2011年11月27日日曜日

英語圏ブログ紹介⑦

更新が滞っています。

段々「矢尽き、刀折れ」のような感じになってきました。
なるべく自然消滅しないように息長く続けられたらいいな、とちょっと弱気コメントで幕開け。

「英語圏ブログ紹介」では聖書学関係のブログを多く紹介してきましたが、今日は神学関係です。

Per Crucem ad Lucem
と言うラテン語のタイトルを付けているブログです。
結構ラテン語をタイトルに使う人いますね、英語圏ブログでは。

ブロッガーは、Jason A. Goroncy さんで、セント・アンドリュース大学でPhDを取得された方のようです。
アートに関心があるようで神学の他にこの方面でも色々記事にしています。

ところで最新投稿記事は何と日本におけるP.T.フォーサイスの研究事情を紹介しています。
PT Forsyth in Japan: フォーサイス神学概論ー十字架の神学

紹介している本は
記事では日本でのフォーサイスへの関心が戦前からずーっと今に至るまで継続していることに注目しています。

しかし日本での神学研究が英語圏のブログで紹介されているなんて初めて目にしました。
もちろんゴロンシー(と発音するのかな・・・)さん自身がフォーサイスに多大な関心を寄せているからのことでありましょうが、何にせよ驚きです。

ところでブログの読者の中でフォーサイス研究家の金子啓一氏(立教大学に所属していたようですが今ネットで調べてみたのですが現在の所属は良く分かりません。)が指導教官をしている学生の博士論文について知っている方は情報くださいとのリクエストも書かれています。
この学生でも、指導教官の金子氏でもどちらの情報でもよいから欲しいそうです。

《追記》
①「一キリスト者からのメッセージ」ブログが久しぶりに更新され始めました。
数ヶ月か更新がないのでどうしているかと思っていました。
(そんな心配している筆者がそのうち冬眠してしまうかもしれませんね・・・。)

②その「一キリスト者からのメッセージ」が「このブログがすごい」(元の紹介は超有名クリスチャンブログ「命と性の日記」のこの記事)で紹介していた 
クリスチャンの片隅で暴論を吐いてみる
はなかなか強烈。
現在某学生伝道団体を槍玉に挙げて日本の(軟弱な?)プロテスタント教会の内情を痛烈に皮肉っています。
敢えて「暴論」にすることで警鐘を鳴らす意図のようにも見えますね。
なかなか「王様は裸」と言うのは閉鎖的な社会には難しいこと。
こういうブログもありなのかもしれませんね。

2011年11月26日土曜日

明日の礼拝案内

11月27日 午前10時30分
待降節第一主日礼拝

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:8-5:1
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 5:1
説 教 題 「解放と自由」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(71)
ガラテヤ人への手紙(59)
・4:21-5:1 自由の子

2011年11月20日日曜日

言葉とポータビリティー

つい先日、誰かが

椹木 野衣 Noi Sawaragi@noieu

と言う方のツイートをリツイートしていたのが目に留まった。この方のプロフィールには
美術批評家です。昨年5月にツイッター開始、年末には終了していましたが、今年の5月を目前に震災モードで再開しました。埼玉県秩父市生まれ。(TLの景色を変えるため、頻繁にリムーヴ&再フォローします。「お気に入り」は「気になった」程度です。)
とある。

