2015年12月31日木曜日

2016年元旦礼拝案内

元旦礼拝

2016年1月1日(金) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:1-17
説 教 題 「いつも感謝していなさい」
説 教 者 小嶋崇 牧師

    いつも感謝していなさい
            コロサイ人への手紙3:15(新共同訳)

※1月3日(日)の主日(日曜日)礼拝はお休みとなります。

2015年12月26日土曜日

オウム真理教関連記事の引越し

3年くらい前から「オウム真理教」に関連していろいろ記事を書いてきました。

4回目くらいからは「オウム真理教ノート」として連載しました。

数えてみたら「ノート」は10回、その他も合わせると14本くらいの記事を書きました。

こちらの『大和郷にある教会』ブログでは殆ど紹介することもしませんでしたが、少し前から

宗教と社会 小ロキアム@巣鴨

にそのテーマに合わせた記事をポツポツ書いています。

今年後半になって少しペースが上がってきています。

少しずつ「宗教と社会」という広いテーマの中で、もう少し絞れたトピックが登場し始めました。

その最も大きなものは「イスラーム」に関連してくるものです。

さらに「終末思想」と組み合わさったイスラーム過激派の問題に関心が向かい始めています。

「終末思想」と「過激派」が合わさった、という点で「イスラーム国」とオウム真理教の相似性が見えてきたかな、と思い今回「オウム真理教関連記事」を、こちらのサイトに整理まとめました。

よろしければ、オウム真理教について


やその他の記事もお読みください。


 

2015年12月19日土曜日

明日の礼拝 お休み の案内

待降節第四主日

2015年12月20日

巣鴨聖泉キリスト教会での礼拝はありません

12月24日(木) 夕7時~
キャンドルライト礼拝


が年内最終集会となります。

12月27日の礼拝もお休みとなります。

2016年1月1日(金)の元旦礼拝がスタートとなります。
時間は通常と同じ、10時30分~


以上年末年始の主日礼拝は不規則となりますのでご了承ください。

巣鴨聖泉キリスト教会
牧師 小嶋崇

2015年12月14日月曜日

(5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教(続2)

ドナルド・トランプの名前はまだまだ日本では知られていないのではないかと思う。
と書いてこのトランプ連載を始めた。

確かに8月の時点ではそれほど日本のメディアには露出していなかったように記憶している。

しかし
どうやらトランプ氏の選挙戦は予想より長続きしそうなので、このシリーズはまだ続けられるかもしれません。

連載2回目を書いたときには、共和党候補者の先頭を走りながら、当初短命と思われたトランプ候補の支持率が以前下がらない予感がして、連載を続けると締めくくった。

それから三ヶ月。トランプ候補がここまでしぶとく先頭を維持することは余り考えていなかった。

大分連載をサボっていたが、お約束通り連載3回目を書くことにする。


《アトランティック》誌のルース・グラハムの記事(2015年10月28日)では、福音派といっても、信徒たちと牧師など教会指導者たちとではトランプ候補に対する評価に開きがあることを指摘する。

例としてベイラー大歴史学教授のトマス・キッドや、南部バプテスト連盟指導者のラッセル・ムーアらトランプ候補に否定的評価を下す福音派指導者の名を挙げている。


今度は《宗教と政治》誌のエミリー・ジョンソン(テネシー大宗教史教授)の記事(2015年12月8日)では、ノックスビルのコンベンションホールでの集会の様子をレポートしている。

エミリーの印象では、保守派/福音派キリスト者のトランプ候補支持が依然高止まりしている理由は、トランプの信仰とか宗教的背景ではなく(むしろ乖離している)、保守派/福音派キリスト者の抱く「アメリカとキリスト教の同一性」が危機に瀕しており、その問題に一番アッピールする候補がたまたまトランプであること、そして何よりもトランプ自身が、今まで非政治的でさえあった今回の支持者たちのように「政治の素人」である点がアッピールしているのではないかと指摘する。
Like Nixon, Trump uses vague references to moral decline and American patriotism to cast a wide net, to appeal to a broad swath of conservatives who feel alienated from the machinations of Washington bureaucrats, but who can hear their grievances reflected in Trump’s “Make America Great Again” sloganeering.
最後に《ワシントン・ポスト》誌のサラ・ベイリー記者の記事(2015年12月10日)では、福音派指導者たちがトランプ氏以外の有力候補を擁立する動きを紹介している。

ジェームズ・ドブソン氏とのインタヴューによると、最初に予備選が行われるアイオワ州での世論調査ではテッド・クルーズ上院議員が支持を集めているが、福音派も彼に絞ってきている様子だとのこと。
(CNNの日本語翻訳記事でも紹介されている。)



といったところです。

(※さてお約束は出来ませんが、これで連載終了とはまだならないのではないかと思います。)

2015年12月12日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第三主日
クリスマス礼拝

2015年12月13日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ルカの福音書 2:1-20
説 教 題 「これらのことを心に納めて」
説 教 者 小嶋崇 牧師


待降節を迎えて(2)
マリア、羊飼い、ルカ、物語のリレーを想う

2015年12月10日木曜日

(5)現代の英語圏神学者③、ディヴィッド・ガシー

このシリーズ、スタンレー・ハウアーワスに続いて、二回目にクリスチャン・ワイマン取り上げてから数ヶ月が過ぎました。

[ 2016/5/26追記 があります。スクロール・ダウンしてください。]

日本ではほぼ無名でもそれなりにネーム・バリューのある方は沢山いるわけですが、あえて「福音派」の中で、油が乗っているような方を早めに取り上げようと思い、このたびの選択になりました。

ディヴィッド・ガシー(David P Gushee

は、現在マーサー大学「神学と公共」研究所所長でキリスト教倫理学教授です。
キリスト教倫理学の諸問題やテーマを扱った著書も20冊ほどあるようです。

最近の動向としては、LGBTQ問題に対して福音派としては進歩的なスタンスをいち早く鮮明にしました。

またブッシュ政権下での「拷問」に対しても福音派として最初に抗議の声をあげ5 Reasons Torture Is Always Wrong、クリスチャニティ・トゥデー誌、2006年2月)、その後も人権関連の諸問題と取り組んでいます。

また、北米聖書学会(SBL)と同時開催される全米最大の北米宗教学者・神学者団体、アメリカ宗教学会(American Academy of Religion)で今年副理事長に選出され、福音派の背景を持つ指導者として重要な立場にいます。

と言ったところは、この記事を書くためにネットでちゃちゃと調べた感じてすが、彼を最初に「レーダー」に感知したのは以下の動画でした。

ホィートン大学の神学会義(毎年開かれる)で、2013年は「キリスト者の政治行動(ポリティカル・ウィットネス)」がテーマで、ガシーもハウアーワスやマーク・ノルらとともに講演者として選ばれました。



この講演の冒頭で、プロテスタント福音派が「社会倫理」を議論する土台となる(権威ある)神学的伝統(教説や理論)がないことを指摘している。(カトリックの社会教説やプロテスタント・エキュメニカル陣営と比較して)

いわばちょっとした「キリスト教社会倫理・概論というか入門」となっている。(なかなか手際がよい)

とにかくこの動画でなかなか感銘を受けたのでした。

というわけでこの動画を入口に、ガシーが福音派として「社会倫理」「政治倫理」をどう構築しているのか、というのがちょっとした関心です。


2016/5/26追記
 ガシーの邦訳書の類はないだろうと高をくくっていたらありました。
 グレン・H・スタッセン/デービット・P・ガッシー『イエスの平和を生きる -激動の時代に読む山上の説教-』(出版社: 東京ミッション研究所)・・・教文館の方のリンク。
 

原書はKingdom Ethics: Following Jesus in Contemporary Contextみたいですね。

2015年12月6日日曜日

(4)牧師は神学者か 3

シリーズ3回目となります。

牧師について日頃いろいろ考えていることに触れてくる記事があったので、その記事を紹介しながら何本かまとめていこうと思う。
1では、ヴァンフーザーの『牧師は公衆神学者』テーゼを紹介しました。(正)
2では、アンドリュー・ウィルソンの「両立は困難」という主張を紹介しました。(反)
(3)では、ディヴィッド・フィッチの「機能的神学者」論を紹介します。(合)

ディヴィッドのこの議論への入り方は、(2)に対する反論であるとともに、(1)の修正版ということになると思います。

 ※前置きとして、現在の博士号保持者の就職状況が非常に厳しいことを指摘しています。

将来牧師となる人がやるべきドクター・レベルの研究は教会のミニストリー(わざ)と機能的に繋がっているものであるべきだ、と主張します。
(「機能的」神学者は、イタリアのマルクス主義者アントニオ・グラムシのコンセプトから借用しているものです。)

