2014年5月31日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
6月1日(日) 午前10時30分

 
朗読箇所 ヨハネの福音書 16:5-15
説 教 題 「罪、義、裁きについて」
説 教 者 小嶋崇 牧師
 

 《御霊の働き》 4
 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。16:9-11、新共同訳)

In relation to sin--because they don't believe in me. In relation to justice--because I'm going to the father, and you won't see me anymore. In relation to judgment--because the ruler of this world is judged. (KNT)
※聖餐式があります。

2014年5月27日火曜日

(3)ことば/コトバ考:聖書と文学 3

今回3回目となります。

ご案内してきた「ヨナ書の表現よみ」と言う催しが、間近になりました。
※まだお席あります。今すぐ、予約どうぞ!!!(詳細は上のリンクをクリック!!!)

2014年5月30日(金)、午後2~3時半
巣鴨聖泉キリスト教会
今回は「表現よみ」をしてくださる、ゲストの渡辺知明さんへのインタヴュー記事です。

*  *  *  *  *  *  *  *

(1)渡辺さんがよく「表現よみ」している文学作品と比較して、『ヨナ物語り』は何か共通しているものがありますか。
(2)あるいは「違和感」はありましたか。あったとしたらどんなところでしょう。
――もちろん文学としての共通性はありますが、表現よみはおもに小説を読みます。ヨナの物語は、物語ですので寓話のような傾向があります。違和感というよりも、このあたりが基本的なちがいでしょう。

(3)渡辺さんは作品を声に出して「表現」することを「表現よみ」と呼ばれていると思うのですが、その際「解釈」が様々な形で反映されると思います。
「ヨナ物語り」を「表現よみ」するに当たって特に工夫した箇所などありましたか。
――物語の場合には、小説とは違って、人物の「内言(内面の言葉)」の表現があまりありません。ですからリアルに読むためには、人物の感情に「はいる→なりきる→のりうつる」という表現の工夫が必要だと思います。
(4)ヨナ書では、ヨナの預言と呼べるようなものは3章4節の「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」くらいで殆どありません。
だからヨナ物語り、などとよく呼ばれるのだと思いますが、現代社会で「預言」と言ってもぴんと来ませんね。
むしろ大川隆法のような怪しげなものになってしまいます。

現代では人々が「はっ」と我に帰って生き方の方向を大きく変えるような警句とはどんな形で「来る」のでしょうか。

私が昔好んで聞いたサイモンとガーファンクルの歌に「預言者のことばは地下鉄(駅)の壁に書いてある(サウンド・オブ・サイレンス)」と言う歌詞がありましたが・・・。
――キリスト教においては「預言」が神からの指令のような意味を持つのでしょうか? 現代においては自らの意思による自主的な行動になるような気がします。そのための前提になるのが、真実の認識と情報の開示なのでしょうが、マスコミによる秘密がそれを妨げているような気がします。
(5)「表現よみ」はパブリックな場でのスピーチやシュプレヒコールのようなものにはどんな意見を持つでしょうか。

