2012年10月30日火曜日

2012NTライト・セミナー

少しずつだと思うが、前英国国教会ダーラム司教(英国国教会ではカンタベリー、ヨークの大主教に次ぐ第三位の高位の主教)、そして現セント・アンドリュース大学の「新約聖書と初期キリスト教」の研究教授である、Nicholas Thomas Wright (1948-)の名前は日本にも浸透しつつあると思う。

先日、10月18日、御茶ノ水クリスチャンセンターで筆者を含めた四人の呼びかけで「NTライト・セミナー」が持たれた。内輪の研究発表会で公に宣伝はしなかった。当初10人程度の参加者かなと思っていたが蓋を開ければ20人を少し越えた位。盛会であった。

まだ正式な発表はないが来年あたりに向けてライトの著作邦訳が始まりそうな機運がある。その前哨戦と言うか、先駆けとも言うべき実験的イベントとして呼びかけ人のうちのU牧師の呼びかけで今回の企画が持ち上がったわけだ。

筆者は「NTライト・読書会」主催者としてお声がかかったわけだが、NTライトの日本での知名度が圧倒的に低いことを嘆いて読書会をスタートさせた者としては、渡りに船、呼びかけに応じて企画に参加し、セミナーでの発表を引き受けた。

当日用意した発表要旨(アウトライン)は以下のようなものである。
2012/10/18
「N.T.ライトと聖書」
小嶋 崇
《学者》としてのN.T.ライトの専門領域は「史的イエス」と「パウロ」と言うことが出来ると思います。しかし《教会人》としては実に多様なトピックについて聖書から発言してきました。今回はライトの聖書観に関し『聖書の権威』に絞って紹介します。ライトの〝複雑な〟そして〝ダイナミックな〟『聖書の権威』観について解説したいと思います。

・ 「聖書の権威」は間接的な権威
the phrase “authority of scripture can make sense only if it is a shorthand for “the authority of the triune God, exercised somehow [i]through[/i] scripture.” (Last Word, p.23.)
・ ナレーティブな聖書の性格に相応しい「権威観」を持つことが肝要
 …聖書の内容性格に沿った読まれ方(ハーメニューティックス)とはいかなるものなのかと言う問題提起。
 教会史の中での聖書観の変遷 ①信仰と生活の諸問題を解決する「法廷」、②個人的敬虔のための文書(レクシオ・ディヴィナ)
 短絡化されやすい聖書権威観:「信仰と生活に関する(唯一絶対の)規範、sola scriptura」「ルール・ブック」「正しい教義の源泉」「神の自己啓示(情報コミュニケーション)」

『5幕からなる劇』に見立てた《聖書の権威》
(1)創造(創世記1-2章)
(2)堕落(創世記3-11章)
(3)イスラエル(アブラハム→メシヤ)
(4)イエス(十字架の死と復活に至る公的宣教)
(5)(a)新約聖書/初代教会(「イスラエルのストーリー」を成就するイエスを語り宣言する)
  (ω)究極の終末(ロマ8章、Ⅰコリ15章、黙21-2章が予めその輪郭を指示)

 聖書を権威ある書として読むとは、第5幕を生きる教会が、その時代の問題・課題の中で、先行する「神の壮大な贖いのドラマ」を繰返し読み返して「その時代をどう生きるか」を知ることである。世界の創造者である神とその被造世界の関わりを、創造から新創造へと展開するステージと位置付けるこのドラマの第1幕から第5幕の第一場面(私たちにとっては交換不可能な〝権威〟ある筋書き)と第5幕の最終場面に合致した振る舞い(パフォーマンス)を即興で演じる(improvise)のが私たちの役割なのである。
・ ドラマは進展している…聖書はtimeless truthsではない。
・ 過去の役者を繰り返すのではない…fresh reading of the scripturesが必要