ここには「神学」的反省作業(リフレクション)がミニストリーの「現場」から離れてはいけない、むしろ「現場」に繋がって生起する反省がそのままミニストリーにフィードバックされる、という循環効果が見られているようです。


ディヴィドは(ジーザス・クリード・ブログの、そして『福音の再発見』著者の)スコット・マクナイトともにノーザン神学校で教えているのですが、このたび新しく「ドクター・オブ・ミニストリー」を開設するに際し、その理念や目的をまとめているのですが、言っちゃ悪いですが、このプログラムの宣伝に記事を書いてる面がありますね。

同時に、マクナイトだけでなく、カルヴィン系以外(ウェスレアン、非カルヴィン系バプテスト、アナバプテスト、など)の神学的指導者のコーリションであるMissio Allianceの問題意識や戦略を反映しているようです。

それは、大雑把に言ってきたアメリカはクリステンダムを脱したことを自覚して、宣教のヴィジョン再構成すべきだ、という主張です。

この認識に従って牧師のミニストリーへの準備や訓練に相応しい再構成、さらに「牧師神学者」として機能するための学際的アプローチや発信環境整備に言及しています。

なかなか刺激的アイデアが盛られていますが、まだ十分練られているとはなってないのでは、感じますが・・・。

しかし、この論考は非キリスト教国で、ポストモダン情況を迎えている日本の「神学的文脈化」を考える上で参考点が多いと思われます。

関心ある方は是非お読みください。


2015年12月5日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第二主日礼拝

2015年12月6日(日) 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 2:1-11
説 教 題 「真の宝キリスト」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2015年12月2日水曜日

今日のツイート 2015/12/02

これしかないでしょ。
何しろ地元だし。

ちなみにこのニュースが出るまで蔦に関する英語のツイートはほぼこれだけ。
ちなみにBBCニュースの記事。

2015年11月29日日曜日

(4)タカ牧師のセブンー6

何と最後に「タカ牧師のセブン」を投稿したのは三ヶ月以上も前でした。

その間「候補記事リスト」はたまるばっかり。

でも少しずつ在庫整理するしかない。


1. The Problem of Irrational, Unteachable Christians
  『頑固でわからずやのクリスチャン、という問題』

 PATHEOSというブログを集めたサイトがあるのだが(右側コラムで言うとジーザス・クリードとかユーアンゲリオン)、同じ「福音派」カテゴリーにあるのがロジャー・オルソンのブログだ。カリスマ派の出自で、カルヴィニズムに対抗する論陣を張ることで知られる。
 日本では今年「反知性主義」が話題になったが、クリスチャンの中でオープンな議論を頑固に拒否して持論に居座り、馬鹿馬鹿しいと非難されても一向に構わないようなタイプの人たちのことを論じている記事。

2. Fundamentalists and Scholarship
  『根本主義者と学術研究』

 これも上と同じサイトにあるジェームズ・マグラスのブログ記事。
 熱心で敬虔なクリスチャンの中には「聖書の学術的研究など必要ない。自分はただ聖書を読むだけでいい。」などとうそぶく向きがあるが、その見識の浅はかさを「図」を用いて解説しているところが味噌。(誰か日本語に置き換えてくれないかな。)

 (『根本主義者がいかに学術研究に依存しているか』を示す図)

3. Chagall's Jewish Jesus
  『シャガールが描くユダヤ人イエス』

 ハシディック派ユダヤ人であるシャガールの絵画を解説している(動画)。
 ナチ政権下の1938年、シャガールはユダヤ人イエスを描くようになった。「ユダヤ人迫害は実のところクリスチャンの迫害に等しい。彼らのイエスはユダヤ人だから。」と絵画で訴えたのだ。

4. Are We Mormons a Cult?
  『モルモンってカルトなの?』
 モルモン教のライターは昔バプテストの信者との会話の中で「カルト」呼ばわりされたことがある。では、「カルト」とは何か・・・ポイントを挙げながら、該当する点、該当しない点、を整理してモルモン教がカルとではないことを弁明している。

5. 102-Year-Old Finally Awarded Ph.D. She Was Denied Under Nazis
  『102歳で、ナチ政権下で中断させられた博士号をついに取得』

   すごいです。もちろん視力等衰える中、仲間の助けもあり、オンライン情報を駆使して完成。取得の挨拶では「私のようなことをナチのために断念させられたりした方々のためにも」とその喜びを語っていたそうです。

6. 「相手の心に刺さる言葉はどう選ぶか

 心に刺さるコトバは、ツイッターでフォローする某キリスト教雑誌編集長が使っていた表現で気になった。で、グーグルしてこの記事に。

7. 「井上達夫『リベラルのことは嫌いでも・・・』を読んでしまった

 イスラーム研究がご専門の池内恵(さとし)東大教授のブログ記事。同じく東大教授の法学研究者井上教授へのオマージュを込めた著作紹介読書暦を綴っている。


2015年11月28日土曜日

明日の礼拝案内

待降節第一主日礼拝

2015年11月29日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 1:1-11
説 教 題 「父がお定めになった時」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会史遡行(10)
 迫害から国教へ(2世紀から4世紀のキリスト教会)

2015年11月26日木曜日

(4)『霊性』を神学する 1

昨今「霊性」とか、より一般的には「スピリチュアル」とか、すなわち人として生きるときの「内面的生活」の充実が宗教的な伝統から省みられる動向がある。

教会に通う信徒の場合はそれほど意識しなくても、なにがしかの自覚はあると思う。

さらに「熱心なキリスト者」の場合はこの取組みをより自覚的に追求する。聖書を読んだり、祈ったり、いろいろ霊想書を読んだり、いわゆる「デボーショナル」と呼ばれる「個人的敬虔」を訓練するわけである。

筆者はプロテスタントの中で「パイエティズム」と「リバイバリズム」の伝統の強い流れの中で信仰を育まれたのであるが、この年になってその「内面的生活」が様々変化してきたように思う。

どちらかといえば「変わらない」ことが望ましいのであろうが、変化についても積極的に評価できる場合があるのではないかと思う。

そんなことを反省するために、極めてランダム(そしていつもの如く気まぐれにであるが)随想的に「内面的生活」の神学的反省を綴ってみたいと思う。

名付けて「『霊性』を神学する」

別に参考とする本や人物もない。ただこれまでの体験的蓄積を基にして書きつけていこうと思う。(その中には多分に読書や人物観察からくるものがあるだろうと予想する。)

第一回目は「霊性」の定義について。

思いついたポイントは、二千年の教会史の、その時代・時代の異なる(模範的あるいは典型的)「キリスト者生活」をどのようにすれば概観できるか、という問いから出てくる「霊性定義」の問題、を取り扱おうと思う。

※以上のことから明らかなように、この「神学」的よれよれ文章は試論も試論、いや試論の序論程度のものであろう。恐らくその域を出ることは先ずない。

さて、霊性をどのように定義したら二千年の様々なスタイルのキリスト者の内面的生活を、一つの視点から眺めることができるだろうか。

念頭にあるのは4世紀、キリスト教が国教となり「殉教者」という「理想」が非現実的になったときに出てきた「砂漠の荒野への隠遁」による「修道生活」を一方の極に持ち、もう一つの極に宗教改革後の「万人祭司」神学による「世俗内召命」、すなわち「職業従事それ自体が神への奉仕である」という、二千年の歴史の中で二つの対極的なアプローチを眼下に納めるという課題である。

それで試みに、霊性を次のように定義してみることにする。
霊性とは、「生活の深みに達する実践的宗教の訓練(ディシプリン)」のことである。
これを用いて「教会史的発展」を順を追ってまとめると以下のような概略が得られる。
(1)垂直的(神への信仰)なものと、水平的(隣人への奉仕)なものとが「固く噛み合っている(分離していない)」あり方・・・モーセの十戒、トーラー・律法、預言者の社会正義観、山上の垂訓、「律法の要約」、などに現れているものと捉えることができる。
(2)修道的生活、瞑想、神との合一
(3)神秘主義、観想的生活
(4)奉仕と宣教の修道(フランシスコ)
(5)脱修道、宗教改革者ルター
(6)世俗内禁欲、職業の宗教化(カルヴィニズム)
※およそラフスケッチなので、これから論をどうするかまでは考えていない。そのうち展開が見えたら続きを書くことにしよう。

2015年11月21日土曜日

明日の礼拝案内

収穫感謝 主日礼拝

2015年11月22日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 14:8-18

説 教 題 「生長を祝福する神」
説 教 者  小嶋崇 牧師


※礼拝後、持ち寄り昼食会があります。

2015年11月19日木曜日

(4)牧師は神学者か 2

シリーズ2回目となります。
牧師について日頃いろいろ考えていることに触れてくる記事があったので、その記事を紹介しながら何本かまとめていこうと思う。
と(1)で書き始めました。まあ普段から「牧師」とはなんぞや、みたいなことはいろいろ考えてはいるのですが、大体堂々巡りな感じもしないでもない。

