2012年4月20日金曜日

久保木牧師の説教考

水谷先生の「説教考」をネタに書いた、「これでも説教?」 を読んでくださった久保木牧師が、「決して主流ではない傍流的説教論」と言う記事を投稿してくださった。

一読して、「こりゃ一本取られた」感じがした。

確かに「正論的説教論」では聖書の解き明かしが主であり、証し、講話、世間話、はあくまで与えられた聖書テキストの理解を助ける補助的なもの、と位置づけられる。

しかし久保木牧師はそのような「正論的説教論」の陥りやすい問題点として幾つか挙げてくださっている。
①聖書テキストの「死物学」のような説教、
②現代と言うコンテキストに無関心な説教、
③日常生活の文脈から汲み取られたものを、聖書のテキストの解き明かしに組み込めない説教

筆者にとっては何を隠そう最も不得意な、と言うかなかなか出来ないでいる「説教」の要素を指摘された感じがしたので「一本取られた」感じがしたわけである。

どうやら問題は「説教スタイル」や、講解説教とか教理的説教とかの「説教タイプ」ではなく、説教者の実存(聴衆の現実を含む)と、聖書テキストが交差したところにどのような「説教」と言うコミュニケーション・交わりが発生するか、ということなのだろう。
説教箇所から命を汲み取る感性だけでなく、
日常生活から命を汲み取る感性が説教者には必要であり、
時代を知る感性、会衆の抱えているものを掴む感性から得られたものが
織り合わされていく中で、説教が生み出されていくように思えます。
 
一週間のリズムの中で
牧師が先週の生活の中での恵みを生き生きと語り、
一週間準備した御言葉の命を汲み取って語ることは
どちらも必要なように思えます。
この「感性」が筆者の説教には欠けていると思う。
と言うか「聖書の解き明かし」で精一杯でなかなか「牧師の日常で汲み取られた恵み」を説教に組み込む余裕がない、あるいはそもそも日常的恵みを感じ取る「感性」が弱い、と反省させられた。

話は飛ぶが、N.T.ライトの、「How God Became King 読書会」がスタートして現在29名のメンバーが加わっているが、その多くは牧師である。
本のコメント以外にも色々な話題がウォールに書き込まれるのだが、その中でもある牧師の説教との取り組み、信仰との取り組みで「実存」の大切さを教えられている。

「実存」と言うと「実存主義」と言う哲学を連想してしまうので、英語の「self-involved」と言う方がニュアンスとしては近いと思う。

やはり「土の器」とは言え、聖書のテキストは「説教者」を通して語られる、と言うことをもっと自覚しなければならないだろう。

説教が語るべきWhat(聖書のテキスト)、と共に、今ここで語り、語られるWho(説教者と聴衆)と言う事が同様大切にされなければならないことを、久保木牧師の説教考から学ばせて頂いた。

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