を持ち込むのはある面「本当の戦さ」をしない平和な姿を現す、と言えるかもしれない。

だが近代オリンピックが国家的な枠組みで発展してきたのに比べると、その発祥である古代ギリシャではスポーツはどんな意義を持っていたのか。
本来は競技者自身が互いに競うことによってその競技の技術と力を優れたものにする、高めあう意義があったはずである。

その近代オリンピックも国威発揚だけでなく、お金を稼ぐためとか、有名になるとか、自己実現的意義もおびるようになった。そのためならドーピングも厭わない風潮も出てきたわけである。

今回の「なでしこジャパン」の快進撃には、精神的に国民を励ます、と言う意味で違った意義を帯びていた。それを他国の人々も理解して日本チームを応援したのだろう。

ところで例によってまた石原都知事が「なでしこジャパン」の快進撃に引っ掛けて「如何なものか」発言をしたと伝えられている。
18日の朝日新聞の「都知事発言」コラムに、石原氏が15日の定例記者会見でこんな発言をしていたらしい。
「(中略)とにかく最後に、アメちゃん(米国)にだけは勝ってもらいたいな。そうしたら、やっぱり日本人は溜飲下げるよ。
(中略)俺なんか古い人間だから、65年の遺恨って言うのがあるわけだよ、戦(いくさ)に敗れてからの。君ら、全然痛痒を感じてないだろうけどさ」
こんな風に見られるのはスポーツをする側にとって迷惑な話だろう。確かに「なでしこジャパン」は自分たちのためにも戦ったが日本国民のためにも戦った。
だけどそれは過去の戦争の遺恨などとは全く関係のない「国を思う思い」であったはずだ。
サッカーボールを挟んでフェアプレーした両国の選手たちにとってもそれは代理戦争などではない。勝負が終わってお互いの健闘を称え合うのが選手たちにとっての意義深い交流ではないか。

そんな選手たちの気持ちを考えると、やはりこの都知事発言はまたもや失言と言わざるを得ない。

世界一になったことは確かに素晴らしいが、その戦い振りがスポーツの持つ爽やかさと解放感と勇気を多くの人々にもたらしたことを賞賛したい。

2011年7月16日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月17日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:11
説 教 題 「あなたがたのことを案じています」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(63)
ガラテヤ人への手紙(51)
・4:8-20 訴えかけるパウロ

2011年7月15日金曜日

ネメシェギ神父の講演会

知人のSさんにご案内を受け、ペテロ・ネメシェギ神父の講演会に行ってきた。

以前Sさんからは神父著の『イエス』を頂いており、最近になって手にとって読み出したところだった。
淡々とした語り口(説き口)に好感を抱いていたので、講演会の話を聞いた時、行ってみようかと心が動いた。

しかし体調は今ひとつ、酷暑の午後出かけるのは骨が折れるなー、とは感じていたのだが、Sさんには「トライしてみるよ」と答えておいた。

さて当日(今日)になって何とか準備が出来たので四谷の聖イグナチオ教会に出かけた。
歩いて駒込まで出れば南北線ですいすいと着く。
ちなみに聖イグナチオ教会に入るのは初めて。

聖堂横のヨセフ・ホールに入ったらまだ開始10分前だった。
誘ってくれたSさんとも顔を合わせ一緒に席に着いた。

講演と言うよりはプロテスタントの説教に近い感じで聞いていた。
お題は「聖霊と今日の家庭」
少し日本語が聞きにくいので目をつぶって聞いていた。

やがて睡魔にかすかに襲われたが、最後まで聞くことが出来た。
お話は夫婦の「契り」、家庭の「絆」を維持するのが難しい時代、それを助けてくれるのが聖霊の力だ。と言うようなお話だった。


ちょっと表現は硬いが「教説」としてはオーソドックスな内容だが、語り口にも紹介されるエピソードにも人間味溢れ、奇をてらったところがない。
病院である神父を見舞った時の「聖三一」の霊想を延々と語り合ったエピソードなどユーモアを交えて、穏やかな口調で話される内容に何か納得させられた。