さて筆者の堂々巡りの思索は後回しにして主題に入ろう。ヴァンフーザーの『牧師は公衆神学者』テーゼはかの本では十箇条だったらしいが、その後50以上に増殖しているらしい。

その動きを受けてか、現在新約聖書学で博士課程のさなかにいる(このブログでも何度か登場した)アンドリュー・ウィルソンがクリスチャニティー誌上で反論を展開している。
But how feasible is it to be both a scholar and a pastor? 
と、牧師と学問の両立はかなり厳しい、と懐疑的です。


数年前『義認』についてそれぞれ本を著して討論した、ジョン・パイパー牧師と(当時)N.T.ライト主教という当代最も有名な「学者兼牧師」の例を挙げて、片や学術的発表の欠如、片や勝手口の牧会経験の欠如を指摘して、いかに両立が難しいかを主張しています。

不可能というわけではないが、牧師と研究家と二つの召命に応答することは時間的にいって無理ではないかと思っていた、ウィルソン氏。

が、ライト主教のように時間的制限はあってもあれだけ次から次と本を出し、さらに世界中講演旅行するような例があるからには、時間の問題は置いておいて、何が「両立困難」にしているのかを考究して、次の三つの理由にたどりついた。

(1)「専門化」と「一般職化」の間での葛藤
 もちろん研究者が専門化にさらされるわけであり、牧師は一般人のニーズに応えるためあらゆる話題について行かなければならない故狭い領域の専門家にとどまっていられない、というテンションがある。

(2)「実際(問題)」と「理論」の間でのテンション
 2年前、英国新約聖書学会で、ライトとゴーマンそしてバークレーが『パウロ書簡における平和』について大変興味深い討論を行った。しかし中近東での平和樹立という具体的問題が問われたとき、一転静寂が訪れた。とウィルソン氏は述懐する。

(3)(研究機関である)「大学」と「教会」の間でのテンション
 それぞれの環境において、「何をどう発言するか」の意味合いが異なってくる問題。 (片や知的主題・問題についての議論が主体であるのに対して、片や指導や・励ましや・様々な日常的会話のニュアンスを伴い、知的側面はしばしば二義的に過ぎない場合がある、というような問題。)

これらの理由を挙げながら、しかしウィルソン氏は「両立の問題」は解決するのではなく、テンションの中でなんとか「やりくりする(マネージ)」のだという。


この段階ではまだコメントは控えておくが、牧師といっても人それぞれ、得意や不得意など様々ある。

特に「牧師と神学者」のテンションとは繋がらないが、どちらかと言うと「説教が好きで」というタイプの牧師は、説教準備の勉強に結構平気で時間をかけられるのではないか。

でも逆に筆者の周りには「机に向かってお勉強」みたいなのが苦手な方が結構多い感じなのである。とても「神学者」云々のレベルには達していない、とみている。

しかし、そのことについては連載の後の方で。

今日のツイート 2015/9/17

もう2ヶ月前になるわけですが、アップしていなかったのを今頃・・・。

でも依然として「旬」であるとは・・・。悲しいことだが。



怪しい人物、テロリストは誰だ。


2015年11月15日日曜日

今日のツイート 2015/11/15

地はテロの暴力で満ちている(か)・・・

2015年が異常な年だった、ことになるのか分からないが、少なくともヨーロッパにいるとそう実感されるのかな、という想像力は働く。

フランス・パリ市で言えば2度の衝撃的なテロ事件だが、移民がもたらす政治・社会の構造的な問題が深まっている背景があるのだろう。

しかし、テロに代表される暴力の横行は、ボコ・ハラム等のアフリカ、そしてその他中近東、地中海年でも頻発していた。

(世界のどこかで)爆発で何人、何十人死亡・・・はツィッターのTLでは少しいい過ぎかもしれないが、日常的なつぶやきであったように思う。

この流れもあってか、ある方が今年4月に起こったケニアの大学でのテロ事件(147名死亡)をツイートした。(後「過去」のものであるのに気がつき削除した。)

パリのようにヨーロッパの主要都市で起これば耳目を集めるが、世界を見渡せば結構起こっているのに関心が浅いだけ、ということを指摘したかったのであろう。


2015年11月14日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年11月15日(日) 午前10時30分


朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:24-2:5
説 教 題 「霊でともにいる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(22)/パウロ書簡の学び(139)

2015年11月11日水曜日

(4)牧師は神学者か 1

牧師について日頃いろいろ考えていることに触れてくる記事があったので、その記事を紹介しながら何本かまとめていこうと思う。

先ず手っ取り早く見取り図を示すために、ツイートにしたものを掲げる。
もちろん「正・反・合」にまとめたのは筆者であるが、必ずしもこじつけではないだろう。

さて最初に「牧師は『公の神学者』である」ことを提唱している(らしい)、ケヴィン・ヴァンフーザー氏の著書を紹介しておこう(といっても買っても、読んでもいないのだが)。 

The Pastor as Public Theologian: Reclaiming a Lost Vision




(1) Many pastors today see themselves primarily as counselors, leaders, and motivators.
(2) Yet this often comes at the expense of the fundamental reality of the pastorate as a theological office. The most important role is to be a theologian mediating God to the people.
(3) The church needs pastors who can contextualize the Word of God to help their congregations think theologically about all aspects of their lives, such as work, end-of-life decisions, political involvement, and entertainment. 

本の趣旨が三点挙げられているが、時代的変化(恐らく100年とか200年のような長期間の中での変化と思われる)によって、いまや牧師職の主要な役割が、「カウンセリング」「(教会組織の)指導的立場」「(教会プログラムの)遂行役」から、本来の「神学者」の立場を回復すべきである、というもののようだ。

では「牧師の本来の役職は神学者」とはどういうことか。 しかも「公的な神学者」とは・・・。

この解説では「神(そして神の言葉である聖書)と会衆あいだに立って、会衆が自分たちの置かれている文脈で抱える問題・課題を聖書に基づいて神学的に考察するのを指導・補助する役割」とされている。

今後このシリーズを続けて行く中でポロポロと出して行くつもりだが、基本的にうなずける主張である。

しかし「待てよ」という面もある。

いきなり最初から「公的な神学者」というのは期待過剰ではないか、と。

そもそも日本の牧師たちを考えてみても、そもそも本を読んだり、思索したり、という時間がかなり限られているような話をよく聞くからだ。

だから、まず考えることは、少しでも「学究的な姿勢」を作る、ということだ。

まあ、ヴィジョンは最初から高くてもいい、とは言えなくも無いが・・・。

(次回に続く)

2015年11月8日日曜日

(4)英国の今時キリスト教事情

英国での「キリスト教」に関する調査(対象数4000余)の結果が先ごろ報告され、一般メディアでも報道されました。(解説は後ほど)

ところで、その中の一つの質問(の結果)についてみなさんに予想していただきたいのですが、
    英国において、「イエスを実在の人物とは思っていない」人は全体の何パーセントだと思いますか。
     ※要するに「架空」とか「伝説上に過ぎない」とかそんなところ。
        1. 10%
        2. 20%
        3. 30%
        4. 40%

結果をお知らせする前に、少し背景をお話しましょう。

元ダラム大聖堂主教、現セント・アンドリュース大学教授で世界的な新約聖書学者であるN.T.ライトの一般的啓蒙書『クリスチャンであるとは』(2006年、邦訳は2015年)は、英国も含む(かつては)キリスト教文明圏であった西欧諸国が脱・キリスト教化している事実を念頭に書かれています。

英国(そして西欧諸国はもっと進んでいる)の現状を
 ①「ポストモダン」、
 ②「ポストキリスト教」、
 ③「ポスト世俗主義」
というキーワードで捉え、現代西洋人のキリスト教との距離(隔たり)をどのように埋めるか、と言うことを『クリスチャンであるとは』の課題としています。

衰退する英国国教会だけでなく、他のキリスト教諸派(特にペンテコスト派を除く福音派)も英国の脱・キリスト教化の深刻さを問題としているのですが、その深刻度を知りたいということで、
 (1)イエスについての認識(perceptions)
 (2)キリスト者に対する認識
 (3)キリスト者による伝道に対する認識
についてのオンライン世論調査をバーナ・グループ等に依頼して実施しました。


そしてこれがその結果です。



この中にも出てくるように

10人中4人が、「イエスを実在の人物とは思っていない」という結果でした。

一体これが何を意味するかはさておいて、一般メディアにとってもこの結果は少しショックだったようです。

BBCニュースは、Jesus 'not a real person' many believe、と見出しを付けています。

この結果に関する、少し詳細な分析がこちらのブックレットに掲載されています。

やはり年齢が下がるほどイエスの史実性への認識は低くなる傾向にありますが、35歳以下でもアフリカ系やアジア系英国人は、逆に79%が「イエスは実在の人物」という認識を持っている結果が出ています。