「特定秘密法案反対」と賛成できるものであっても大抵一本調子で絶叫タイプで、「表現」としてかなり稚拙、非洗練ではないかと思うのですが。

またヘイトスピーチも、そして政治の場での「発言」も、しばしば絶叫・罵声・罵倒・怒声になってしまうのはどう思われますか。

政治の場、パブリックな場での「表現よみ」の適用は何かありますか。
――表現よみの基本は「オーラルインタープリテーション」だと考えています。つまり、ことばを理解するための自分にとっての表現です。表現を目指すことによって理解が深まるという考え方です。
ですから、他者に向けた言葉の表現においても、自らの認識やモラルが問われるのだと思います。
(6)今回「文語訳」で「表現よみ」なさることにしたのはどんな意図でしょうか。現代語訳では不足があると思われますか。
――「文体そのものがは思想のかたちである」という考えが前提です。現代語訳と文語訳では、厳密に言うと思想がちがのだと考えています。それは情報伝達のレベルではなく文学思想の微妙なところです。
(7)文学作品を「表現よみ」なさる場合もそうだと思うのですが、その作品がどのような視点(誰の視点、主人公の視点、第三者の視点、一人称、三人称、などなど)で語られているか、と言うのを意識することが大事だと思うのですが、ヨナ物語りはどうだったでしょう。
――聖書というものの語り手の立場を考えました。ある意味で「説教」ということになります。日本の文学で言うなら、芥川龍之介「蜘蛛の糸」などは典型的なものです。次に問題になるのが、作品構成における聞き手の設定です。だれがだれに向かって語るのかということが、いわゆる「視点」の立体化になると思います。
(8)今まで「表現よみ」なさった作品の中には、ヨナ物語りのように「一定のメッセージ、教訓、道徳訓」のようなものを内包するものがありましたか。
――作品の教訓というよりも、関連する作品をいくつか思い浮かべました。
太宰治「人魚の海(新釈諸国噺)」での船が荒れる場面。
丸山健二『白鯨物語』(2013眞人堂)にヨナの物語の引用があります。もともと「白鯨」に書かれているものでしょう。
また、中島敦「文字禍」は、アッシリアやニネベを舞台にした話です。
*  *  *  *  *  *  *  * 

④で、「キリスト教においては「預言」が神からの指令のような意味を持つのでしょうか?」、とありましたので簡単ながら・・・。
「預言」はどちらかと言うと旧約聖書で主要なものです。新約聖書(キリスト教)はその「預言」が成就した、と言うところにポイントがあります。

「預言」は、予言のこともありますし、指令のようなこともありますが、そのような具体的内容に関わらず、起源が神の言葉である、と言うことがポイントだと思います。

ですので「預言」、つまり「神の言葉」を預けられた預言者は、自分の好きなようにその言葉を改変することが出来ませんし、また都合が悪いので言わないでおくと言う選択肢もありません。
彼は「預言」せざるを得ないのです。たとえその内容が聞く民に怒りを引き起こし、預言者を殺そうとするような厳しい警告のような性格のものであっても。
丸山健二『白鯨物語』(2013眞人堂)・・・と言うご指摘は日本現代文学に全く疎い筆者にはありがたいものです。
当初「ヨナ書」を題材にした日本現代文学は、丸谷才一の『エホバの顔を避けて』しか見当たりませんでした。(一応読みました。)

確かにメルヴィル『白鯨』はヨナ物語の引用どころか、重要なモチーフになっています。
それもこれもヨナを飲み込んだ魚が鯨と想定されているからですが。

メルヴィルは北米東部地方の捕鯨船の船乗りたちの逸話などを集めて物語を作ったようですが、その中には、
「鯨の胃液でヨナは生き延びれなかったはずだ。」
「地中海で鯨に飲み込まれたとして、イラク付近で吐き出されるまでには三日以上かかったはずだ。」
「鯨の回遊路としては喜望峰を回ってインド洋に入る方が自然だ。 (その場合さらに日数がかかったはずだ。)」
と言ったようなヨナ書を史実に基づいた物語として読んだ場合の難点が物語の中で議論されているのだそうです。

また船に乗り込んだマップル神父がヨナ物語りを聴衆に回想させながら、ヨナが鯨に飲み込まれる前の様子を、詩篇18篇を引用して描写しているくだりがあるそうです。
ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。
死の縄がからみつき/奈落の激流がわたしをおののかせ
陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている。
苦難の中から主を呼び求め/わたしの神に向かって叫ぶと/その声は神殿に響き/叫びは御前に至り、御耳に届く。(詩篇18篇4-7節、新共同訳)
※以上は、Moby-Dick Summaryウェブサイトの「各章要約」を参照。

以上、渡辺さん、『インタヴュー質問』への回答ご協力ありがとうございました。
当日の「表現よみ」と対論のお相手もよろしくお願いします。

2014年5月24日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年5月25日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨナ書 4:1-11

説 教 題 「神の正義と慈しみ」
説 教 者 小嶋崇 牧師
 
ヨナ物語(4) 4章・・・ヨナの怒りと神の慈しみ


今週のイベント
5月30日、(金)
   午後2時~3時半(※開場1時半)

