2012年4月17日火曜日

これで説教?

ご存知キリスト教関連の有名ブログ「命と性の日記」に、最近『某国ミサイル問題の共通項としての牧師説教問題?』(2012.04.15 Sunday)と言う記事が投稿されていた。

これは当方のブログネタになるな、と暫く考えていた。
テーマは「説教」である。

よく「牧師は孤立しやすい」と聞く。
その理由の一つは牧師が自分の説教に対して聴衆から適切な反応を聞く機会がないことがあると思う。
「恵まれました。」「教えられました。」類の(そんな意図はないにしても)外交辞令的なコメントでは実は聞き手にどの程度届いたのか分からない。

もちろん熟達した説教者は聴衆からの言葉の反応はなくとも、話している間の聴衆一人ひとりの顔の表情などから手応えを感じ取ることができるのかもしれない。(筆者もそんな説教者になってみたいと思うがまだまだです。)

さて水谷先生がその記事で指摘したのは、

①説教とは名ばかりで実質は・・・
信徒の方からの訴えによれば、・・・、説教という名目で、実質は証しや講話や世間話なのであります。・・・ある牧師は、御言葉の解き明かしとは別の内容の話を、「説教」と称して、ミサイルのごとく講壇から会衆に向けて発射しているそうです。
 ②聖書からの逸脱
発射台は聖書の言葉なのですが、その軌道は発射直後から、逸脱してしまうのです。聖書の言葉が意図することとは別のお話しが始まります。しかも、聖書のテキストに従った展開、構築、一貫性などがなく、某国のミサイルが10個の破片に分解したように、その説教は、いつくもの断片に分解。そして、その名目上の説教はミサイルのように発射後、1分程度で、会衆の心に届く前に海に沈没
 ③説教者の孤立化、制裁、交代

このような「名ばかりの説教」を批判・検証する暗黙の了解事項、と言うのが実はあると思うのです。
プロテスタントでは何と言っても「説教」が礼拝の中心にあります。
その理由はプロテスタントにとって聖三一の神を除いて最も高い権威は神のことばである聖書にある、と言う確信から来ています。
それ故「説教」は「聖書の解き明かし」が本筋とされる、と言うことだと思います。

これらの前提事項に立って当該牧師の説教が批評されている、と見るべきでしょう。

さて、第一点の問題は、説教で「証しや講話や世間話」は内容として不適切か、と言うことです。
説教の中身には聴衆に接近するため「身近な話題」や「時事問題」や「笑い」を交えることがよくあります。
しかしこれらの要素はイラストレーションとして本論を助ける補助的なものです。
どうやらこの信徒さんが訴えている牧師の説教は本論がないこと、しかも聖書の引用が説教を聖書的に見せるための体裁作りになってしまっていること、の問題のようです。

次に問題としたいのは、なぜこんな説教になってしまうのか、ということです。
一般論として言えば、こう言う説教をしてしまうのは、「年間説教計画」がなかったり、「年間聖書箇所(レクショナリー)」に従っていなかったり、つまり牧師が独自で毎回思いついたことを説教するようなパターンになってしまっているからではないかと推察します。
そしてこのパターンが案外多いのではないかと思います。
要するにネタが尽きてしまって苦し紛れにあの話やこの話を何とかくっつけ合わせて予定の説教時間を使い切ろうとしているからではないでしょうか。

筆者が考えるこのような説教者のための良い訓練は、講解説教をすることです。
そうすれば説教するテキストは毎回あっちこっち変えなくてもよく、説教の中身も大部分が与えられたテキストの解き明かしになるはずです。
何より説教者はテキストと格闘しなければならないので、余計な世間話など考えている暇がありません。

ただし、ここが講解説教者の熟練の問題ですが、よっぽど準備されたテキストの解き明かしでないと、聴衆は益を得られません。
またテキストと聴衆を接近させるために効果的なイラストレーションがまさに水を得た魚のように必要になってきます。(聴衆はやたらにくだくだとテキストの釈義的な説明を聞くだけでは飽きてしまいますから。)

以上、水谷先生の記事から考えた「説教の問題」でした。

0 件のコメント:

コメントを投稿