と、筆者が報告できるのはここまでですが、今後この調査結果全体への時間をかけた分析が行われるでしょうから、その報告を待ちたいと思います。


筆者の「やぶにらみ」として一言添えれば、やはり「イエスを実在の人物とは思っていない」と思っている人が4割を占めるという結果は、「どのような伝道アプローチを取ればいいのか」ということに自ずと方向性を与えるように思います。

2015年11月7日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年11月8日(日) 午前10時30分


朗読箇所 Ⅱヨハネの手紙1-13

説 教 題 「歴史のイエスと信仰のキリスト」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《現代キリスト教入門》10

 正典福音書はすべて、イエスをその世界から見ることを主張している。・・・イエスと福音書の歴史的な学びが必要な理由のひとつは、この世界だけではなく教会自体も、福音書が本当は何を語っているのかを繰り返し思い起こすことが必要だからである。・・・

 正典福音書は、ずいぶん前にさかのぼれる口伝と記述の両方の資料をまとめたり、それを元にしたりして書かれている。その資料は初期のクリスチャンの時期のもので、イエスの弟子たちがまだ生きて活動していたときであるだけではなく、他のかなり多くの目撃者、反対者、行政官たちが回りにいて、台頭しつつある新しい動きに注目し、広がりつつあるうわさを耳にしたり、それに反対する話が流布したりした当時のものである。(141ページ) 
 N.T.ライト『クリスチャンであるとは』(上沼昌雄訳、あめんどう、2015年)

2015年11月3日火曜日

(5)追悼: シェルドン・S・ウォリン (1922-2015)

※表記を「ウォーリン」としていたのを「ウォリン」と直しました。(2016年1月29日)

まだネットでは(日本語での)追悼記事も多少詳しい訃報も見当たらないので・・・。

まあ追悼と言っても一種のミーハー的レベルでのことですが・・・。

名誉教授として引退したプリンストン大学に訃報・追悼記事がありますので、一部要約して紹介しておきます。

Political theorist Sheldon Wolin dies at 93
 

民主主義が権力と国家にどう絡むかについて思索した政治理論家シェルドン・ウォリンがオレゴン州セーラムで亡くなった。享年93歳。
 
プリンストン大学で政治学の名誉教授だったウォリンは、1960年に出された『政治とヴィジョン』 で政治理論研究の大切さを再認識させ、その後の著作でより広範な人々に政治理論への関心を広げた。1972年からプリンストン大学となり、1987年から名誉教授となった。

(ウォリンのもとで薫陶を受けたコーネル・ウェストのことば)
"Sheldon Wolin was the greatest political theorist of democracy of our time. His scholarship was impeccable, and his golden heart was undeniable. I was blessed to have him as my thesis adviser, my mentor, my colleague and my democratic comrade in arms."

1922年シカゴに生まれたウォリンはオバーリン大学で学士を、ハーヴァード大学で博士号を受けた。プリンストン大学以外でも、オバーリン大、カリフォルニア大バークレー校、同サンタクルツ校、同ロスアンゼルス校、コーネル大、及びオックスフォード大でも教える。

ウォリンの研究関心の対象は主に合衆国の民主主義、特に国家の政治機構や制度とは区別したもの。

(中略)

1985年に『政治とヴィジョン』で「ベンジャミン・E・リピンコットアメリカ政治学会協会賞」受賞。


政治とヴィジョン』は、デイナ・ヴィラ、ノートルダム大政治学教授によれば、第二次大戦後の「イデオロギーの終焉」が学界の基準になり、政治理論がほぼ死滅したと広く思われていたときに出版された。
ウォリンはこの本で当時の常識を打ち破り、西洋政治思想正典と看做されるものの幅を再解釈して広げ、歴史に対し鋭い関心を有したアイゼア・バーリンやハンナ・アーレントなどと並び称せられるようになった。

(以下略)


ところで、この記事のために少し検索していたら、既に「英語圏神学者」で最初に紹介したスタンレー・ハウアーワス
 『大学のあり方──諸学の知と神の知』アマゾン日本)の第10章で
 「民主主義の時代──ヨーダーとウォリンから学んだ教え」


となっているそうである。(紹介はこちら

なるほど細かい年代までは調べていないが、ハウアーワスがプリンストン時代ラムゼー教授のもとで勉学していたときにウォリン教授からも学んでいたのかもしれない。(一つの発見。得した。)


※ウォリンについては「米国留学時代」の思い出として個人的な観察・印象をこことそして加藤周一と合わせてここにも少し書いておきました。参考まで。

[追記]
※その後(たまたま今日、2016年1月29日)、朝日新聞にICUの千葉眞氏の追悼記事が掲載されているのを発見した。

2015年11月2日月曜日

今日のツイート 2015/11/02

トラウマとは、
【意味】 トラウマとは、個人にとって心理的に大きな打撃を与え、その影響が長く残るような体験。精神的外傷。外傷体験。
【トラウマの語源・由来】 トラウマは、単に「傷」を意味するギリシャ語であった。 1917年、心理学者フロイトが、物理的な外傷が後遺症となると同様に、過去の強い心理的な傷がその後も精神的障害をもたらすことを「精神分析入門」において発表した。 その際、精神的外傷を意味する用語として「trauma(トラウマ)」が用いられたため、現在のような意味として使われるようになった。 (語源由来辞典
で、いま、ツイッターの「トレンド」に《子ども時代のトラウマ》があるのでつらつら見ていたところ。

そしたら、これが見つかったので選びました。

子どもにとっての「地球終わり」イメージとはそんな感じか。ふむふむ。


ちなみにTRAUMAについての大きなサイト。 

2015年10月31日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年11月1日(日) 午前10時30分

朗読箇所 Ⅰコリント 11:17-34
説 教 題 「神の教会と貧しい人々」
説 教 者 小嶋崇 牧師

あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。(11章22節、新共同訳)
※聖餐式があります。
 

《メモ》
 (1)問題の指摘・・・17-22節
 (2)主の晩餐の伝承・・・23-26節
 (3)聖餐の意義を吟味して集まる・・・27-34節

今日のツイート 2015/10/31

今日はハローウィーンなのだ。

でも宗教改革記念日なのだ。

近年急速にこのお祭りが大都市・東京に浸透している・・・風に見える。

一体、何なのだこれは。


もう一つ「何なのだこれは。」

何かこれじゃ新聞のオピニオン欄にツイッター(SNS)を継ぎ足したみたいだな。

何かやり方間違ってないかな。

ある程度意図は分かるが。


一種の迎合ではないかな。

最近、外国の影響なんすかね、

2015年10月25日日曜日

(1)教役者リトリートの帰路

3年に1回の聖泉連合の教役者リトリート、前回は那須高原だったが、今回は(北)軽井沢となった。

リトリートの報告は既に「聖泉490号」と連合サイトで終えているので、ここでは筆者の帰路、「小海線沿線、車窓風景」の旅の報告をば。


あー(しかし)もう一ヶ月以上も経ってしまった。思いだせるかなー・・・。


リトリートは朝食後、現地解散し、筆者は愛知県へ帰るA牧師夫婦の車に便乗させてもらい小諸まで。

まずは腹ごしらえ。懐古園の前にある草笛へ。


もりそば650円を100円プラスした。
かるく二人前になった。
これだけ食べれば文句ない。

次は懐古園。




中に入らず、門に使用されている木材をただしげしげし見つめる。

線路を渡り小諸市内をそぞろ歩き。





すると何か見晴らしのいいところに来た。




どうも地域の伝統保存会みたいな場所らしく、その日は何か催しがあり、誘われたのだが時間もないのでお暇。






両側を山に挟まれた小諸の町は気分が爽快。いい街だ。

さていよいよ今回のメイン、小海線の電車に乗る。








むかしむかし、米国留学時代の友人(日本人)と山歩きを始めたとき、日光の次に目指したのが八ヶ岳。


新宿から夜行で小淵沢まで、そして小海線に乗り換えて清里。
美し森を通って八ヶ岳へ登るはずだったけど・・・。
雨で山道に生い茂る笹から水分たっぷりいただき、どんどん辛くなっていきました。
標高千六だったか八百メートル付近でついに断念。同じ道を戻ってきてしまいました。


今回はその小海線を逆方向からくだる旅。

八ヶ岳登山を過去し懐かしみながら、車窓の風景を楽しみました。(写真には殆ど山はありませんが。)




2015年10月24日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年10月25日(日) 午前10時30分