参考図書
“How Can The Bible Be Authoritative?”(Vox Evangelica, 1991, 21, 7–32.ここをクリック)
“Theology, Narrative and Authority” in The New Testament and the People of God(1992), pp.139-143.
The Last Word (英国版タイトルは、Scripture and Authority of God), HarperSanFrancisco, 2005.
当日の発表時間は20分と言うことで、ライトが提示する「〝複雑な〟そして〝ダイナミックな『聖書の権威』」の最も分かりやすい表現であるFive Act Modelを中心に紹介した。

最初に「聖書の権威」の前提となる、神の権威、イエス・キリストの権威を確認した。
プロテスタントはカトリックに対抗して「聖書のみ」の原則を踏襲してきたわけだが、その後の歴史でややもすると聖書そのものが独立して権威化され、「聖書はこう言っている」と引用すればそれで議論が済まされるような風潮が出来上がってきた。

そのような一人歩きしがちな、ビブリシスティック(biblicistic)な「聖書の権威」観に対して、生きて働き給う神のもとに聖書を相対化するのがライトの聖書の権威観と言えるだろう。
創造から始まり被造物全体を贖いへと導いておられる神の働きの中に聖書を位置づけることが大切である。

さてこのファイブ・アクト・モデルの大切なポイントは、聖書を用いる私たち教会の役割をどう捉えるか、に関わる。

ライトは「5幕の劇」の台本のうち、第5幕の第1場面(新約聖書が書かれた時代の教会)の続きが消失してしまった、と想像してみてくれと言う。

その消失部分を誰かに補筆させるのではなく、円熟した役者に即興で演技させることにしたとする。役者は台本にはない部分の演技を生み出すために、先行する第1幕から第5幕の第1場面までを繰り返し繰り返し読んで、どう言う演技がこのドラマの筋に最も相応しいかを熟考する。

もちろん劇のエンディングは第5幕の第1場面にある程度描写されているから、それにも合わせた演技を考えなければならない。

円熟した役者とは、即興で演技する場合でもストーリーが体に染み込んでいるのでドラマの筋から逸脱するような演技もしないし、また下手な役者のようにただ前の演技を真似するだけのような演技もしない。その時その場に対応した演技を創造的に作るのだ。

これを現代の教会に適用すればこう言う風になる。

私たちが生かされている時代とその時代が抱える問題・課題は先行する聖書時代のものとは異なる。しかし私たちの時代は「神の贖いのドラマ」の視点からは明らかに第5幕に属する。つまり新約聖書の教会と2千年の時を隔てているが地続きなのだ。

啓蒙主義はそれまでとは全く「新しい時代」を創生したと自称し、イエス・キリストの出来事の全歴史的な角度からの新しさを否定するような態度に出た。
しかし啓蒙主義や近代の進歩史観はイエス・キリストの出来事の画期的新しさを何一つ変えていない。依然として私たちは第5幕の第1場面に続く歴史的状況を生きているのである。

私たちが今の時代をどう振舞うか、どのように生きるか、それをインフォームしてくれるのが聖書なのだ。しかし私たちは聖書をマニュアルや普遍的で不変な真理が詰まった本として取り扱うのではない。
聖書に記された「神の贖いのドラマ」を熟知して、それを今日的状況に即興的に生かすのだ。行動する前に既に完成した台本があるのではない。祈りつつリスクを犯して「これが神の御心に沿った選択、行動だ」と信仰を持って行動するのだ。

・・・と当日はここまで解説はできませんでしたが、ファイブ・アクト・モデルとはこんな趣旨のもので、まだまだ実験的であり、修正したり詳細を加えたりする余地を残したモデルだ、と言うことです。

さて当日は筆者の他にも3人の方が発表しました。
会場で発表全体のメモを取っておられた方がブログで公開していますのでどうぞそちらもご覧下さい。(ここをクリック
また、当日の発表者の一人であるクレオパさんも自身のブログで報告なさっていますのでそちらもご覧下さい。(ここをクリック




1 件のコメント:

  1. ここにあるライトの「5幕劇」と、スコット・マクナイト『福音の再発見』、そしてロダールの『神の物語』を「聖書のナレーティブ統合性」の観点から取上げた久保木牧師のブログ記事をご覧あれ。

    http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/archive/2014/07/04

    http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/archive/2014/07/05

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