全然知らない方なのでその連続ツイートの内容がこの方の仕事とか生き方とか、そんなことにどう関わっているか知る由もないが、とにかく不特定他者の一人である筆者に響くものがあったので以下にその全文を掲載してみようと思う。(長くなるがあしからず。下線した部分が特に心に響いた部分です。)
先日、渋谷の喫茶店で編集者の方と話した。震災後、詩(のようなもの)の重要性が高まっているように思われる、と。実際、これまで詩にはほとんど関心がなかったにもかかわらず、心のどこかで確かにそう感じるのは、今が緊急時であり、破局的な災害下にあるからだろう。
原発事故直後もそうだったが、西に向かうため慌てて家をあとにするとき、一冊くらい本をと手にしたのは、意外にも詩(のようなもの)だった。少なくとも散文ではありえなかった。薄くて軽いという持ち運びやすさもあるが、何度でも繰り返し読めることと、最終的には暗記できるものがほしかった。
書物としては頁をめくるという共通性があったとしても、実際には詩は小説よりも遥かに絵や唄に近い。慣れ親しんだ詩の味わいは無時間的だ。そして暗記してしまえば、その人の精神の一部として血肉となる。そうなると、読んでいて新しい発見や展開などなくても全く構わない。むしろない方がよい。
僕はこのことを、子供に絵本を読み聞かせていたとき気付いた。子供は何度でも繰り返し同じお話を聞きたがる。最初は変化を嫌う子供に特有の危機回避の本能かなと思っていた。が、どうやらそうではないようだ。子供たちは次の場面に何が起こるかを驚くほど細部まで暗記し、それを楽しんでいる。
それは刺激や意外性を求める小説の楽しみとは全く違っている。むしろ、同じ感覚が体を通り抜ける快感を貯めている。そしてふとした時、絵本の言葉が形を変えて別の場所に現れる。子供たちは同じエネルギーを供給してもらい続けるために、繰り返し同じ絵本を読んでもらいたがっているかのようだ。
肝心なのは、読書の楽しみではなく、言葉を心に刻み、いつ、どこにでも持ち運べるようになることなのだ。小説にこれはなかなか望めない。が、詩や絵本には可能なこの性質が、災害や緊急時には、大きな意味を持つ。暗記してしまえば、その人がすべての財産を失ったとしても、詩の言葉は心に残る。
どのような暴力も、それを剥ぎ取ることはできない。たとえ電子化されても、タブレットを奪われれば何も残らない。が、暗記された言葉はその人が生き延びる限り、活きて残り続ける。このような詩の性質は、数多くの破局や戦乱をくぐり抜けてきた人類にとっては、きわめて重要な形式にちがいない。
震災後、どうも小説にあまり手が伸びないのは、震災で非日常が現実のものとなり、フィクションが力を失ったというより、小説という形式が根本的に災害下や緊急時から生まれたものではなく、平時の過ごし方、もっといえば「ヒマつぶし」を高度に洗練して探究する文学形式だからなのではないか。
そう考えてみると、日本の小説が、戦後という稀に見る「平時」に隆盛をむかえたのも、何だかわかるような気がする。他方、そういう時代に「詩」を詠むことにも、どこか無理はなかったか。かりに詩が緊急時の芸術なのだとしたら、平時の詩は避けがたく「超短編小説」化してしまう。
かつて、批評家として活動を始めた頃、僕がひどく「詩」というものに苛立ったのは、きっと、そのせいだったのだろう。……おっと、切りがない。仕事しなきゃ。(了)
この方の詩と小説の違いに関する文学論はさておく。
災害緊急時のような時に持参したいのは時間をかけて読みこなす小説よりも、何度でも読み返せるそして薄くて軽い詩集のようなものが「この一冊」となるのではないか、というのはそうかもしれない。
ただ文学作品の中でも詩や歌に普段から慣れ親しんでいる人のことだと思うが。

暗記できる長さの言葉、そして必要な時にすぐに思い出せる心に刻まれた言葉、突き詰めて言えば本と言う外形で持ち運びしなくても良いほど心に残っている言葉、と言うことになるのだろう。

なぜこのような文章が心に響いたのかと言うと、最近少し心がしんどい時があり、そんな時心に浮かんでくるのは賛美歌の一節とか、よく覚えている聖書箇所とかなのである。
もちろんその時々に応じた聖書の箇所を開くと言うこともできる。例えば詩篇の中には作者の状況に応じて幾つかの種類に分類することが出来る。

でも「その時」咄嗟に思い出す言葉が「その時」の心を整理したり、励ましたり、慰めたりするわけである。
だから「ああ、あの言葉は確か聖書のあの辺にあった」とやおら聖書を取り出して探し出すのとでは「言葉が働くモード」が違うのだと思う。
やはり暗記している言葉、心に刻みつけた言葉を持っていることは自分の心の状況を一瞬にして一つの方向に向けることが出来る「身につけたわざ」のようなものだと思う。

そう思ってみるともう少し備蓄が必要かな、と思う。

2011年11月19日土曜日

明日の礼拝案内

収穫感謝主日礼拝

11月20日 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 14:8-18
説 教 題 「神の証し」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※礼拝後、昼食会があります。

2011年11月17日木曜日

繋ぐ

ボストン便り」と言うブログがある。
ハーバード公衆衛生大学院研究員という肩書きを持つ細田満和子さんという方が書いているブログで、専門である「医療社会学、生命倫理、患者運動、医療政策、国際保健」などについて時々レポートをされている。

以前「健康への権利・健康への義務(1)」と言う記事を読んでコメントを書いて以来ツイッターでフォローしている。
もともとはツィッターでフォローしていた東大教授の山脇直司氏のツイートに細田氏のことが書かれていたのに関心を持ったのが始まりだが。


先日大野更紗さんの「困ってるひと」について記事を書いたが、難病を抱えた人が必要な医療や介護補助を受けるために、それこそ死に物狂いで資料を揃えて提出しなければならない、と言う苛酷な状況を大野さんはリポートしていた(右コラムの「マイ・ブログ・リスト」参照)。

