2012年8月29日水曜日

(パウロ)神学談義

今日の午後、客人があり、しばらく「神学談義」をした。

主にパウロ研究についてであったが、今となってはパウロ神学の古典的研究になってしまった感のある、W. D. Davies, PAUL AND RABBINIC JUDAISM.に話題が及んだ。

客人は現在新約聖書学の博士課程でバリバリ研究中であるが、この古典をある意味再発見してその内容に驚いていた。

「ニュー・パースペクティヴ・オン・パウロ(NPP)」はまだまだ日本には馴染みが薄いが、その先行的論文を書いた、クリスター・ステンダールの論文
Krister Stendahl, “The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West” in Paul Among Jews and Gentiles (Philadelphia: Fortress), 1976, pp. 78-96. First published in English in Harvard Theological Review, 56 (1963), pp. 199-215
もNPPの議論がE.P.Sandersによって1970年代後半に火をつけられるまで、独立峰的であったようだ。

このように研究の最前線にいる者達がいかにも最初に発見したように思うことも、その萌芽的なものがそれ以前に既に指摘されているようなことはあるものだ。

ところで筆者は、デーヴィースのこの本をたまたま古本で探して購入して読んでいた。
まだ本格的に「新約聖書学」に興味を持つ前だったように思う。
いや、もしかしたら、既に購入していたが、関心を持つようになってから後読んだのかもしれない。


とにかく次にデーヴィース繋がりで話題にしたのは、E.P.SandersとMargaret Daviesの共著、Studying the Synoptic Gospelsの本で、この時点でこのマーガレットはE.P.Sandersの奥さんだと、そのようなことを話した。つまりデーヴィースの娘婿。


ところがたまたま先ほど調べていたら、これは勘違いであることが、E. P. Sanders's Relationship to W. D. Daviesの記事で指摘されていた。


ありゃま、姓名がたまたま一致していただけだったなんて・・・。
E.P.Sandersがデーヴィースの弟子であり、デーヴィースの研究を更に推し進めた、と言う関係からも、二重に勘違いが強化されたようだ。


と言うわけで真夏の暑い日のとんだ勘違い、と言うお話でした。

2012年8月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月26日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「御霊のために蒔く」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(89)
ガラテヤ人への手紙(77)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう 
(B) 6:6-10 善を行なう

2012年8月24日金曜日

残暑見舞いと近況報告

更新が滞りがちになってしまいました。

暑い日々が続いています。
まだ2週間くらいは続くそうです。
そう考えるだけで「やれやれ」となってしまいます。

と言う訳で先ずは

残暑お見舞い申し上げます

自慢じゃありませんが、事務室にはエアコンがありません。
扇風機だけでやっています。
コンクリートの建物のおかげで、室温は大体29度位で一定しています。

熱中症の注意では「室温28度」とか言っていますが、それはとても無理です。
なかなか集中して何かをやるには条件が余りよろしくありません。
朝寝も昼寝も時々しています。

と言うのも居室の方も、自慢じゃありませんがエアコンがありません。
幸い履き出し窓なので、全開にしています。
夜中過ぎて明け方近くになると少し涼しい空気が部屋に流れてきます。

そんなわけでどうしても寝不足がちです。
朝方朝食まではまだ大丈夫なのですが、食後デボーション(聖書を読んで、静思の時を持つこと)をし出すと頭がほわーっとしてきます。
しょうがない少し横になります。

そんな毎日を過ごしています。
なかなかブログまで頭が回りません。
やっとツイッターで「○×▲☆」呟いています。

それでは読者の皆様暫く開店休業で失礼します。
ブログ主

2012年8月18日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月19日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 6:1-10
説 教 題 「分かち合いなさい」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(88)
ガラテヤ人への手紙(76)
・6:1-10 御霊によって歩む兄弟姉妹
(A) 6:1-5 重荷を負いあう 
(B) 6:6-10 善を行なう

2012年8月16日木曜日

オウム真理教ノート 2012/8/16

自分で勝手に夏休み中で、更新が滞っています。

暫く前に読了したのですが、アップする元気がなく今日になってしまいました。

オウム真理教への一視点で紹介した、大田(太田は間違い)俊寛の

オウム真理教の精神史ーロマン主義・全体主義・原理主義

豊島区の図書館にはなかったので板橋区の図書館から借りてようやく読むことができました。

目次で大体内容が掴めると思うので、自分のメモ用にも掲載しておきます。


第1章 近代における「宗教」の位置
1 そもそも「宗教」とは何か
2 キリスト教共同体の成立と崩壊
3 近代の主権国家と政教分離
第2章 ロマン主義ーー闇に潜む「本当のわたし」
1 ロマン主義とは何か
2 ロマン主義宗教論
3 宗教心理学
4 神智学
5 ニューエイジ思想
6 日本の精神世界論におけるヨーガと密教
第3章 全体主義ーー超人とユートピア
1 全体主義とは何か
2 カリスマについての諸理論
3 ナチズムの世界観
4 洗脳の楽園
第4章 原理主義ーー終末への恐怖と欲望
1 原理主義とは何か
2 アメリカのキリスト教原理主義
3 日本のキリスト教原理主義
4 ノストラダムスの終末論
第5章 オウム真理教の軌跡
1 教団の成立まで
2 初期のオウム教団
3 オウム真理教の成立と拡大
4 「ヴァジラヤーナ」の開始
5 国家との抗争
6 オウムとは何だったのか
おわりに
一読して労作だと思った。