2014年5月21日水曜日

(4)洗礼後講座

今年のイースター(4月20日)に洗礼を受けたYさん。


教会に出席し始めたのは2012年。

最初は色々あってまばらな出席だったが、昨年からはほぼ毎週出席なさっていた。

昨年12月になって、通い出した時から心には決めていたそうだが、洗礼を申し出られた。

そして《洗礼準備講座》が始まった。

洗礼準備に入る前に、ほぼ毎週のように《入信講座》を取っておられた。

さて、洗礼を受けて一段落となったが、その後も終日午前中の学びを継続したい、と言うことで始めたのが《洗礼後講座》だった。

「テキストに何かいいのないかな」と思って考えていたが、スコット・マクナイト『福音の再発見』がいいかなと思って、
第8章「ペテロの福音」
から学び始めている。

今日は159-161ページをカバーした。

問い:「第一世代の福音説教」(159ページ)とありますが、では「第二世代(以降)」との違いは何だと思いますか?

マクナイトは基本的には新約聖書学者で、この本で『信仰の規準(レギュラ・フィデ)』を「キリスト教史」で扱う時はやはりアマチュアの感じになる。

それでマクナイトが、現在の「西洋大衆キリスト教福音派」が「救い派」になってしまったと言う時、その分析は新約聖書学的知見から出発して、(アマチュアである)教理史・キリスト教史を振り返っているわけだ。

その辺の事情を説明しながら上記の問いを梃子にして、ルカ福音書序文、使徒の働き1章(マッテヤの選出)の記事を読んでみた。
わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに・・・

そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人に・・・
「第一世代」とは、すなわちイエスの弟子たち=使徒たちであり、彼らは「イエスの宣教と受難と復活の証人」であったわけだ。

「第二世代(以降)」とは、イエスの目撃者証人である「第一世代」から福音を「伝承された」者たちである。
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。(Ⅰコリント15章3節)
パウロの場合、「主の復活の証人」と言うことでは「第一世代」になるが、イエスの宣教と受難の伝承に関しては「第二世代」となる特殊なケースだ、と言うことも付言した。


そんな風にして学びを進めている。

2014 友の会バザー

☆バザーのご案内☆
日時☆2014年6月5日(木)午後13時~14時45分
場所☆巣鴨聖泉キリスト教会 豊島区巣鴨1-3-19
     活水工房(教会隣り) 豊島区巣鴨1-3-20

出品物:
* 友の会ならではの吟味された・・・手作りのパウンドケーキ、マドレーヌ、ごませんべい
* 丁寧に心をこめて作った・・・エプロン、布巾、ピロケース、鍋帽子、恒例の雑貨
* 中古衣料など
☆収益金の一部は被災地に寄付されます。
主催:東京第一友の会 文京方面(雑誌「婦人之友」愛読者の集まり)
《活水工房出店ブース》
 今年は活水工房にて木工品や無垢材(木っ端)、古い大工道具(鉋など)、をほんの少し、他の生活諸雑貨と合わせて出品します。

2014年5月20日火曜日

(4)英語圏ブログ紹介⑬ ニア・エマオ

ただ今ブラウザー(ファイアー・ォックス)がクラッシュした後、再立ち上げでこの記事を書いています。
少し制限がある中での文章ですので、ご寛容のほど。

さて今回取り上げるのは、本日、5月20日を持って閉鎖となる「聖書ブログ(Biblioblog)」です。
Near Emmaus
(名称の由来は、ルカ24章の「エマオの旅人」から来ています。「近辺」というところも味噌ですが。)

ブライアン・ルポートが中心となって5年前から始めた「グループ・ブログ」が、本人が「余り興味を持てなくなった」と言う理由で閉鎖するそうです。

米国時間ではまだ暫くありますが、間もなく最後の記事がポストされて、閉鎖・整理に入るとのこと。

でも書き溜めた記事は整理されて今後も閲覧できるそうです。

さてブライアンは、まだ(新約聖書)学者ではありませんが、スコット・マクナイト、ニジェイ・グプタ、等、新約聖書学者でブログをやっている方々からも一目置かれる「情報通」です。