制度の狭間に落ち込んで苦しんでいる人は様々いるに違いない。

細田さんはここ数ヶ月の活動を一気に5つの記事にまとめている。

制度と現場のコンフリクトを越えて―さまざまな立場を繋ぐ役割(1)

制度と現場のコンフリクトを越えて―さまざまな立場を繋ぐ役割(2)

医療者と患者の協働で医療を変える ~慢性疲労症候群/筋痛性脳脊髄炎(CFS/ME)~

ポリオの世界の今

筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)への挑戦

標題の「繋ぐ」はこれらのレポートから垣間見れる細田さんのような働き、あるいは細田さんが提案している、実際に疾病を抱えた人、医療従事者、それをサポートする行政や同じ病に苦しむ人たちのサポートグループが連携して「救済」を構築する必要から考えさせられたことである。

10月23日(日)に東大駒場キャンパスで開催された、「ともに挑もう!慢性疲労症候群(CFS)」と題する上映会とシンポジウムも、この病にかかり一人で苦しんでいた篠原さんと言う方が、一念発起して患者の自助グループを立ち上げ、働きかけてきた努力の結果であることが指摘されている。

病を抱えながら泣き寝入りに終わらず、アクションを起こす勇気と粘りに頭が下がります。

また細田さんがその篠原さんの言葉を以下にまとめているように、社会の側が障壁を作っていること自体が「障害の本質」に関わるとは、大野さんのケースにも通じることのように感じられます。

篠原氏は壇上で、終始ストレッチャーに横たわったままでしたが、シンポジウムを締めくくる言葉として、患者一人一人がチャレンジして変化を起こそう、と 強い志の感じられる宣言をしました。機能障害や疾病を有する人々の障害の本質とは、様々な社会への参加を妨げている社会的障壁にほかならず、機能障害や疾病を持つ人々を排除しないようにする義務が社会、公共にあることが確認される必要があります。病気を持つ人々の社会参加を排除して、適切な支援を実施しな い社会の側が障害の原因であるという障害把握の転換を明確化する必要があります。篠原氏はこのことを、身を持って証明してくれているのです。だからこそ、 応援したいと思う人が周りに集まり、メディアも高い関心を寄せているのでしょう。

 この「繋ぐ」と言う働きを患者自身の自助努力に任せているだけで良いのか、と言うことを考えさせられます。
社会の中に「共に痛む」と言う心がなければならないと思わせられます。
また「繋ぐ」働きをするファシリテーターのような専門的人材も高度高齢者社会に向けてますます必要になってくるでしょう。
でも肝心なのはやはり様々な痛みや困難を抱える人たちに繋がろうとする普通の人々の心ではないかと思うのです。

2011年11月12日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

11月13日 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 15:1-29
説  教 「聖霊と教会」シリーズ(7)
説 教 題 「聖霊とわたしたちは」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2011年11月11日金曜日

ペットの死

筆者が購読しているメーリングリスト(英語)に最近こういう質問があった。

「飼っていた犬が亡くなって家中悲しんでいる。特に小さい子供たちのことを考えると、何か葬儀と言うか簡単なお祈りでもしてあげた方がいいかなと思うんだけど・・・。何か良いリソースがあったら教えて欲しい。」
と言った内容のものだった。

何人もの人がすぐ同情して色々とアドバイスをしていた。
お祈りの文章を書いてくる人や、同じような体験をした時に自分がしたことや感想を言う人もいた。

その中に『レインボー・ブリッジ』の話をしてあげるのはどうか、と言う提案をした方がいた。
Rainbow Bridge(以下導入部分を引用)
Just this side of heaven is a place called Rainbow Bridge.

When an animal dies that has been especially close to someone here, that pet goes to Rainbow Bridge.
There are meadows and hills for all of our special friends so they can run and play together.
There is plenty of food, water and sunshine, and our friends are warm and comfortable.
これはペットの死に悲しむ人のためのサイト、Pet Loss Grief Siteに収められている「お話」で、大意は天国の手前にあるレインボー橋というところで死んだペットが元気に回復して楽しく暮らしている、というものである。
そして飼い主が天国にやってくる時には走り迎えて一緒に天国に入る、と言う結末である。

このメーリングリストはキリスト教関係で、この話を子どもたちにしてあげるのは信仰的にどうか、と言う意見もあった。

どちらにしても最近気になるのがペットの家族化である。
ひどい場合は家族より溺愛する場合も見受けられる。
当然そのような存在だから、ペットの死も手厚く葬る。

で、(大衆)神学的にはどうか、と言うことがある。
はたして天国は人間だけでなくペットも入れるのか。
では人間以外の動物の中でペットだけが特別なのか。
他の家畜や野生動物はどうなるのか。
彼らの死には何らかの「葬り」のような儀礼が必要なのか。