オウムに対して「宗教学」としての反省や取り組が殆んどなされてこなかった・・・と言う宗教学者としての反省から構想された書だが、自分でも言っているようにオウムとは一見直接関係のない「近代の枠組み」とその諸思想をオウム教団分析の「射程」としている。 

それ故、「ロマン主義」「全体主義」「原理主義」の初歩的説明は丁寧になされている。

オウム教団が辿った軌跡には大田が指摘するように、「ロマン主義」「全体主義」「原理主義」の要素が多分に見て取れると思う。
それ故オウム真理教の実態を「原始仏教」の一現代版と捉えるより説得的なアプローチになったと思う。

大田の「宗教学的人間観」が、第1章 近代における「宗教」の位置、1 そもそも「宗教」とは何か、で紹介されている。
 人間は、生まれ、育ち、老い、最後には死を迎える。死によって肉体は潰え、すべては無に帰るかのように見える。しかし、実はそうではない。死んだ人間が生きているあいだに作り上げた財産や、彼が伝達してきた知識は、残された者たちのなかでなおも生き続けるからである。この意味において人間の生は、その死後もなお存続すると言わなければならない。
 このように一人の人間の一生は、その誕生で始まり、肉体的な死を持って終わるわけではない。その人生は実は、生まれる前からすでに始まっており、死後もなお継続される。人間は、他者との「つながり」の中で生きてゆく存在なのである。(強調は著者、28ページ)

つまりこのような視点から言うと、政教分離の近代の枠組みは「人の死を弔う」と言う重大な側面を持つ「宗教」共同体を根底的に揺さぶる人類史にとって例外的なものなのである。

大田のオウム真理教への取り組みは、「近代は宗教を、特に『死の問題』を共同体の公的時空間から、私的なところへ追いやった」、と言う近代の否定的な分析が座標軸となっている。

最後で大田は麻原の「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ」を引用しつつ以下のように締めくくる。
 本書で取り上げた、ロマン主義、全体主義、原理主義という思想的潮流は、そのすべてが、何とかして死を超えた「つながり」を取り戻したいという切実な願望に基づくものであると同時に、それにまつわる空虚な幻想であると捉えることができる。すなわち、ロマン主義は「本当の自分」という生死を越えた不死の自己を、全体主義は他者との区別を融解させるほどに「強固で緊密な共同体」を、原理主義は現世の滅亡の後に回復される「神との結びつき」を求めることによって生み出される幻想なのである。 (強調は著者、277ページ)
大田のこのような「近代における宗教」への視点は、オウムと言うカルト化したテロ集団に限らず、所謂「宗教」を営むグループにとってその存在原理を考えさせるきっかけともなるだろう。

2012年8月11日土曜日

明日の礼拝お休みします

明日、8月12日の主日礼拝はお休みとさせていただきます。

次回は、8月19日となります。

残暑厳しい折、ご自愛ください。

巣鴨聖泉キリスト教会
牧師 小嶋崇

2012年8月10日金曜日

スッタニパータ

筆者は牧師の家庭に生まれて、他の宗教との接触が極めて少ない環境の中を生きてきたので、他宗教の生きた知識と言うものは殆んどないに等しい。

勿論日本語や日本文化の中にそれとなく浸透している神道や仏教に関しては通念としてはあいまいながら持っているわけで、全く知らないと言うわけではない。
ちょうどキリスト者でない多くの日本人がクリスマスや賛美歌にある程度親しんでいる程度には、筆者も神道や仏教に親しんでいると言える。

小さい頃近くの神社でよく遊んだが、社の床下に入ったり、お祭りの時の御輿や道具類が入った倉庫などにも入ったことがある(いたずらでした)。

このブログを最近読んでいる方はご存知のように、たまたま最近オウム真理教(直接的には地下鉄サリン事件だが)のことに関心を持ち始め、そんな経緯で仏教、特に「原始仏教」とは如何なるものであろうか、と言う関心が生まれた。

仏教の通俗的な知識には余り関心がないが、原始仏教と言うと何か魅惑的に響く。

と言うわけで思い浮かんだのは中村元と言う仏教学者だった。
勿論日本は仏教国と言われているように、宗門多く寺も多い。
しかし仏教の経典の研究に関して世界的に優れている、と言ったようなことを聞いたことがある。
今のような日本社会に溶け込んだ仏教ではなく、言わば日本に伝来した仏教には関わりのない仏典の原語的研究などが進んでいる、と言ったようなことだ。

いつものように図書館へ行って中村元のものを探していたら「ブッダのことばースッタニパータ」中村元訳(ワイド版岩波文庫)に行き会った。
巻末の解説を読むとスッタニパータは非常に初期の、それゆえ歴史上のゴータマ・ブッダの言葉にかなりな程度で遡る経典だという。
それでこれを借りて読むことにした。

