2012年8月10日金曜日

スッタニパータ

筆者は牧師の家庭に生まれて、他の宗教との接触が極めて少ない環境の中を生きてきたので、他宗教の生きた知識と言うものは殆んどないに等しい。

勿論日本語や日本文化の中にそれとなく浸透している神道や仏教に関しては通念としてはあいまいながら持っているわけで、全く知らないと言うわけではない。
ちょうどキリスト者でない多くの日本人がクリスマスや賛美歌にある程度親しんでいる程度には、筆者も神道や仏教に親しんでいると言える。

小さい頃近くの神社でよく遊んだが、社の床下に入ったり、お祭りの時の御輿や道具類が入った倉庫などにも入ったことがある(いたずらでした)。

このブログを最近読んでいる方はご存知のように、たまたま最近オウム真理教(直接的には地下鉄サリン事件だが)のことに関心を持ち始め、そんな経緯で仏教、特に「原始仏教」とは如何なるものであろうか、と言う関心が生まれた。

仏教の通俗的な知識には余り関心がないが、原始仏教と言うと何か魅惑的に響く。

と言うわけで思い浮かんだのは中村元と言う仏教学者だった。
勿論日本は仏教国と言われているように、宗門多く寺も多い。
しかし仏教の経典の研究に関して世界的に優れている、と言ったようなことを聞いたことがある。
今のような日本社会に溶け込んだ仏教ではなく、言わば日本に伝来した仏教には関わりのない仏典の原語的研究などが進んでいる、と言ったようなことだ。

いつものように図書館へ行って中村元のものを探していたら「ブッダのことばースッタニパータ」中村元訳(ワイド版岩波文庫)に行き会った。
巻末の解説を読むとスッタニパータは非常に初期の、それゆえ歴史上のゴータマ・ブッダの言葉にかなりな程度で遡る経典だという。
それでこれを借りて読むことにした。

一応読了したのだが、一言で感想を言うのは難しい。
それまでの前知識としての「悟り」とか「煩悩」とか「解脱」みたいなことがさらによく分かった、と言うわけでもない。

ちょうど福音書で『イエス語録』と呼ばれている部分を思わせるような、語録集という感じか。
しかしこのかなり初期の経典といわれるスッタニパータでも、ブッダは人間でありながらかなり別格な特別な存在として扱われている。
ある部分では神格化に近い表現(礼拝の対象)も書かれている。

スッタニパータの多くは修行者がやってきて教えを請うという設定で、ブッダの教えが説かれている。

殆んどの教えは「悟りきった」ブッダが滔滔と教えを説き、聞いた者はその教えに感嘆して平伏する、みたいな感じで終わっている。
そんなブッダは余り人間味がない取り澄ました感じで「別格」の印象しか与えない。

そんな中で、第4章「八つの詩句の章」の「五、老い」の冒頭は感嘆句で始まる非常に人間らしい感情に満ちた言葉である。
ああ短いかな、人の命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。
しかし、その後の教えはやはり悟りきった感じのものに整ってしまう。

また、第5章「彼岸に至る道の章」の「十七、学生ピンギヤの質問」では、
「四方と四維と上と下と、これら十方の世界において、あなたに見られず聞かれず考えられずまた識られないなにものもありません。どうか理法を説いてください。それを私は知りたいのです、ーーこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」
師は答えた、
「ピンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたはみているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存に戻らないようにせよ。」
筆者の感じでは、やはり福音書のイエスに馴染んでいるためか、ブッダが「悟りきった」者であるが故に、その教えが、教えを請う者に対して突き放した言葉のように響く。
苦悩する人間に対する深い同情や哀れみが欠けている印象を持つのである。


ブッダは「純粋」を求めた人、と言う印象は持つことができるが、やはり彼の教えはエリーティストなものに感じられる。
恐らく日本に伝わって発展した通俗的な仏教は、このようなブッダのアプローチを単純化・容易化して大衆化したものなのだろう。

だから「葬式仏教」とも呼ばれる日本社会に定着した仏教は、スッタニパータに見るような原始仏教とは大分隔たりがあると言ってもいいのではないだろうか。

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