そんなことを考えていくと、自然と共生していた原始社会の文化に近くなっていくような感じがする。現代人はただ「食べ物」としてしか受け取っていない生き物の命を原始社会の人間は同じ命を共有するもの同士として、狩猟や漁によって得たものの命を頂いて生きているという自覚を持っていた、それ故その命に感謝し敬意を表す儀礼を行っていたように思うのだ。
ただそのような文化を理想化する傾向も現代人にはあるかもしれない。

そんなこと考えなくても、現代人はペットが死ぬと「天国に行った」と簡単に思っている人は多いだろう。
と言うかそのように自分を慰めている。
確かに長年一緒に暮らしてきたペットには「個体」としての性格と言うか「魂」とも思しきものを持ち合わせているように考えても不思議ではない。
最近ではペット用の葬儀やお墓もあるようである。

教会にもペットのための葬儀を依頼してくるような時代は来ているのかもしれない。

2011年11月9日水曜日

聖書2題 追記

「聖書2題」の記事に「はちことぼぼるの日記」改め「ミルトスの木かげで」ブログのはちこさんがコメントを下さいました。(左コラム下の「最近のコメント」)

今年一月に行かれたマコト・フジムラさんの
The Four Holy Gospels展覧会
の様子を紹介した記事のことを書いておられます。

せっかくですので記事のリンクをこちらの方で。
 「フジムラ・マコトさん」

一緒にこのブログ記事も紹介すればよかったのですが・・・。

なかなかの盛況だった様子。日本での展示会はどうなるやら。

2011年11月8日火曜日

聖書2題

先日、日系アメリカ人のアーティスト(絵画)マコト・フジムラが自身のツィッターであるブログ記事を推薦していた。
長老派の牧師がマコト・フジムラのアートを批評している記事で、結構フジムラのアートをよく理解している、と言うようなものだった。

Fractured Lightと題するその記事で、やはり美術に関心を寄せていたフランシス・シェーファーと比較しながらフジムラのアートに対する姿勢を「一般啓示」との関連で分析している。
The weakness in Schaeffer's view of art resides in his failure to appreciate the common grace gifts of the Spirit in common culture. A lack of faith is not the only ingredient in the creativity of unbelievers, although unbelief sometimes expresses itself in ugly and even reprehensible ways. True beauty may be created by the non-Christian artist or poet made in God's image. General revelation is no less God's revelation.
Like Schaeffer, Fujimura self-consciously reflects on art through the lens of his Christianity—as well he should. However, Fujimura also recognizes the brilliant insight of the artistry of his unbelieving Nihonga master Matazo Kayama-sensei (1927-2004), as well as many other modern western artists, like Mark Rothko.
一応フジムラのことは暫く前から気になっていた。
キリスト教信仰とアートを、いやアートを含めた文化を現代の混沌とした様相の中で積極的に交渉させようとしている大胆な構想力の持ち主だと注目している。

既にアーティストとしての地歩を築いている人であるからそれなりに有名な割には教会と言うかキリスト教側からはそれほど評価されていないような気がする。

ところでこのフジムラが欽定訳400年を記念したプロジェクトとして自分の抽象画を配した「四福音書」を刊行している。
the Four Holy-Gospels
日本での展示は、日本橋高島屋デパートで、12月21-27日まで開かれる予定である。
挿絵付きの聖書はこれまで常に写実画であったが、フジムラによって初めて抽象画、モダンアートによるものとなる、とサイトに説明されている。

聖書についての2題目はN.T.ライトによる新約聖書個人訳、The Kingdom New Testament、の出版だ。
今日アマゾンに注文していたのが届いた。

ライトは新約聖書27巻全部にEveryoneシリーズと言う一般読者向けの註解書を刊行していたのだがそれが全部終わり、まとめと言うかこのように個人訳を出したと言うわけだ。

ちょっと気になる箇所を拾って紹介して見よう(強調は筆者)。

ヨハネ1章1-2節
In the beginning was the Word. The Word was close beside God, and the Word was God. In the beginning, he was close beside God.
ヨハネ3章16節
This, you see, is how much God loved the world: enough to give his only, special son, so that everyone who believes in him should not be lost but should share in the life of God's new age.
ローマ人への手紙3章21-22節
But now, quite apart from the law (though the law and the prophets bore witness to it), God's covenant justice has been displayed. God's covenant justice comes into operation through the faithfulness of Jesus the Messiah, for the benefit of all who have faith.
ライトの著作に触れている人にとってはそれほど目新しいことはないかもしれないが、改めてこうして「新約聖書」として読んでみると結構味わい深い箇所が多いのではないかと期待している。