いち早く目ぼしい情報をアップしたり、書評を掲載したり(今はそれで忙しいようですが)、ネット界への貢献度はかなり高かったように思います。

そう言う意味では少々「バーナウト」気味になったのかもしれません。

別に浅田真央さんの「休養宣言」に時期を合わせたわけではないと思いますが・・・。

ブログ紹介(というより送別の辞でしょうか)ついでに、最近の記事を一本紹介。

最近「キリスト教神学」で言うと『キリスト論』が盛んです。

まだこのブログでは取上げていませんが、日本では『捏造された聖書』である程度名が知られたバート・アーマンの最近刊、How Jesus Became Godへの書評が福音派内からも幾つか出ています。

アーマンは元々は福音派の信仰から出発して、懐疑主義に辿りついた学者で、ルートは違いますが、『グノーシス福音書』の著者、ハーバードのイレイン・ページェルスと似た背景があります。

いずれにしても福音派内からはある種のバイアスがかかった批評(批判)的学者と見られています。
(しかしアカデミックな内容からは、バートン・マックなどとは一線を画す、それなりの実績を示していることでほどほどの尊敬も受けています。
N.T.ライトも2008年頃?だったかアーマンと討論しています。このリンク参照)

マイク・バードはいち早く反応し、How God Became Jesusを他の3人の学者たちの協力を得て出版しました。

筆者はバードは過剰にアーマンに反応しているな、との印象を持ちましたが、仲間内での書評は概ね好評のようでした。

しかしアーマンに対してアカデミックなレベルで公正ではない、と言う福音派内からのかなり厳しい批判的書評が「ストーリード・セオロジー」ブログ(未紹介)のJ・R・D・カークによって提出されました。(この記事

と言うことでかなり遠回りになりましたが、「ニア・エマオ」ブログでもまたもう一本バード本批判の書評記事が出ています、と言うことです。

ダニエル・マクレラン(モルモンの背景の人かもしれません)が書いた記事です。
Bird, et.al, How God Became Jesus 書評、パート1

ゲスト・ポストとなっているので、ブライアンが要請したか、ダニエルの方が申し込んだか、・・・その辺のところはよく分かりませんが。(マクレラン本人のブログを見ると後者のようですね、多分。)


しかしまだ「パート1」なのに、閉鎖となってしまってマクレランさん残念でしたね。(余計なお世話ですね。)

2014年5月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年5月18日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:9-12

説 教 題 「使徒パウロの祈りと願い」
説 教 者  小嶋崇 牧師
 
パウロ書簡の学び(123)
コロサイ人への手紙(5)
  手紙冒頭の祈りとその内容について

2014年5月13日火曜日

(4)神学と宗教学

テーマから言うと、現在構築中の
宗教と社会 小ロキウム@巣鴨 
に掲載する方が相応しいのかもしれないが、簡単なメモ程度なのでこちらに。

先日は「最近購入した本(英書)」を紹介した。

また先日(文京区)図書館からも何冊か借りてきていた。
読む本が多くて大変だ。

この記事タイトルの順で紹介すると『神学』からになるが、
深井智朗『思想としての編集者』
から始めよう。

筆者は日本語の神学書やキリスト教書は余り買わない、とよく口にするが、それでも何度か周りの人や何かから「誰それがどうの・・・」と聞いたりする名前は一応覚えておくことにしている。

「深井智朗」の名を初めて聞いたのは数年前になるかもしれない。
最近『ティリッヒとフランクフルト学派』 と言うちょっと気になる関係についての叢書をまとめられたそうで、また「深井智朗」の名が浮上したわけである。

彼について書き進める前に、今度は『宗教学』。

「大田俊寛」と言う割合若い宗教学者のことはこのブログでも度々言及してきた。
オウム真理教の精神史ーロマン主義・全体主義・原理主義
を著し、最近のオウム真理教の動向についてメディアから度々コメントを求められる存在になってきた。

こちらは教義や修行内容やそう言う表面や外面から見た場合「様々な宗教や思想の折衷・混淆」に見える如何にも胡散臭いオウム真理教が、思想史的に射程を長くして捉えると、「近代の申し子」の様相を呈する、と言う分析をした本だ。

なぜこの二つを「神学と宗教学」と題して取り上げたかと言うと、たまたまこの二つを読んでいて「共通点」とまではいかずとも、「近代における精神史」的側面で幾らか重なる部分があるな、と思い、それを忘れないうちにメモしておこうと思ったからである。