 
朗読箇所 マルコの福音書 10:35-45
説 教 題 「罪を赦す権威」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会史遡行(9)
 ローマ帝国とキリスト教・・・コンスタンチヌス大帝(272-337)

2015年10月19日月曜日

(5)無誤論回想二題

聖書無誤論については当ブログでも様々な形で取り上げたが、この記事の導入として
福音主義とは何か(2013年6月)
と題して、福音主義神学会(東部部会)の研究会に出席した感想をあらわしたものを参考にしていただくとよいかもしれない。

行間に「イライラ感」が垣間見られるように、神学会でありながら、何か論争に発展しそうなことを避け、安全運転なトピックを選び続けるのに業を煮やしている観がある。

(1)日本の福音派の中での「聖書無誤論」論争

 さて、今年になって「聖書無誤論」に関して、日本の福音派の中で起こった論争の生き証人的な方々の表白に接する機会があった。

 とても印象深い出来事であった。既にある程度別の記事で文章化したので、そちらを参照していただければと思う。リンク

(2)北米の福音派神学者たちの間での「聖書無誤論」

 ここに紹介するのは、(執筆当時)フラー神学校学長デーヴィッド・ハバードが自身が関わった「福音主義聖書学者・神学者たちの回顧録」である。

Evangelicals and Biblical Scholarship, 1945-1992: An Anecdotal Commentary(リンク
書かれたのは1993年と今から18年前になるが、かっちり整理された歴史と違い、ハバード自身の観察や感慨から、当時の論争の雰囲気がうかがえ興味深い。

 少し抜粋してコメントしよう。


The second factor was the beginning of conversations with members of Fuller's board about the Fuller presidency. These conversations were paralleled by discussions within the Fuller community about the relevancy of "inerrancy" as the means of expressing biblical authority.

旧約聖書学者としてキャリアを積み上げ始めていたハバードが、フラーの学長候補になったことによって、一緒に仕事をしていた幾分リベラル寄りの研究者が論議された経緯を言っている箇所。(この同僚はハバードを配慮して袂を分かったらしい。)

While the work proceeded on the revision of Fuller's doctrinal statement, the issue of the importance and meaning of inerrancy continued to bubble on our campus and across the land. 

フラー学長時代(1963-1968)に「無誤論」の問題が沸騰してきた経緯を言っている箇所。1966年にゴードン(ボストン)のキャンパスでシンポジウムが開催されたとのこと。(おそらく全米での神学論争の口火を切るような会議であったのだろうか。

A memorable debate between Jim Packer and Frank Andersen encapsulated this division. I left Wenham heartened by the common ground among most of the biblical scholars and by my surmise that a number of the theologians were attracted to the term inerrancy more by the desire not to cause division or raise suspicion than by the conviction that it was an essential biblical label.

無誤論に関して、聖書学者と神学者とはある種捉え方の違いがあることをハバードは承知していたが、1966年の段階では見解の相違や不一致に発展するような悲観的な展望は持っていなかったと吐露している箇所。

...Volume 2 of New Testament Foundations in the mid-seventies. The discussion centered on the question of Pauline or Paulinist authorship of Ephesians and the Pastorals. Did we at Fuller want to be first on the block to break with the conservative-evangelical consensus on this? 

 この本を出版するに際し、フラー教師のラルフ・マーティンと「パウロ偽名書簡」問題をめぐって苦悩したらしいことを書いている箇所。

Our main thesis was that inerrancy and evangelicalism were not synonymous. Our chief plea was that evangelicals should unite around our commitment to Scripture and our orthodox heritage and not go to war over any particular word used among us to define Scripture's inspiration.

「無誤(インエランシー)」という語にこだわって亀裂を深めるようなことがないように、とのハバードの願いがあったことを書いている箇所。

Happily, it has led to discussions on the more central question, not how do we describe the Bible, but how do we interpret it. 

「聖書の権威・霊感」の中心的な問題は、聖書がどのような本であるかを定義することではなく、どのように解釈するかにある、という見方であったことを書いている箇所。


北米での聖書無誤論争に関心がある人だけでなく、北米における福音主義興隆期の聖書学がどうであったかを知るにもよい「回顧録」かと思う。

知っている人は知っているあの人やこの人の名前がザクザク出てきます。

2015年10月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年10月18日(日) 午前10時30分


朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:24-29
説 教 題 「内に働く力」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(21)/パウロ書簡の学び(138)

2015年10月13日火曜日

N.T.ライトFacebook読書会について(2015年版)

2012年3月に始まった、フェイスブック上のN.T.ライト読書会。
 


今年6月、『クリスチャンであるとは』出版以降、入会希望者が増えています。


それで以前アップしたフェイスブック読書会の説明を更新する必要が出てきました。

新たに入会希望の方は、N.T.ライトFB読書会 ver.3.1
をお読みの上「入会申請」にお進みください。 

フェイスブックに登録をする必要があります。)

2015年10月11日日曜日

(3)世俗化とポスト世俗(化)

主に「世俗化」のトピックについては、宗教と社会ブログで書いているので、そちらに掲載した簡単な記事2本のリンクをここに貼っておこう。

1. ポスト世俗と超越

2. モルモンと改宗

 そもそも「世俗化」といっても、ある程度社会学(その中でも宗教社会学)を読んでいる人でないとぼんやりとした感触しか抱けないかもしれない。

 「近代化」とか、「ポストモダン」とか難しくてカッコイイ概念ともいえる。

 これらの用語を使いまわすことで、いかにも現代・社会の成り立ちが分かっているような感じを出すことができる。

 大雑把に言うと、(主に)西洋社会で数世紀に渡ってマクロレベルで変化してきた社会のありようを提示する概念、ということができるだろう。

 難しいのだが、かっこよく見せるためではなく、正確には掴みづらいがしかし確かに起こった(起こりつつある)変化を討論するために必要なキーワードではないかと思う。


 ちょうどN.T.ライトの『クリスチャンであるとは』が読まれ始めているので、その関連で指摘すれば、第2章『隠れた泉を慕って』 が「霊性の渇き」について語っている。

 冒頭の「合理的に整備された上水道網」は、啓蒙主義以降の「宗教と社会」の関係をたとえたもので、「世俗化」の産物の一つである「政教分離」政策と、その管理システムではコントロールしきれない「霊性/スビリチュアリティ」のほとばしりの様相を描こうとしている。

 この絵図が描くのが「世俗化のシナリオ(合理化によって宗教的信念は私的領域に整理され、合理的世界像の拡大によって消滅する)」の支配であり、そのシナリオに抗う「コントロールしきれない霊性の渇きと発露」、ということになるだろう。

 まあ、ちょっと書くとこんな風に難しそうになってしまう。

 まっ、ちょっとでも関心を持たれましたら、どうぞリンクをたどって読んで見てください。

2015年10月10日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年10月11日(日) 午前10時30分

朗読箇所 Ⅱコリント5:11-21

説 教 題 「キリスト教とは何か」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《現代キリスト教入門》9

 キリスト教は、実際に起こったことに関するものである。それは、ナザレのイエスに起こったことである。またナザレのイエスを通して起こったことである。(131ページ)


 キリスト教は、いまも生きている神が、ご自身の約束の成就として、またイスラエルの物語のクライマックスとして――見つけだし、救いだし、新しいいのちを与える――というすべてが、イエスにあって成し遂げられたと信じることにほかならない。神がそれをなされた。イエスと共に、救出のわざをただ一度で完全に実現された。(133ページ)
   N.T.ライト『クリスチャンであるとは』(上沼昌雄訳、あめんどう、2015年)


※礼拝後、昼食会があります。

今日のツイート 2015/10/10

「今日のツイート」といってももう数日前ですが・・・。

日系の倉光さんはキリスト者ですが、日本に滞在中のこと、明治神宮を訪れたそうです。

そこでこの光景に出くわしたそうです。

その後のツイートによると、ポーランド系のカトリック信者の一団が明治神宮の境内でお祈りを始めたそうな。

神宮の警護か何かの係りの人がやめるように指導したが従わなかったそうです。


その後どうなったのかは知りませんが、このようなある種「迷惑行為」が宗教に絡んで起こることは今後も想定内としておいた方がいいでしょうね。

※もちろんこのカトリックのグループの「お祈り」をオーケーと言っているわけではありません。

2015年10月6日火曜日

(5)英語圏ブログ紹介⑯

第4回N.T.ライト・セミナーが終わり一息ついているところです。

ブログの更新が一月ほど滞っています。

再開というほどのことではありませんが、手始めに『英語圏ブログ』シリーズの更新から。


THE JESUS BLOG、という新約聖書学専門のブログがあります。

寄稿者というか「複数で運営するブログ」の中でも、(新約聖書学で)現在最も充実しているブログではないかと思います。

クリス・キースとアンソニー・ルダンという若手に英語圏ブログ⑫で紹介した、少し先輩のジェームズ・クロスリーも加わり、最新の英語圏研究情報や動向を次々記事にしています。

 ※アンソニー・ルダンは、筆者のアズベリー神学校1年生のときのルームメイトが教えるUnited Theological Seminaryの新約学教授です。

最近(ここ数ヶ月)目に付いた記事の中では、

(1)Richard Bauckham Responds
(2)Hidden from the world in German Higher Education
が目に付きます。



(1)Richard Bauckham Responds

 最初にアンソニー・ルダンが書いた記事が、Are Firsthand Accounts More Reliable?

