2012年7月30日月曜日

オウム真理教ノート 2012/7/30

今回は、林郁夫の「オウムと私」(文芸春秋、1998年)


500ページ近い本だが、興味深く、読みやすかった。

一種の「懺悔録」のような手記のようになっていて、自分の生い立ちから始めて、オウムでの修行のことや、次第に教団の武装化の中で知らず知らずのうちに犯罪に手を貸していく過程や、その度毎の(後からの回顧で)自分の心理の分析、そしてサリン事件の実行とその後の逮捕、そして取調べでの全面供述までを綴っている。

恐らく全面的に供述した時点から、オウムでの自分がどうだったかを総合的に回顧する視点を得たのだと思う。その視点から、各過程での修行の内容の意義や麻原との関わり合いをより客観的に観察分析できるようになったのだろう。

本を読んでいてその辺の「自己の掘り下げ」がなかなか徹底的で、読む者を納得させる。思わず引き込まれてしまうような箇所が幾つもあった。

その中で二点挙げるとすれば、一つは「麻原の怖さ」に関して書いている箇所と、麻原の宗教家としての二重性(建前と本音)を分析している箇所であった。

先ず、麻原の怖さだが、『池田大作ポア事件』と言うところでこう書いている。

 とはいっても、当時の私は、この事件で麻原が単に「殺人を犯そうとした人物」であるとか、「ポア」が単なる「人殺し」である、などと思っていたわけではありませんでした。それまで培ってきた見方によって、麻原が宗教的な存在であるということには、一点の疑いもありませんでした。麻原の行為はすべて宗教的な意味合いがある、と考えてきたのです。
 しかし、同時に、もっと私自身の根本の意識のところで、麻原の行為を犯罪だとみなし、許されないことだと言うことも分かっていました。それは、麻原の「秘密を知った」と言う自覚と同義なのです。「理屈」としての教義を肯定しても、「人殺し」はあくまでも「人殺し」で、人殺しという行為と結びついている「本能的な恐怖」を打ち消すものではありません。
 本能的恐怖は、それが犯罪だと思う心と、許されることではないと思う心を生じさせるのだと思います。もし私が、麻原のように解脱して、対象のカルマを見通すことができて、「ポア」もしてやれると言うのならば、「ヴァジラヤーナ五仏の法則」とその「ポア」は、「理屈」ではなくなるのですが、私は解脱しているわけではないのです。あくまで、麻原の説く教義を「教え」として、また「理屈」として受け入れているのであり、本能的な恐怖を消すことができないのです。
 麻原が「殺す」ことを「実際に」決断し、実行に移すことのできる人物なのだ、と言う認識を持ったその瞬間から、その麻原と私が自覚している本能的恐怖が結びついて、最早それ以前の麻原に対する感情は戻りませんでした。 そして、自分も妻子もまた「殺される可能性」があると言う、「こわい」麻原に対する感情が、ワークや修行のあらゆる場面における行動パターンに影響を及ぼしていくことになったのだと思います。(176-7ページ)
麻原の宗教家としての二重性については、林は以下のように分析している。
 麻原の本音からすれば、救済とは武装化計画の実行であって、宗教は武装化計画の実行をカモフラージュするものにすぎなかったのだと思います。三万人の成就者を出して、戦いを回避するといっていた平成二年の初期の頃から、このような背景があったことがいまになって分かります。
 つまり、麻原のいう救済は、一人一人を修行(宗教心)によって変化させ、世の中に感化を及ぼし、そのことの連続した積み重ねによって平和を保ち、真理を広め、人類が戦いなどの愚行を犯さないように導くという、通常宗教と結びつけて考えられている救済ではないのです。麻原は言葉「救済」と言ってはいても、実はその裏で武装化を準備し、戦いを起こし、勝ち抜き、社会を転覆させて・・・という、まったく革命そのものの世の中の変革を考え、実行しようとしていたことがわかるのです。
 したがって、麻原の本音としては、救済とは一人一人に宗教性を喚起させて実現していくというものではなく、先ず社会の枠組みを破壊し、自分ひとりがよしとする枠組みに変えたうえで、その麻原の枠組みの中に一人一人を閉じ込め、それでよしとするということだったと考えられます。
 (中略)
 麻原の中では、宗教は自らの本音を達成するために便利なもの、人も金も集めることができ、本音のカモフラージュにも使える看板のようなものだったのだと思います。が、いっぽう弟子にとっては、修行と救済は本来連なって展開する一体不可分のものだったのです。麻原はそれを百も承知のうえで、利用していたと言うことを私は述べたいのです。 (302-3ページ)
新興宗教の無残なところは、林のように社会的経験も立場もある者が、純粋に宗教(仏教、解脱)を求める余り、グルに対して過度に依存的になり、「人間的判断」をモラトリウムさせ、グルの「俗物性」が見えた地点でも、グルの客観的人間性(誤りや罪を犯しうる存在である)認識を徹底することができず、宗教的絶対性の方に収斂されてしまうことのように思った。

林が上記のような分析に達するためには、残念ながら最後の一線を越えて、そして自分の行為を客観的に見直す物理的・精神的余裕を得るまでは出来なかった、と言うことは、「宗教集団の閉鎖性」の問題を提示するものであると思う。
オウムに限ったことではない。

この本に書かれている林の様々な気付きや反省、内省は宗教に関わる者にとって他人事ではない事柄を多く含んでいると思う。

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