今無理に二つを連関させようとすると「こじつけ」となる危険があるので、トピックとしてだけ挙げておく。

方法論としては深井は「思想史」にさらに「出版と言う近代の知識・思想社会制度史」を加えて重厚さを持たせている。
大田の方はより思想史的なまとめだ。

カール・マンハイムが祖とされる『知識社会学』や、それを遡り、「近代社会理論」草創期の古典である『宗教生活の原初形態』を書いたエミール・デュルケームについてもちょっと書いてみたいところだが、そちらは宗教と社会 小ロキウム@巣鴨に譲ることにしよう。(と言ってもすぐ書くかどうかは不明だが。)

2014年5月11日日曜日

(5)トマス・C・レーマー教授講演会・補遺

先日の記事「トマス・C・レーマー教授講演会」を途中退席して何をしたのか・・・。

早い話がもうお昼だったので昼食です。

が、ICUの千葉眞教授と一緒。

千葉さんとはプリンストン神学校で一年一緒だった。

今回はついでではないのだが「久しぶりの再会」 とあいなった。

かつて千葉さんからはジョージ・B・ケアード「新約聖書神学」(ここ参照)を贈られて痛く開眼したのだが、久しぶりに会うのを良い機会に、「なぜこの本をくれたのか」聞きたかったのだ。

「いやー、ケアードは僕がオックスフォードいた時のメンターだったんだよ。ゼミや祈り会や色々お世話になって・・・」
「えー、そうだったの!」

故ケアード教授はN.T.ライト教授の博士論文指導教官(途中で亡くなったのだが)、そのライトは千葉さんと年もそう違わないのでもしやと思って聞いてみたが、ライトとはぜんぜんクロスしなかったそうだ。

多分数年開きがあったのだろう。


許された時間は約90分。瞬く間に過ぎた。

最後はオフィスへ。

しばらくぶりに見るオフィスは「本の山」。

早速レッドカードを出させていただいた。

帰りはお土産の本や最近千葉さんが書いた論文のコピーなど沢山いただいた。


下の本「未完の革命としての平和憲法」は会う前に地慣らしということで図書館で借りた本です。

ルカによる福音書」はオックスフォード時代からの千葉さんの親友、故藤崎修氏翻訳になるもの(教文館、2001年)。

二十一世紀と福音信仰」は論文集。千葉さんの「救いの証」から始まる主に神学的な著作。

暫く会わない間に色々あったらしいが、そこはお互い様。

今後はもっと会う機会を増やそう。

2014年5月10日土曜日

(4)最近購入した本とか

また(暫くぶりにかどうか) アマゾン(北米)から本を購入した。

今回は2冊中古本でした。
アマゾン(北米)で中古本を注文したのは初めて。 
Oliver O'Donovan, The Ways of Judgment (Bampton Lectures)
Condition: Used - Good
 
ハードカバーで値段は12ドル。
結局送料・手数料が高くついて、計3900円ちょっと。

4/27に注文確定して、昨日5/7届いた。

まっいいか。

その翌日、今度は中古と言うより新古書かな。
Craig Bartholomew, Jonathan Chaplin, Robert Song, Al Wolters, A Royal Priesthood?
A Dialogue with Oliver O'Donovan
Scripture and Hermeneutics Series, V. 3
これは次に紹介する殆んど同名タイトルの本をネットで検索していてたまたまヒットしたもの。ラッキー!
John Howard Yoder, Michael G. Cartwright, The Royal Priesthood: Essays Ecclesiastical and Ecumenical
これは某所でのヨーダー読書会で今月から読むテキスト。
早く入手できてよかった。
 
つまりこういうこと。
ヨーダーはキリスト教社会倫理で「非戦・平和」の立場を取るメノナイト神学者の勇であったが、彼が論敵としたキリスト教リアリズムのラインホルド・ニーバーとは少し違うが、オリバー・オドノバンは、脱キリスト教化する欧米にあって『キリスト教圏・界(Christendom)』の神学的遺産を言わば修復的に用いようとする点で、ヨーダーの批判者になるわけだ。
 
バーソロミュー等編者がどの程度それを含意してタイトルにしたのか・・・。
ただの偶然の一致なのか・・・。
非常に興味深いところだが、(暫定的に)結論から言うと多分後者。
 