 そこでアンソニーは、たとえ「目撃者の証言」であっても記憶というものがときに信頼性がないのだから、いつも確かとはいえない。という見方を示します。

 その記事のコメント欄で誰かが、ボーカムの本、『イエスとその目撃者たち:目撃証言としての福音』を引き合いに出したわけです。

 今では重鎮の域に入ったかと思われるリチャード・ボーカムが、「目撃者の記憶の信憑性」を問われたことで、ディスカッションに参入するという面白い展開となったわけです。

 それを後日改めてボーカムの反論コメントを軸に構成しなおして記事にした、というわけです。

 ボーカムは、このブログ記事でも紹介したように、ときどきブログ上の討論に参加することがあります。

 といっても、ハータド(表記はフルタドとしていますが、発音は殆どハータド)のブログにしても、このジーザス・ブログにしても、かなり専門的なものなので、慎重なボーカム氏も登場したわけでしょう。

 こういう学術的な応酬がときどき見られるのが英語圏ブログの面白いところだと思います。

でも、まとめに使われたボーカムのコメントの最後の部分には目を留めておく必要があると思います。
Thank you, Chris, for your detailed attention to my arguments. I'm glad that we are in agreement about a lot of things. As you know, I esteem your work. We are both (and Anthony) facing up squarely to the key question: Where do we go now that form criticism has collapsed?
「様式批評学は倒壊した」という前提をボーカムも、クリスやアンソニーも共有した上で、『記憶』を梃子にした再構成アプローチに前進する、ということなのでしょうね。

 つまり福音書研究、史的イエス研究の方法論的方向の一つとして。


(2)Hidden from the world in German Higher Education

 こちらはジーザス・ブログについ最近加わった、クリスティン・ジャコビ (Christine Jacobi)
の初投稿記事です。

 ドイツ語圏で訓練されたクリスティンのスタンスはブルトマン再興を予感させるものらしいことを言っています。
Being a newcomer and researching, hidden from the world, in German higher education, I was able to meditate on and investigate these and other exegetical, theological and philosophical questions and surprisingly, many of my insights turned out to be very close to the theses of this famous man shown above. So I find myself asking: Are we living in a Bultmann-revival-era?
彼女がこれからどんな記事を発表するのか、今後注目したいと思います。

2015年10月3日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年10月4日(日) 午前10時30分


朗読箇所 Ⅰコリント 11:17-34
説 教 題 「みからだをわきまえる」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。



《メモ》 

 (1)問題の指摘・・・17-22節

 (2)主の晩餐の伝承・・・23-26節

 (3)聖餐の意義を吟味して集まる・・・27-34節

2015年9月26日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年9月27日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ピリピ 3:12-16
説 教 題 「到達したところに基づいて進む」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会創立50周年を記念して

★50周年記念誌


★アルルアンパン 

2015年9月19日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年9月20日(日) 午前10時30分


朗読箇所 エペソ 2:1-10
説 教 題 「神が準備してくださった善い業」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会史遡行(8)
 東方正教会・・・『東西大分裂』(1054)

2015年9月12日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2015年9月13日(日) 午前10時30分

朗読箇所 Ⅰコリント15:50-58

説 教 題 「捕囚と回復」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《現代キリスト教入門》8、新しい創造

2015年9月6日日曜日

(3)想像の共同体

最近「ポリタス」というオンライン誌(というのかな) が始まった。

それから暫く経って今日になって初めて読んでみた。

高橋源一郎の『死者と生きる未来』という短いエッセイ風の文章だ。

自伝的な内容のもののようだ。

それでかどうか、内容的に刺激的なものがあるので前置きしている。


高橋は数年くらい前からか、朝日の論壇時評(かなにか)を書き始めた頃から少し気になっていた作家だ。

彼が書くときはなるべく読むようにしていた。

高橋は大分荒んだ人生を歩いていたようだ。

自分の父親の死も、母親の死も、特に思うところはなく、そしてそれぞれの死に引きずられることなく、生きていたようだ。

しかし、あるとき、自分の子供に歯を磨かせていたとき、前の鏡に映った父親の顔を通して、突如「過去との邂逅」を果たす。
8年前のことだった。わたしはバスルームで、3歳の長男に歯を磨かせていた。
そのときだった。わたしは異変が起こったことに気づいた。
バスルームの鏡に父が映り、わたしを凝視していたのである。
わたしは、一瞬、恐怖にかられ、叫び出しそうになった。無視し、忘れようとしたわたしを恨んで、父の亡霊が出現した と思ったのだ。だが、すぐにわたしは自分の間違いに気づいた。そこに映っていたのは、父の亡霊などでなくわたしだった。いつの間にか、わたしの容貌は父と 酷似していた。そのことに、うかつにも、そのときまで、わたしは気づかなかったのだ。
この体験をきっかけとして、高橋は「過去」の見方が変わった。
わたしは、ずっと、過去というものを、「死んだ」もの、「終わった」ものだ、と思っていた。だから、その「過去」というやつのことを思い出すためには、わざわざ、振り返り、遠い道をたどって、そこまで歩いていかなければならない、やっかいなものだった。
そうではなかった。「過去」は死んではいなかったのである。
このときのふしぎな体験が高橋をして「過去」とは自分の関心のあるなしだけではなくならない、ということに気づかせたのだ。

むしろ「過去」は現在に様々な形で交渉してくる。

文筆業を生業とする高橋にとっては「本」の存在も、過去に書かれたものでありながら、いま語りかけてくる声となるものだ。
書斎のわたしの机から見えるところに本棚が幾つもある。その一つには古い文庫ばかりが並んでいて、それはすべて、遠い過去に死んだ人たちによって書かれたものだ。だが、頁をめくると、そこには、いま生きている、どんな人間が話す、書くことばより、明瞭で、寛容で、静謐なものに満ちていることを、わたしはよく知っている。
なにかを知りたいとき、誰かの声を、心の底から聞きたいと思ったとき、わたしは、生きている人間よりも、その本の中で、いまも静かに語りかけている彼らの声を聞きたいと思う。だとするなら、わたしにとって、ほんとうに「生きている」のは、どちらの声なのだろうか。

この高橋の文章を読んでいて、「過去と記憶」について昔このブログで書いた文章を思い出した。

死別と「悲哀」

「意義深い他者(significant others)」の記憶は単純なものではないと思う。

もちろん忘れかけたことを必死に思い出そうとするときもあるが、むしろ人生のときどきの局面で、意味ある記憶が立ち上がるのではないかと思う。

「意義深い他者(significant others)」は死んだ後はどんどん過去に押し流されてなくなってしまうだけでなく、別の次元で「ストック」され、その記憶が呼び起こされるようなモメントやイベントを待っているのだと思う。

それは「記念会」のように計画的なものもあれば、突如として立ち上がるものもあると思う。


私たちは生きている人間と共生しているだけでなく、多くの「意義深い他者」(a significant numbers of significant others)である死者とも生きているのだと思う。

もちろんそのことはどんな宗教観、死生観を持つかにも関わっていることと思うが。


多少用語としての趣は異なるが、チャールズ・テイラーは近代制度を『想像の社会(the Social Imaginaries)』と呼んだ。

しかし思うのだが、テイラーのこのネーミングは、近代のあおりを受けて解体されつつあるかに見える「家族共同体」を逆に『想像の共同体』として再構築するヒントを与えてくれるかもしれない。


キリスト教的に言えば(カトリック教会の教義に従えば)、このような死者も含めた『想像の共同体』は
《天上の凱旋した聖徒たちの教会》
《煉獄にあって待ち望んでいる教会》
《地上にあって戦っている教会》
(the Church Triumphant, the Church Expectant, the Church Militant)
という(中世までの?)教会観を意識するものになるのかもしれないが。

2015年9月5日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年9月6日(日) 午前10時30分


朗読箇所 Ⅰコリント 11:17-34
説 教 題 「ほめるわけにはいきません」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。


《メモ》
『主の晩餐』に関する使徒パウロの指示(1)

