2012年7月10日火曜日

オウム真理教その③

一先ず記事のタイトルは「オウム真理教その③」とした。

目下少しずつオウム真理教関連のものを図書館から探して読んでいます。そんな読書の「覚書」程度のものを時々掲載していこうかなと思っています。
それで適当なタイトルはないかな・・・と今考えているのですが。

オウム真理教覚書
オウム真理教ノート
オウム真理教雑感

それで記入日時を入れてタイトルにすると、例えば今日だと「オウム真理教ノート、2012/7/10」みたいになるのだけどちょっと長ったらしいかなー。
短縮して「オウム、2012/7/10」でもいいか。

「オウム真理教その②」で中島岳志が紹介した、宮台真司「終わりなき日常を生きろ」 (1998年)は図書館にはなかった。
しょうがないので同著者の似たようなタイトルの本「世紀末の作法ー終ワリナキ日常ヲ生キル知恵」 (1997年)を借りてきた。

この本、雑誌や新聞などに書いた短い文章を寄せ集めたものなんですね。一応目を通しましたが、オウムについて直接書いてあるところは少なくて、ちょちょっと言及してあったりする。

中島の要約だと、
「宮台曰く、ハルマゲドンのような大きな変革など、もうやってこない。大切なのは永遠に輝きを失った世界の中で、パッとしない自己を抱えながら、腐らずに まったりと生きていくスキルである。輝かしい未来への幻想を捨て、終わりなき日常を戯れながら生きる知恵こそが必要とされる、と。」
とあるように、要するに《今の》リアリティーは「終わりなき日常」であるから、それにマッチした生き方を探さなければならない。
オウムのような「革命思想」や「終末思想」は今や時代錯誤、リアリティーとミスマッチ、みたいなことを主張していたようですね。

借りてきた本の中に『宗教が大きいのか、社会が大きいのか?』という一文がありました。

近代ヨーロッパで数々の宗教戦争を経過して樹立された『寛容の精神』や政教分離の「市民社会」の原理が一応日本にも明治近代化で導入されたが、もともと宗教が習合して「殺戮」を繰り広げなかった社会には「オウム事件」が起きるまで、「宗教が大きいのか、社会が大きいのか?」を深刻に問う背景がなかった、と宮台先生は仰る。

だから「オウム事件」から学ぶべきは「宗教が潜在的にもつ危険性について」の日本人のウブさを克服するための方法だ、と言うことだそうです。

と言うわけで宮台先生によれば、オウム真理教事件から私たち日本人がよくよく学ぶべきことは、「宗教」って潜在的にとんでもない暴力を発揮するような危険性を孕んでいるんだよ、と言うことのようです。


(※宮台先生の「終わりなき日常」も何か時代の空気を読むような社会学的分析で、筆者は余りピンと来ないな。キャッチコピーみたいで賞味期限のありそうな表現だ。)

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