インデックスを見た感じではヨーダーへの言及は殆んど見当たらない。
 
まっ、でもオドノバンに関しては昔から関心あったので、それにこの論文集の中に、N.T.ライトのものも入っているので、よしとしよう。
 
そしてついにそのライトのマグナム・オパス(主著)、
N. T. Wright, Paul and the Faithfulness of God
入手した。
2分冊で1600ページが5600円余。安い、お値打ち。
 
最後はユダヤ人の新約聖書学者、
Pinchas Lapide, The Resurrection of Jesus: A Jewish Perspective 
この人のことは、ライトが『神の子の復活』で文献評に載せていたので気になっていた。薄い本なのでそれほどのものとは思っていないが、少なくとも立場がはっきり異なる人がナザレのイエスの復活の史実性を打ち出しているので、それが肝心かと。
 
さて他にも色々借りてきたり頂いた本などがあるので、どれだけ集中して読めることやら・・・。 

《追記》
一晩寝てから思い出した。
もう1冊あったのだ。
James K. A. Smith, Imagining the Kingdom: How Worship Works (Cultural Liturgies)
カルヴィン大学の教授だが、ここは例のニオ・カルヴィニズムの方々とは少し違った雰囲気を持つ大学のようだ。
かなり前からN.T.ライトを講師に、それも繰り返し招いている。
 
スミスは最近では(福音派)キリスト者に、カナダの(カトリック)社会哲学者、チャールズ・テイラーの「世俗化の時代」を噛み砕いて紹介しようとしている、なかなか開明的な方と見受ける。 
 
 
 

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年5月11日(日) 午前10時30分

朗読箇所 エペソ人への手紙5:6-20
説 教 題 「詩篇を祈る」
説 教 者 小嶋崇 牧師  
説教シリーズ:キリスト者の交わり(5)  

ボンヘッファー、Life Together2章『詩篇の秘密』から
 (私たちが口に出来ないような詩篇は)誰か他の人が祈っているのです。(私たちではなく)その詩篇で自分の無実を神に訴えている方、苦難のどん底に落っこちてしまったそのお方こそ他ならぬイエス・キリストご自身なのです。その詩篇で、いやすべての詩篇でイエスが祈っているのです。
 (中略)キリストが、個人と、そして会衆と一緒になって神のみ座の前で詩篇を祈る時、いや彼らが詩篇を祈る時イエス・キリストも一緒になって祈るので、彼らの祈りは天の父の耳に届くのです。キリストはそのように執成し手となってくださるのです。
※礼拝後、昼食会

2014年5月9日金曜日

(5)トマス・C・レーマー教授講演会

今日ICUでの講演会へ行ってきた。

元はと言えばこのツイートが始まり。

もしかしたら面白いかも・・・と思って早速サーチしてみたが、値段を比較したら英訳書より邦訳書の方が幾らか安そうだったので、筆者としては珍しく「旧約聖書」関連の「邦訳書」を入手することにした。(筆者にはこれでもかなり高い!)

しかし、と言うかやはり、入手後積読状態になっていた。

今年に入って少し4月付近から余裕が出てきたところでパラパラと読み始めていた折、このツイートが。


で行く前に、少しコレージュ・ド・フランスのウェッブサイトでレーマー教授のご講義をうつらうつらしながら聴いてみた。(今日、本人の英語を聞いて、やはりこちらのサイトでの英語は別の人のものだと思った。)

講演のタイトルである、Dark God: Cruelty, Sex, and Violence in the Old Testamentは既に英訳されて昨年発売になっていた。(アマゾン北米、なお簡単な要約書評。さらに講演での「性(ジェンダー)」に関わる唯一神観の問題と講演タイトルにある「ダーク」に関してはレーマー教授の論文が別にあり、ここで要約と論文を入手できる。これもかなり刺激的。)

講演はそのダイジェスト版のようなもので、パワーポイントのプレゼン資料が用意されていた。(後でネットで提供されると聞いた。)

このようなタイトルの本が刊行される背景としては、脱キリスト教文明のヨーロッパにあっても、「暴力」と繋がる「ユダヤ・キリスト教神観」を提示する(旧約)聖書は放っておけないらしい。