ネメシェギ神父(イエズス会)は、長年上智大学神学部教授として奉職された方で、1993年故国ハンガリーに帰国された。しかしその後も度々来日され、講演活動をなさってきた。今年はもう御年88才と言うことだが、一時間余の講演の間中立ったままでお話された。話の展開もうろうろせずしっかりしたものである。聞けば本国ではまだ現役神学校教師として働かれているそうだ。

講演会はもう一回、7/22 16:00-17:30
「神の美しさの啓示」
場所イグナチオ教会 ヨセフホール(四ッ谷駅前)
が予定されてる。お時間のある方はどうぞ。(無料)

2011年7月13日水曜日

暑さ対策

ただいま日本は熱波に見舞われて、連日真夏日と熱帯夜。
体調を崩している人たちも多いと思います。

当教会の会堂はトップライトがあり、普段は降り注ぐ陽光が礼拝の雰囲気を盛り上げる、と言う面もあるのですが、いかんせんこの暑さの中では逆効果。
先土曜日、大急ぎで遮蔽ネットをかけました。

よく農家などが使っている黒いネットと、銀色の網目の細かいネットと二重にかけました。大分暗くなってしまいましたが、礼拝時間中もろに光を受ける位置に座る人にとって大助かり。
かく言う筆者もやはり直射位置に立つので助かります。

このブログでも以前紹介したことのある屋上緑化ですが、このネットをかける仕事のため久しぶりに上がって点検してみたら、大分土が干上がって植物は何やら小さなコケのようなものが殆んどになっていました。

実は数年前からイネ科の植物(雑草)とのバトルが続いていたのですが、ついに今年は屋根の一部はほぼ全滅状態までやられてしまいました。
イネ科の植物もあちこちに細々とあるだけで増え広がっていないことだけは良かったのですが・・・。

当教会堂にはエアコンがありません。それだけ屋上緑化に寄せる期待は大きかったのですが、新築から十年経ってやはり少し甘い目論見だったと思わされます。
かといって新たにエアコン設置を考えているわけではありません。

どうして今後の暑さ対策をして行けばいいのか・・・。悩むところです。

世は福島第一原発事故以来、代替エネルギー論が日増しに強まっています。
冷房技術も何か画期的な新発明でも出てきて、「簡単置くだけ」みたいな装置が出てこないかなー、などと真夏の世の夢を見ている今日この頃です。

皆さんにおかれましては、くれぐれも無理な我慢をなさらず、冷房を上手に使って、熱中症から身を守り、この暑い長い夏を乗り切ってくださいませ。

2011年7月11日月曜日

進化論と科学すること

今日は門外漢らしく「横やり」的な記事にまとめてみようかな。

最近とある場所でK・Iと言う方が、「心臓外科医が語る驚異の人体」と題する講演を行ったそうなんだ。

と、これをあるキリスト教出版関係の方でMと呼ばれている方が、「私たちはこういう立場はとりません。→ 聖書は正しく、進化論は間違い-クリスチャンは堂々と説明できるべき」と言うツイート(ツイッターのメッセージ)を流したそうな。

すると、これがツイッター上で議論に発展し、クリスチャンもそうじゃない人も巻き込んで、色んな見方と言うか疑問がやり取りされたんだって。
それをtogetterにまとめてくれた人がいて大体追っていくと議論の展開がある程度読めるって言うわけ。

傍観しながらその一部を眺めていた筆者でしたが、
「こりゃーブログ記事になりそうかなー」などとあれこれ考えていたら、議論の一部を構成していたS・NさんとN・Kさんのツイート応酬を、S・Nさんが自分のブログにまとめちゃいました。

ここ数日、そう言う訳で暫く振りにまた「進化論」なるものの存在を確認したわけですな。

でっ、この一連の議論での「進化論」は、かなり通説的な意味での「進化論」の場合もあるし、少し立ち入って現在の生物学的進化論を念頭に語られている場合もあるし、話者によって「進化論」の意味する範囲や科学的次元での認識に少々差があるみたいなんですね。

