2013年7月19日金曜日

(4)「カトリックと聖書」③

難易度ランキングについて

では『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議  (2013年6月)イントロを終えた次の部分前半を引用します。

聖書を敬遠していた教会
 皆さんは教会で聖書の勉強会に誘われたり、神父さんから「普段から聖書に慣れ親しみましょう」などと言われたりしているでしょう。でもこれは、公会議以前には考えられなかったことでした。むしろ、信者は聖書を読んでも誤解するかもしれないから読まないように、とさえ言われていたのです。(下線は筆者)
(公会議とあるのは第二バチカン公会議のことですが)、へーそうなんだ、と改めて思わされます。

カトリック教会の《教職者》がカトリック教会の《信徒》に「聖書を読むこと、学ぶことを勧める」ことは、第二バチカン公会議以前には「考えられなかった」、とあるのに目が留まりますね。

これについては果たして事実関係はどうであったか、と言うことに興味がわきました。
①カトリック教会は信徒に聖書を読むことを禁じたのか、
②それとも、信徒が聖書を読むことをただ奨励しなかったのか・・・。
そこで、Did the pre-Vatican II Church prohibit the lay people to read the bible?でググってみました。

するとこのページが筆頭に来ました。

実はこの連載を書きながら参照しているカトリックの「何でも質問箱」のようなサイトがあるのです。、
Catholic Answers、と言うサイトなのですが、やはり筆頭に来たのはこの巨大カトリック・サイトだったというわけですね。

投稿されている意見と、そこでリンクされている情報などからすると、少なくともカトリック教会が正式に信徒に聖書を読むことを禁じた、と言うことはないようです。

むしろ間違った(異端的?)教えを排除するために積極的に聖書を用いる(読む)よう勧めている教皇の手紙の資料があるようです。(#3の方のコメントにあるリンクを参照ください。)

でも全体的傾向としては、「わざわざ信徒が聖書を読む」ことは推奨していなかったのは確かだろうと思います。

「むしろ、信者は聖書を読んでも誤解するかもしれないから読まないように、とさえ言われていたのです。」 ・・・は筆者が考えるには以下のような背景があるように思えます。

カトリックの信徒は、既にミサ(礼拝)に与る時に十分聖書に触れている。
それは礼拝の場に集まった個人が自分の聖書を読むのではなく、公同の礼拝で「神のことば」に共に与っている。

このことに関しては関連して読んだ(福音派からカトリックに「改宗」した方の) ブログに「カトリックとプロテスタントの礼拝での聖書利用率」を比較検討した興味深いWhy Don't Catholics Rread The Bible?と言う記事があります。その中にこういうくだりがあります。
Did you know that a survey was done to check the amount of Scripture used in the Catholic Mass? The Catholic service was almost 30% Scripture. When the same writer checked his local Bible-based Evangelical church he was surprised to find the total amount of Scripture read took just 3% of the service.(下線は筆者)
これを読みながら思ったのですが、聖書が占める位置、どの位聖書が大切にされているか、・・・についてカトリックとプロテスタントで簡単に比較は出来ないな、と言うことです。

確かにプロテスタントでは「聖書のみ」が原則であり、「聖書信仰」はよく言われますが、実態についてはタテマエ通りではないこともしばしばあると思います。

プロテスタントの信徒は自分の聖書を持ち、そして礼拝にその聖書を持って行くことはカトリックの信徒より多いかもしれません。

でも果たして一個のキリスト者として聖書を実際に読み、そして自分の信仰と生活にあてはめているだろうか・・・。

《聖書解釈》に関して言えば、プロテスタントの信徒も、多分に「牧師にお任せ」になっているのではないだろうか。

カトリックの側が信徒に「聖書を個人で読む」ことを勧めないのはそれなりの理由があると思います。
それはやはり《聖書解釈》の難しさがあるからだと思います。
それで《教職者》と《信徒》と言う、「教える側」と「教えられる側」に分かれた構図になるのだと思います。

プロテスタントにおいても殆んどの教会で給与が支払われる《教職者》を置くのはそういう理由が大きいと思います。

しかし第二バチカン公会議後、信徒にも積極的に聖書を読むことを勧めるようになったのは、間違った解釈のリスクを認識した上でもなお更なるメリットがあることを認めるようになったからでしょう。

むしろこの情報化社会、ネットでの検索力の飛躍的強化により、単なる聖書知識のことで言えば、牧師の方が不勉強だと「勉強する信徒」にどんどん追い越されてしまう時代になっています。

今回の引用部分から思わされるのは、《教職者》がするにしても、《信徒》がするにしても、そもそも「『聖書解釈』の意義は何か」と言う問いです。

今「聖書」に関し、カトリックとプロテスタントはかなり似た方向性を取っているように思います。
この「『聖書解釈』の意義は何か」と言う問いに対しても、一緒に考えることができるのではないか、そんな時代が訪れているように感じます。

(※次回に続く。) 

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