一応読了したのだが、一言で感想を言うのは難しい。
それまでの前知識としての「悟り」とか「煩悩」とか「解脱」みたいなことがさらによく分かった、と言うわけでもない。

ちょうど福音書で『イエス語録』と呼ばれている部分を思わせるような、語録集という感じか。
しかしこのかなり初期の経典といわれるスッタニパータでも、ブッダは人間でありながらかなり別格な特別な存在として扱われている。
ある部分では神格化に近い表現(礼拝の対象)も書かれている。

スッタニパータの多くは修行者がやってきて教えを請うという設定で、ブッダの教えが説かれている。

殆んどの教えは「悟りきった」ブッダが滔滔と教えを説き、聞いた者はその教えに感嘆して平伏する、みたいな感じで終わっている。
そんなブッダは余り人間味がない取り澄ました感じで「別格」の印象しか与えない。

そんな中で、第4章「八つの詩句の章」の「五、老い」の冒頭は感嘆句で始まる非常に人間らしい感情に満ちた言葉である。
ああ短いかな、人の命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。
しかし、その後の教えはやはり悟りきった感じのものに整ってしまう。

また、第5章「彼岸に至る道の章」の「十七、学生ピンギヤの質問」では、
「四方と四維と上と下と、これら十方の世界において、あなたに見られず聞かれず考えられずまた識られないなにものもありません。どうか理法を説いてください。それを私は知りたいのです、ーーこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」
師は答えた、
「ピンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたはみているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存に戻らないようにせよ。」
筆者の感じでは、やはり福音書のイエスに馴染んでいるためか、ブッダが「悟りきった」者であるが故に、その教えが、教えを請う者に対して突き放した言葉のように響く。
苦悩する人間に対する深い同情や哀れみが欠けている印象を持つのである。


ブッダは「純粋」を求めた人、と言う印象は持つことができるが、やはり彼の教えはエリーティストなものに感じられる。
恐らく日本に伝わって発展した通俗的な仏教は、このようなブッダのアプローチを単純化・容易化して大衆化したものなのだろう。

だから「葬式仏教」とも呼ばれる日本社会に定着した仏教は、スッタニパータに見るような原始仏教とは大分隔たりがあると言ってもいいのではないだろうか。

2012年8月6日月曜日

ピスティス・クリストゥー

パウロ研究においては有名な釈義的問題の一つが、ローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙などに出てくる「ピスティス(信仰)・クリストゥー(キリスト」)だ。

今年の注目すべき神学会議であった、セント・アンドリュース大学でのパウロのガラテヤ人への手紙とキリスト教神学(2012年7月10-13日)でも、リチャード・ヘイズとジョン・バークレーの間で議論があったことをティム・ゴンビスがブログで紹介している。

リチャード・ヘイズと言えば、The Faith of Jesus Christでこの「ピスティス・クリストゥー」論争をもう一度パウロ研究の中心に持ってきた学者だが、そのタイトルが示すように「ピスティス(信仰)・クリストゥー(キリスト」を「キリストの信仰」と伝統的に『目的所有格』で訳されていたのに対し『主格』を主張した。

以降「ピスティス・クリストゥー」を主格に取る研究者達が大勢を占めているようだ。

読者の方でまだこの議論について聞き及んでいない方には『目的所有格』で訳されるのと『主格』で訳されるのにどれだけの違いがあるのかまだピンと来ないかもしれない。

ガラテヤ2章16節を例に取ってみよう。
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法 の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。(新共同訳)
「キリストへの信仰」と訳されているのが「ピスティス・クリストゥー」なわけだが(実際にはこの箇所ではピステオウス)、信仰の対象(目的格)としてキリスト、と訳されているのが分かる。
所謂宗教改革の神学原則である『信仰義認』に関わってくるので解釈上重要な意味を持ってくるわけである。

しかし主格に訳すとどうなるのか。
「キリストの信仰」によって私たちは義とされる、となるわけである。私たちの主観的(決断的)信仰がポイントなのではなく、キリストご自身の「信仰」が私たちに義をもたらす、と言う理解に変化する。

では「キリストの信仰」とは何か。
主に英語圏の研究者たちが議論をやっているので、英語の表現を用いれば、the faithfulness of Christ、と訳されることが多い。

少し意訳すれば、
キリストがみ父の御心に(十字架の死にまで)忠実に従ったその信仰の故に、人は義とされるのだ。
と言う理解になるわけです。

日本語の公用語聖書では「ピスティス・クリストゥー」を主格に解釈するものはまだないですが、2016年には新共同訳も新改訳も新しく改定される予定ですが、あるいは従来の『目的所有格』解釈に対して『主格』解釈が採用されるかもしれません。

でも公用語聖書ですから多くの人が親しんできた『信仰義認』の理解を大きく変えることになる翻訳は避けられるかもしれません。
「注記」ぐらいでとどめられるかもしれません。


2012年8月4日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月5日 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 4:1-11
説 教 題 「試みの時」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《説教シリーズ》「遣わされて」⑦

※次週主日、8月12日、礼拝は休みです。