今日のツイート 2015/9/5

岸に打ち上げられたシリア人の5歳の男の子の写真が世界中を駆け巡り、中東からヨーロッパを目指すナンミンに注目が集まっている。

世界はこのことをなぜ今まで放置していたのか、と非難の声が高まっている。

関連ツイートを「お気に入り」から選び出して並べてみる。


2015年9月2日水曜日

(5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教(続1)

ドナルド・トランプと福音派キリスト教を最初に書いてからほぼ1週間が経ちました。

少しずつ日本でもトランプの名前が取りざたされるようになって来ました。

筆者がフォローしている東大の国際政治学者、藤原帰一教授もツイッターで少し呟いています。

依然としてトランプ氏が真面目に取り上げるべき候補かどうか、世間の疑問視は続いています。

今回は福音派の前にカトリックの反応を一つ取り上げてみたいと思います。

フェイスブック上で、日本の知人の方が、日本のカトリック聖職者がトランプ氏に関して心配していることをコメントしてくれました。

トランプ氏が強硬発言を続けている「移民排斥」、特にメキシコ系も含めヒスパニック系住民の大半はカトリックですから、心配も当然と思われます。

Commonweal (コモンウィール)と言うカトリックの雑誌ではトランプ氏の選挙は長続きしないだろうと見ています。

そして「金持ち」候補として「生粋の物質主義的・功利主義的福音の伝道者」と位置づけています。
Donald Trump preaches an unadulterated version of this materialistic and utilitarian gospel.

さて、福音派系と思われるウェブサイトThinkChristianは、(福音派キリスト者の反省を込めて)「私たちはトランプを偶像化している」という記事を書いています。
As a result, we begin hoping in a presidential candidate’s ability to save the country, and we hijack our basic motivation to worship God and use it to worship a political office. I believe this is precisely what is happening with the support of Donald Trump.
殆どの方が指摘するのですが、共和党候補者の中でトランプ以外に何人も福音派の理念により近い人がいるのに、なぜわざわざトランプのような福音派の価値観から遠い人間を支持するのか、と言うことも議論になっています。

この「シンク・クリスチャン」の記事は少し単純化していますが、「落ち目のアメリカ」を回復してくれる人物として、大金持ちの成功者トランプ氏崇拝に傾いているかに見えるキリスト者に警告しています。


こちらのスーザン・スミスさん(多分リベラル派キリスト者)のハッフィントン・ポスト記事(Authentic Christianity is a Myth)はトランプ氏を支持する福音派に対して厳しいことばをぶつけています。
The lack of authentic Christianity hit home when I heard Donald Trump say he had never asked God for forgiveness. His words carried their own weight, but the larger problem was that the Evangelical community, which professes to love God like no other ...love Jesus like no other ...was silent.
The Evangelical community lost its credibility for me at that point. While I have not agreed with many of that community's stances on issues such as right to life or gay marriage, what I always believed was that they were grounded in the words of Jesus the Christ.
(トランプ氏が「私は神に赦しを請うたことはない」と言ったことに対して福音派は口をつぐんでいる。それを見て私は彼らに対する信頼を失った。)
と、今回はこんなところにしておきます。

どうやらトランプ氏の選挙戦は予想より長続きしそうなので、このシリーズはまだ続けられるかもしれません。

で、急いで結論を出す必要も無さそうです。まだ継続することとします。

2015年8月30日日曜日

今日のツイート 2015/8/30

なんか圧倒されるというか・・・。

あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。

疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
主に望みをおく人は新たな力を得
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。
(イザヤ書40章28-31節、新共同訳)

2015年8月29日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年8月30日(日) 午前10時30分



 朗読箇所 マルコ福音書 12:13-17
説 教 題 「神のものは神に返しなさい」
説 教 者 小嶋崇 牧師
  
 平和を作る者(2) 

神の民の召命と歩み・・・日本で戦後70年をどう生きるか

2015年8月27日木曜日

今日のツイート 2015/8/27

なんともはや・・・

この「呪殺」とは何なのか・・・

オウム真理教ノート 2015/5/3」で鎌田東二『「呪い」を解く』を紹介したが、その本の中に「呪殺」の考察があった。

印象では《宗教的行為》として見過ごしてはならないものを含んでいる、というニュアンスだったと思う。

やはり「宗教とテロリズム」の範疇に入る事柄であろう・・・。

2015年8月25日火曜日

(5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教

ドナルド・トランプの名前はまだまだ日本では知られていないのではないかと思う。

現在、米国大統領選の共和党候補指名争いを先行しているようだ。


つい最近、彼が放った日米同盟についての発言が波紋を投げかけている。
「(現在の日米同盟の下では)米国は、もしも日本が攻撃を受けた場合、日本を防衛することを義務づけられています。しかし日米安保条約の規定では、日本は米国を助ける必要はないのです。こんな状態を、みなさんは良い取り決めだと思いますか?」
日本でもこの発言は大々的にではないが多くのメディアが報道したようだ。


しかしそのニュアンスや背景を斟酌する記事はそれほど出ていないようだ。

上にも一部引用したが、JBPressで古森義久氏が『暴言か正論か、トランプ氏が日米同盟の片務性を非難』という記事を書いている。(2015年8月25日)

古森氏はこのような発言がトランプ氏だけにみられるものではなく、民主党まで含めた多くの政治家が抱いている不満なのだ、と分析している。


さて、トランプ氏を「大衆扇動的」と古森氏が評するように、彼の政治家としての資質を語るとき、その富と合わせて「煽動家」の面はよく指摘されるようだ。

目下支持率を上げるためにかどうか、(メキシコからの)移民政策での強硬な発言が目立つが「彼が大統領として“本当に”何をやりたいのか」はまだよく分からない、という段階だろう。


さてここからが本題だが、一体米国のキリスト者、特に筆者と関係が深い福音派キリスト者は、トランプ氏をどう見ているのだろうか。

まだリサーチを始めたばかりで幾つか目立つものをネットから拾ってみた。

これは保守系のリバティー大学(キリスト教右派の代表の一人であったジェリー・フォルウェルが創設した)での始業式でのスピーチ。

このスピーチから彼の人となりが結構分かる感じだ。

(彼は長老派の教会で堅信礼を受けたキリスト者であることを伝えている。教会学校にもよく通った、と述懐している。)



(1)ハードワーカー

 You have to love what you do、を何度も繰り返していたが、とにかく仕事が好きなのだろう。彼の場合は不動産業だが、父親と同業であったがかなり叩き上げ的スピリットの持ち主のようだ。

(2)競争心旺盛

 Never give up. というのも座右の銘のようだ。90年代自分の周りの味方も敵もどんどん破産していた時に、とにかくあきらめずに生き延びた、というエピソードを紹介している。

(3)誇り

 現在のアメリカの落ちぶれた姿に対する怒りと叱責が鋭い。オバマ大統領がオリンピックをシカゴに誘致できなかったことや、ニュー・ヨークに世界の首脳が大挙押しかけているのに、誰とも会談しなかったことを「恥ずかしく」捉えている。

(4)ビジネスマンのマインド

 リビヤやエジプトからの援助要請に対し、それに見合う金銭的見返りを得なかったことに対する批判が厳しい。この辺の「米国の利益」に対する率直さはなかなか手ごわい。


といったところだろうか。

(またリサーチが進んだら「続編」をやりたいと思う。)

2015年8月24日月曜日

今日のツイート 2015/8/24

最近ツイートに画像や動画を添付したものが増えているが、これもそう。

この意味がよく分からないが(基本ナンセンスなのかもしれない)、江戸の文化が現代のハイテクに勝る・・・といったニュアンスなのか知らん。

と、元を見たら
葛飾北斎「富嶽三十六景 礫川雪ノ旦」 「ミグ29かしら。」おてんば姫は今日も戦闘機を墜落させます。雪の日の朝でした。
となっていました。

2015年8月22日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年8月23日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ガラテヤ 3:1-5
説 教 題 「御霊と肉」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会史遡行(7)
 宗教改革・・・マルチン・ルター(1483-1546)

今日のツイート 2015/8/22

あれま!