2011年11月5日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

11月6日 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 15:1-10
説教箇所 ヨハネの福音書 15:9
説 教 題 「愛にとどまる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2011年11月3日木曜日

70億人

2011年10月31日に世界の人口が70億人を越えた、と話題になっている。

テレビのニュースではこの日に生まれた子は70億人目として認定されるそうだ。

一応「お祝い」の雰囲気のニュースとして流れているが、このような人口「爆発」は様々な問題を呼び起こすことは大分前から考えられていた。例えば1972年に出されたThe Limits to Growth。

経済成長を支える資源問題、食糧問題、それから最近とみに注目されているのが「水」資源の問題だ。

日本はと言うと人口減少から経済縮小が予想され、別なセットの問題が予測されているが。

創世記には「産めよ、増えよ、地を満たせ」とあるが、現在の人口問題から見るとその限度は既に大分前に越えているから、21世紀の文脈では「世界を管理する」方が大きな意味を持っている。

3.11以降「地球温暖化」のようなグローバル問題は一時視界から外れている感じがあるが、とにかく今の時代グローバルな問題は増えるばかりのような気がする。

そんなこんなを考えていたら、7 Billion Actionsと言うサイトがあった。国連関係組織ということらしいが、この「危機」に対して二つの目標を立てている。
  • Building global awareness around the opportunities and challenges associated with a world of seven billion people.
  • Inspiring governments, NGOs, private sector, media, academia and individuals to take actions that will have a socially positive impact.
二つ目のところに「個々人」もとあるように、政府や関連組織だけでなく普通の人もこの課題に関心を持って行動するよう働きかける、と言うことなのだろう。つまり世界の人々がこの問題を共有することが目指されている。
「70億人行動」と言うキャンペーンは特に7つの問題に焦点を絞っている。
  • Poverty and inequality;
  • Women and girls empowerment;
  • Reproductive health and rights;
  • Young people;
  • Aging population;
  • Environment;
  • Urbanization.
先進諸国での人口増加はほぼ頭打ちだと思うが、発展途上国での人口増加に伴うニーズは上に掲げた問題だけでも大変なものになるだろう。
教育による人材育成も少しはこのような問題を意識して為される必要があるだろう。

などと書いてみたが、やはり問題が大き過ぎて何をどう考えたらいいのやら・・・。

2011年11月1日火曜日

会堂改修工事

2001年新会堂が建ってから今年11月でまもなく10年。

数年前から外壁撥水塗装工事の準備(積立献金)をしてきた。

今年9月設計をした事務所の今井氏に点検してもらったのだが、結局建物全体の「定期検診」になった。
修繕が必要な箇所をリストアップして頂き、工務店に見積もりを出してもらった。

外壁撥水塗装工事だけなら準備してきた基金で収まったのだが、他にも修繕が必要な箇所が幾つかあり予想よりも大きな工事になってしまった。

その工事もようやく終わり、先日今井氏と工務店の方と三人で工事の完了を確認した。

コンクリート打ち放しの壁は大分きれいになった、ように見える。

確認が終わってから三人で四方山話。
と言っても建物等に関することだが。

実は新会堂になった後入り口が以前の時の場所と変わったことにより、道路に面した入り口のほぼ真ん中に電信柱が来るようになってしまった。
設計段階でそのことは分かっていたが、移動費用は工事見積もりを減額する過程で外れてしまった。
また別の機会に、となったわけである。

今回担当した工務店の方がいかにもこの電信柱の位置が気になって仕方なく、何とか移動するよう提案した。

10年の間何もせずに来てしまったが改めてこの電信柱の位置が「目の上のたんこぶ」に感じられてきた。
慣れている人はいいが初めて来る人や通りがかりの人にはやはり「変に」感じるだろう。
まるで通せんぼでもしてるみたいに。

工務店の方曰く、「こんないい雰囲気の場所なのにこの電信柱で台無しだ。」

なるほど景観的にこの電信柱によって何割方かその魅力を削がれていることは間違いない。
段々「何とかしなきゃ」と思うようになって来た。
これからどれだけこの教会施設を使って催しが為されるか分からないが、やはり将来的にも早いうちにこの電信柱を移動しなければ。

と言うことでこの工務店の方が早速東京電力の方に電話で問い合わせてくださった。

まもなく移動に関わる実地検査や見積もりについて調査をすることになった。