傍観者としては議論が炎上するのを見るのは多少面白いのだけれど、何か新たな認識やヒントがあるかというと・・・うーん少し期待外れかな。
でも話題は色々な方向に広がってそれなりに楽しめました。

元に戻って、K・Iと言う某大学の准教授さんがやっつけようとした「進化論」は現在の生物学的進化論のレベルから言うとかなり昔の「子供用の通説」のような印象を受けるのですね。
だからこのような「進化論」をやっつけ、被造物としての人体の不思議さを力説しても、それは必ずしも「創造論」を強化するとは限らないように感ずるのですよ。
所謂「ストローマン(藁人形)」を相手にしている議論のようなんですね。

話の視点を大きく変えますが、この一連の議論、特に「進化論」の話題に関して筆者が大切だと思うのは、「教育」ということなんです。

少し極端な言い方をすれば「教育」とは「文化・伝統」を継承することです。科学にしても(進化論はその一部)宗教にしても、それは文化を伝承することだと思うんです。
ただそのやり方には色々あるし、簡単ではありません。

科学的な教育で大事な点は「データの検証」を導く仮説であり、その発展によって仮説自体が進化することですよね。
この科学的検証のプロセスで「批判的なものの考え方」が大事だと言うことは誰でも認めることです。「信仰(宗教)」の伝承とは正反対のように見えるかもしれませんが、実はキリスト教も単なる「教説」を無批判に継承することが大切なわけではありません。
視点は違いますが、科学が対象にしている「世界(リアリティー)」と、キリスト教(宗教)が対象にしている世界は全く相容れない異なるリアリティーではなく、多分に重なっていると思うのです。
確かに科学は「見える世界」としての物質的宇宙全体を相手にしますが、キリスト教(宗教)はそのリアリティを越えた「見えない世界」「スピリチュアルなリアリティー」だけを相手にしているのではありません。

「進化論」と言うと聖書、それも創世記の一部だけが突出して議論されますが、それはキリスト教全体の真理を代表するものではありません。
キリスト教に限って言えば、「世界はどの程度の客観的時間の長さで生成したのか」は中心ではありません。しかしそれは創世記が重要ではない、と言うことにはなりません。

キリスト教の教えの中核は「イエス・キリストにおける神の救いのご計画の実現」です。
しかしこの「神の救いのご計画」は、科学が対象にする物質的宇宙と深く関わっているのです。
その枠付けをしてくれるのが創世記から始まる「世界」の歴史だと思うのです。

キリスト教教育にとって大切なのは「イエス」に関する、「神」に関する、「救い」に関する「教説」を断片的に押し付けることではありません。
この物質的宇宙全体を含めた救済のドラマ全体を把握し、そこに「私」の存在を発見することです。

科学教育にとっても大切なのは「進化論」と言う「学説」を押し付けることではありません。生徒たちは断片的知識の詰め込み教育には余り関心を示さないでしょう。子供たちが知りたいのは世界全体の成り立ちと、自分の存在がそこにどう関わっているか、と言うことの組み合わせだと思うのです。

信仰も科学も今キーワードとなっているのは「ストーリー」だと思います。
この「見える世界」も「見えない世界」も含めたリアリティー全体を有らしめている『原理』『真理』を物語の流れの中で分かるようになりたいのです。

「進化論」教育は単なる学説としてではなく、一つの大きな『世界全体』のエポリューション(成り立ち)として物語られる方向に向かいつつあるようです。
宇宙の進化、物質の進化、地球の進化、生命体の進化、生物の進化、人間の進化、等々を一つの時間の流れの中で展開する物語として子供たちに教えようとする取り組みが試みられています。(Our Common Story