最近でも英国の「急進的」福音派と目されるスティーブ・チョーキが「刑罰代償説(penal substitution)」を、"cosmic child abuse"、と表現して北米ニオ・カルヴィン主義者たちの顰蹙を買った。

詳細は今後ネットに紹介されるだろうプレゼン資料に委ねるとして、筆者のざっくりとしたレーマー教授の研究態度や業績の初期印象を述べる。

現在ヨーロッパで、しかもコレージュ・ド・フランスのような高等研究機関で、聖書学「だけで」研究を続けるのは大変なことなのではないか。

先に紹介したウェッブサイトの講演題を見ても、如何に現代人に関心を持ってもらえるか、その切り口を工夫しなければならない状況、を感じた。

かと言ってレーマー教授が興味本位に研究していると言うことではなく、むしろかなり幅広く、横断的に資料や情報を整理して著作や講演にまとめている。その点かなりコミュニケーション能力が優れている。

古代中近東の文献や考古学的業績を渉猟しながら、現代人に関心持てそうなものを上手く救い上げて提示してくる。

その時の聖書解釈の視点が、時にやや強引に感じなくもないが、とにかくチャレンジングな視点を提供してくれる。

今回の講演における「性」や「暴力」は、しかしレーマー教授が開拓したのではなく、読者からの要請でまとめたのだと言うことだ。


とにかく旧約聖書の編集史(マルティン・ノートの学説の現代的適用可能性の見極め)から始まり、新たに発掘される情報を総合しながら、幅広く「ヘブル語聖書」の歴史と世界を「解釈学的にチャレンジングな形で」提示してくれるレーマー教授は、キリスト者向きと言うより、より一般(大衆)読者向き、の文脈にいるのかもしれない。


その点は本人自身の信仰の保守性はさておき、新約聖書学におけるリチャード・ボウカムの博識と学問的業績に似ているかもしれない。


質疑応答の時間の途中でICUの知人と会うため退席したが、久し振りの緑豊かなキャンパスでののびのびした時間を楽しむことが出来た。

(次回は「トマス・C・レーマー教授講演会・補遺」とでも題して、この知人との話を記事にしたく思っている。と言うのも筆者にとってはこちらの方が内容的に刺激が多かったからだ。)

2014年5月7日水曜日

(2)新PCへのデータ移動

最近更新が滞っています。

古くなったPCから、新しいノートPCへ、データ移動をしています。

全部手動でしているので時間がかかります。

その間データを時々見返したりしているので(要するに道草)、ますます時間がかかってしまいます。

ようやくメールメッセージを遡れるだけ遡って移動しました。
(その前か、その前の前の段階で、一番初期のメールメッセージは消失してしまいましたが・・・。)

一番古いのは1997年位です。

その中にAmazon.ComのJeff Bezosのメッセージがありました。
その頃はCEOとして顧客に直接メールを出していたのですね。
(もちろん本人が書いたメッセージであるかどうかは分かりませんが。)

今気になっている未更新記事は「オウム真理教ノート」です。
下書きは途中まで書いてあるのですが・・・。

このGW期間中は、そう言う訳でPCに幾らか時間を取られていました。

そんな中、5/30の「ヨナ書表現よみ」の方への申し込みは少しずつ入っています。
残る席10-15位となりました。
どうぞいらしてください

先日のイースター礼拝では、久し振りの受洗者でした。
筆者が主任牧師となって初めての洗礼式

と言うことでネットで検索したりして資料を集めたり、リサーチしたり。
カトリック教会の方式と言うか、態勢を色々と参考にさせていただきました。

あくまで参考であり、踏襲とか導入とか言うまでには行きませんでしたが・・・。


そんなわけで、軌道に乗るまでまだ暫くかかりそうです。
心配せずにお待ちください。

よろしくお願いします。
ブログ主。

2014年5月3日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年5月4日(日) 午前10時30分

聖書
交読 詩篇69:1-36
朗読箇所 使徒の働き 4:1-31
説 教 題 「メシアとその民の迫害」  
説 教 者 小嶋崇 牧師
 

詩篇に沿って(3)
詩69篇・・・迫害からの解放を求める祈り
しかし、ペトロとヨハネは答えた。
「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。
わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」 
             (使徒言行録4章19-20節、新共同訳)