2014年3月30日日曜日

(1)ひと区切り

北米留学が終わって帰国した翌年、1990年から非常勤で働いてきた「YMCA」をこの3月でついに卒業することになる。

振り返ると四半世紀に及ぶわけだ。

その間には1995年があり、9.11があり、3.11があった
教会外の方たちとこの出来事の意味をシェアすることが出来たことはよい副産物だった。

これからはまた一旦整理して、教会隣にある工房を足がかりにして「地域社会」との接点を探っていくことになるだろう。

また今年は60になる。

もう逆算して人生設計する時期だ。

キリスト教会の一牧師として何が自分の務めなのだろうか。
大きく言えば二つになる。

礼拝宣教だ。

大事なのはこの順序で、と言うことだ。
主イエス・キリストと、主イエスの父なる神と、聖霊なる神への礼拝が第一だ。

宣教は礼拝の延長と言える。
いやメシア・イエスを主として礼拝する行為そのものが、世界に対して「この方こそ世界の主である」と宣言しているのだ。

もちろん礼拝は信者にとって慰めの場、励ましの場、学びの場ともなるのだが。

この時代、この場所で、どのように宣教を展開してばいいのだろうか。
現代的宣教の文脈について考えている。

大きい文脈では「宣教」と言うことになるのだが、今目論んでいるのは一見「伝道」とは見えない「学習会」と言うインターフェイスだ。

自分の役割は

この「学習会」が教会に「囲い込むための網」としてではなく、

今社会の中で起こりつつある」動きと向き合った
「共同学習の場」となるようファシリテートして(世話役となって)
間接的に、あるいは媒介的に、
キリストの教会が託されている「キリスト資源」を、
提供(サーブ)することにある、
と見ている。

その際ファシリテーターとして自分が提供できる引き出しは何かと考えると、

①宗教社会学
②社会倫理
③英語

ではないかと思っている。
(比重は上からの順、但し①と②はほぼ同じ。専門性から言うと①の方がやや高いか・・・。)



教会としてキリスト教として前面に出せるもの(より宣教的文脈と外からも分かるもの)は、「○○○○キリスト教」みたいな断片的、教養的情報提供ではなく、「ナザレのイエス」を紹介することだろうと思う。

幸い2013年9月から今年3月にかけて、12回シリーズで行ったリチャード・ボウカム「イエス入門」読書会は、4名のキリスト者ではない方々をメンバーとして有益な学びが出来たと思っている。

(まもなくそのレポートを掲載する予定。)

今後も需要があれば、この読書会はまたやりたい。


それにプラスして、より一般向けの「学習会」の題材となるのは・・・。

構想は出来つつあるが、それはまたの機会に。


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