さて傍観者の呟きが説教調になってきたところでやめておくのが賢いでしょうね。
では又いつか「進化論」について呟くことにしましょうかね・・・。

2011年7月9日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月10日 午前10時30分

説教箇所 使徒の働き 2:14-21
説 教 題 「主の名を呼ぶ者はみな」
説 教 者 小嶋崇 牧師


シリーズ《聖霊と教会》③

※昼食会があります。

2011年7月8日金曜日

バーマ(ミャンマー)でのクリスチャン迫害

以前イランやアフガニスタンについて「緊急祈祷課題」の要請を投稿したことがあるが、今回は日本にとってより近い国バーマの近況。

どちらにしても政情不安定と絡んでいるようで複雑な政治的、宗教的事情は今回も同じ。
又情報が入りにくいので国際的なニュースになりにくい面がある。

一般紙には載ることのないだろうカチン族(殆んどプロテスタント)の窮状が、国際福音連盟で長年各地の信教自由状況を分析リポートしてきたエリザベス・ケンドールさんによって報告されている。(リンクは最後に)

ここではごく簡略に状況と祈祷課題を掲げておく。

①状況
少数民族カチン族が住むミャンマー北部で中国、タイ、インドの会社による大掛かりな水力発電用ダム建設が進行中。
これによって多くのカチン族の人々が移住や迫害の目に遭っている。
ミャンマー軍政と対立するカチン族との内戦も危惧されている。
六月に入って第二週に「民族浄化」や非人道的行為が目立ってきている。
それにより多くの難民が発生し、一部が教会に避難している。
中国は難民の入国を拒否。
バーマ政府は市民服を着た軍隊を少人数グループで派遣し、年寄りや子供を殺し、女子を組織的に強姦したりして恐怖を煽っている。

②祈祷課題
・人道支援(食料、薬品、シェルター)が提供されるように。
・中国、バーマ軍政ともに平和に方向転換するように。
・カチンの人々が主の臨在と、愛を経験することが出来るように。(イザヤ40:27-31)

※リンク・・・カチン教会のために祈れ

2011年7月6日水曜日

『教会における聖書の解釈』⑥

カトリック教会の教皇庁聖書委員会の文書「教会における聖書の解釈」(和田幹男訳)のコメントの六回目です。

今日は『結論』についての感想です。
と言うことでこのシリーズの最終回を迎えたわけです。

本文としては短い『結論』部ですが、現代において「カトリック聖書解釈」 が目指さなければならない要綱、あるいはその責務を要約しています。
しかし、その反面教師として再度取り上げられるのが『ファンダメンタリズム聖書解釈』です。

ここまで『ファンダメンタリズム聖書解釈』が槍玉に上がると言うことは何を意味しているのか、考えてしまいます。恐らくカトリックにとって『ファンダメンタリズム聖書解釈』は、「外の敵」ではなく、克服すべき内なる危険な傾向と捉えているのではないか・・・。

結論の要点の第一は、霊感された啓示文書である聖書の歴史的性格を根本におくこと。
対『ファンダメンタリズム聖書解釈』の位置取りでは、これが重要になります。
『ファンダメンタリズム聖書解釈』では霊感された聖書テキストの歴史文化的文脈が考慮されず、そのまま「非時間的真理」として、解釈されずに受容されてしまう、と批判しています。

当然その線で行くと、歴史的批判学的解釈の重要性が高調されます。
が、その限界も示されます。
一方で聖書テキストの歴史批判学的研究(通時的研究)が、共時的研究(修辞的分析、語りの分析、記号論分析など)に対する優先性が確認されるとともに、その上で共時的研究の補完的有用性も確認されます。

要点の第二は、少々筆者の深読みかもしれませんが、聖書テキストの歴史批判学的研究が大学と言うアカデミックな環境で発展してしまって、研究の目的が明示的でなくなり、断片化している状況に対する警鐘に思えます。
即ち、聖書が解釈されるのは信仰の養育のためであり、そのため聖書テキストの研究を教会の文脈、信仰の文脈に取り戻さなければならない、と言う責務がカトリック聖書解釈に課せられているという認識です。

さて、このような公的文書をプロテスタントの一牧師がいい加減な感想を言って終わる、と言うのは何か残念な気がします。
ただ個人的に全体的な感想を言わせてもらえば、啓蒙主義以降の近代化の中で聖書解釈が専門化し、アカデミックな世界の占有物となり、教会的伝統や信仰・神学的理解と切り離される状況に立ち至った経緯を受け止め、一方で学問的成果(聖書解釈の近代化)を評価しながら、自己の聖書解釈基盤の中に取り込もうとする強い意思を感じます。
ある面ではカトリック教会の伝承に位置づけられる啓示の書としての聖書と、近代の解釈手法や哲学的解釈学の観点を融合した聖書解釈とをバランスさせている、平衡感覚に優れた文書であるということが出来ると思います。

日本語でこの文書を論評したブログ記事など見つかればもうちょっと面白い感想文か書けたのではないかと思うのですが、邦訳した和田幹男神父の「解説」くらいしか見当たりませんでした。

英語の方ではFirst Thingsが、この文書が出版された翌年に三人の識者に意見を委嘱し、掲載しています。(Interpreting the Bible: Three Views

Paul M. Blowersは全体的に好意的な書評をしています。

ユダヤ教側からの発言として立てられたJon D. Levensonは最も手厳しい書評をしています。文書が立っている観点から、その理論と実践で乖離があることを具体的に数箇所にわたって指摘しています。


個人的には第三番目のRobert L. Wilkenの書評がバランスが取れていてこの文書の意義をよく掴んでいると思います。
という事で二箇所ほどウィルケンの書評から引用してこの記事のまとめとさせて頂きます。
But the significance of this report is not that it defends the legitimacy of historical criticism. Its timeliness is that it reflects a thoughtful turning away from the easy acceptance of the methods of biblical criticism and offers an argument on behalf of a more theological, spiritual, Christological interpretation of the Bible.

The value of the report of the Commission is that it offers a constructive response, one that is firmly rooted in the classical exegetical tradition of the Church, yet at the same time attentive to the intellectual developments of the last two centuries. What the Commission offers is a defense of the "spiritual interpretation" of the Bible.

2011年7月3日日曜日

ブログ開設一周年

初投稿が7月2日だからもう一年が経った。
いや言い直し。やっと一年経った。
長かったー。

最初は律儀にほぼ毎日投稿していたが、数ヵ月後にはペースダウン。
今年に入って徐々に投稿ペースが更に鈍ってきた。
途中で何回か休みたくもなったが結局継続。

ブログを始めて辞めてしまう人はそれぞれだろうがどの辺りが辞め時なのだろうか。
と言うかどの位で「辞めてしまうか」と思う時が訪れるのだろうか。
筆者の場合は半年超えて暫く経ってからかなー。

さてそんな話はそこまでにして、この一年の簡単なまとめをしておこう。



①総投稿数・・・260
へえー割合多い感じ。前半真面目にほぼ毎日投稿したからだな。

②総ページビュー・・・21,600を越えた辺り。
これも最初の頃から見ると結構いい感じ。
月平均で1,800、日平均60は悪くない。
ちゃんと読んでくれている人が一定数いると言うことだな、これは。

③人気投稿
『自然災害と宗教的解釈』と『福音派は今どこに』は総ページビュー数400を越えている。
『自然災害と終末論的解釈』と『公共の神学』は総ページビュー数200を越えている。
こうしてみると「命と性の日記」 ブログで記事が紹介されたことが大きい。
それと「のらくら者の日記」で何回か記事のやり取りがあったことも合わせてこの数になったわけだ。

最近「一キリスト者からのメッセージ」ブログで意見を求められ書いた『信仰の他流試合』などが好例だが、ブロガー同士のやり取りがあったことが一年続けられた大きな理由ではないだろうか。
自分から書くネタを絞り出さなくとも、他のブロガーの記事を読んで刺激を受けて書く、と言うことが自分の考えを刺激したり整理したりするためのきっかけとなる。

この場を借りてお礼を申し述べよう。「ありがとうございました。」

さあ、新たな一年が始まるぞ。
と言ってしまっていいのかどうか分からないが、一先ず「これからも続けるぞ」と宣言しておこう。

2011年7月2日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月3日 午前10時30分

説教箇所 ヨハネの福音書 15:1-10
説 教 題 「つながり、とどまる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。