米国遊学を終えて帰国したのが1989年2月。

それからあれよあれよという間にこんなになっちゃったんだ。

学んだ学校の一つから送られてくる同窓生ニュースに掲載されている写真を見ながら「毎回、あちゃー」とは思っていたが・・・。

2015年8月21日金曜日

(5)雑想「いくさ」について思うこと

安保法制論議に直接関わらないが、その傍系の論議の一つについて。

いくつかあるが、先ずすぐ思いつくことから始める。

近代戦争における「いくさ」の非人間化

(1)破壊兵器の技術的進歩は何を目的とするのか

 確か第一次大戦からであったろうか、戦闘機が導入されたのは。

 大量破壊兵器と位置づけられるのかどうか知らないが、第二次大戦での重爆撃機B-29による無差別爆撃を考えると、短期間で、なるべく味方の損害を増やさないうちに、一方的優位を勝ち取って、相手を降伏に追い込むための「武器」という考え方が「いくさ」のやり方として最重要な問題になって来ているのではないか。

 もちろん、本格的な戦争に入る前の「小競り合い」というのはあり、その場合は相互に「計算されたダメージ」の応酬をしている間に、何とか政治的決着を図る・・・というのが「いくさ」のやり方の一つとしてある。

 だから様々なレベルの武器が必要とされるのだろう。

 しかし流れとしては「戦闘員と非戦闘員の区別」がつかない争乱・戦争の方向が強まっているのではないか。

(2)ハイテク武器の意味すること

 大量破壊、無差別攻撃、の次に思うのは、レーダーやハイテク機器の発達で、戦闘員が敵を生身の人間として見たり、相対することなく、殺戮できるようになってきたことである。

 ここ数年ドローンによる偵察や攻撃がかなり使われるようになってきた。

 特に民主主義国が戦争に関わる場合、人的な損害を最小に抑えるために、このような「非人武器」利用の増加は避けられないだろう。

 GPSの利用で敵ターゲットをピンポイントで攻撃でき、市民の巻き添えを避けることができる武器、と考えられているが、やはり戦闘員の「非身体化」という点で、大きな疑問が残る。

 戦は望んで行うものではなく、回避できなくて取る「悪」という位置づけであっても、相互に身体的ダメージを確認し合いながら停戦を探っていた時代に比較し、このままハイテク機器が進歩し、それが大々的に「いくさ」で使われるようになると、「戦争悪」の深い反省がどれだけできるだろうか。


第二次大戦を「終結させた」と理解されている原子爆弾使用を人類的な悲劇として反省するまでにかかった(まだ進行中だが)時間はどれだけか・・・。

民主主義国家の戦争は、職業エリート軍人と一定期間軍人(戦争後に退役)でなされるが、そうであっても実際の戦闘によって(理由は様々あろうが)精神的トラウマを受け、かなりの数の自殺者を出している。

民主主義国家は、基本的に「普遍的人類意識」を持つ傾向にあり、たとえ国益だとしても他国の軍人・市民を殺戮するための道徳的ハードルは高い。(分かっていても、教育されても、人を殺すことは簡単ではない)だから基本厭戦である。


ということで、味方の損害を最小限に抑えるという理由で大量殺戮兵器が進歩し、戦闘員の「非身体化」を助けるために武器のハイテク化が進んでいくと、戦争を遂行するための道徳的矛盾は激化・複雑化し、それを解決するための精神的スタミナがギリギリまで試され、磨耗・疲弊させられる傾向にある、といえないだろうか。


と、そんなことを考えている。


2015年8月20日木曜日

(4)タカ牧師のセブンー5

残暑お見舞い申し上げます。


さて今回の「セブン」は『アメリカと宗教』といった感じのものを多く集めてみました。

1. Americans and God(ニュー・ヨーク・タイムズ、2011年12月11日)
  『アメリカ人と神』

 キリスト教国アメリカは、キリスト教の退潮著しい西洋において「例外」といわれてきましたが、ここ数年数的な減少が露になり、ついにアメリカも脱キリスト教か、と取りざたされるようになりました。
 この記事ではそのような表面的「アメリカ人のキリスト教退潮現象」は一時的なもので、余りにも「政治と宗教が絡んでしまった」ことに対する嫌悪感情から来ているのではないか、と指摘しています。

2. Evangelicals' Claims of Conservative Supremacy Are Overstated(ハッフィントンポスト、2015年5月14日)
  『保守派隆盛との福音派の主張は言い過ぎ』

 つい最近まで、北米キリスト教諸教派の動向は、主流派の衰退と福音派の伸張の対比で理解されてきましたが、最近のピュー宗教調査で、その構図は崩れた、と指摘します。今や主流派も福音派も殆ど関係なく退潮傾向にあると。

3. Book Review: American Apocalypse: A History of Modern Evangelicalism by Matthew Avery Sutton
  『書評、マシュー・エイブリー・サットン「アメリカ黙示録ー近代福音主義の歴史」』

 詳細についてはコメントできませんが、アメリカ宗教(キリスト教、特に福音主義)史の指導的研究家であったジョージ・マースデン以降の若手研究家が次々輩出しているようです。サットンもその一人で、最近100年くらいの福音主義運動を、前千年期再臨説に立つ終末論によって特徴付けられる、という解釈を提示しているようです。

4. Waning of Apocalyptic Thinking among Evangelicals?
  『福音派の中で黙示的終末思考は衰退しているのか』

 これもサットンの本の書評ですが、お馴染みスコット・マクナイトのブログ記事です。歴史家の大局的解釈に対して「ちょっと違うんでないの」と批判しています。確かに影響は大きかったが福音派をひっくるめてのものではない、と指摘しています。

5. Interview with Matthew Avery Sutton
  『インタヴュー:マシュー・エイブリー・サットン』

 このインタヴューで、サットン自身が、本に著したようなアポカリプティックなキリスト教の環境で育ったこと、それが後の歴史研究に繋がっていると答えています。

6. オープンダイアローグって何だ?

 去年から「カウンセリング」の機会が増えました。いわゆるセラピーと名のつくものは少なくとも大体名前を知っていたりはしますが、カウンセリングの実際でそれら様々な理論や説の実効性や妥当性を考える機会はありませんでした。現在実地研修中ですが、この新著はかなり革新的なアプローチを取っているもので興味深いです。

7. 「こころ教」のガラパゴス

 イスラム地域研究者、東大の池内教授のブログです。「こころ教」とは「浄土真宗の僧侶で仏教学者でもある佐々木閑氏」 の説で、現代仏教の分析に用いられているキーワードですが、佐々木氏がそれを現代イスラム教にも応用しようとしている点に鋭く批判しています。


 以上でした。

 実は上記3、4、5で取り上げた、マシュー・エイブリー・サットン「アメリカ黙示録ー近代福音主義の歴史」については独立したブログ記事を書きたかったのですが、今のところできていません。

 関心のある人にはよだれが出るような研究機運が「ジョージ・マースデン以降の福音主義の歴史研究」でみられます。

 その代表的な歴史家とその著作を紹介している記事を以下に挙げておきます。

 Nathan A. Finn, Evangelical History after George Marsden: A Review Essay (リンク)

2015年8月17日月曜日

今日のツイート 2015/8/17

きょうはこれ。


新約聖書は最初「オーラル・ヒストリー」だったものが、初代のイエスの弟子たちから第三世代になる頃になって文書化されたもの、というのが一応の仮説だ。

現代ではメディアは様々あるし、デジタルにもなったわけだが、この漫画シリーズは第二次大戦の惨禍について伝える「オーラル・ヒストリー」な風合いがある。

2015年8月15日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年8月16日(日) 午前10時30分


朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:24-29
説 教 題 「秘められた計画」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(20)/パウロ書簡の学び(137)

2015年8月11日火曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑮

すっかり忘れないうちに、このシリーズも追加しておこう。

⑬マーク・コーテーズ
⑭ピーター・ライトハート

と来て、今回は新約聖書学に特化したブログです。

右コラムの「マイブログリスト」にもありますが、
マシュー・モントニーニNew Testament Perspectivesです。

なぜこのブログを思いついたかというと、最近「のらくら者の日記」ブログにアップされた英国学者主教の伝統のことを書いていたからです。
(記事のタイトルはもっと物騒なものなので書きませんでした。)

ドイツのチュービンゲン学派に対抗する英国の学派は一世紀以上前のダーラム主教を務めたライトフットやウェストコットによって作られた・・・と紹介しています。

今話題となっているN.T.ライトがやはりダーラム主教を務めましたが(2003-2010年)、この記事を書いて以降問い合わせがあり、「・・・日本の福音派の人たちがあまりにも J. B. ライトフットや B. F. ウェストコットらについて知らないことに驚いている。彼らとその業績を知らなくて、どうして N. T. ライトを語れるのだろうか?!」と別の場所で嘆いておられました。


モントニーニのブログはある意味玄人好きのするサイトで、ライトフット、ウェストコットのような昔の学者や現在活躍中の人たちもいろいろカバーしています。

結構渋い名前もあり、とにかく新約聖書学者のフーズ・フー(Who's Who) という感じです。

ちょうどライトフットとウェストコットに焦点が当たりましたが、
Lightfoot did, however, continue to take notes on John's Gospel, which Ben Witherington III discovered at the Durham Cathedral Library in the spring of 2013. With this discovery and its future publication (The Gospel of St. John: A Newly Discovered Commentary; Dec. 2015; InterVarsity Press Academic; 384 pp.), perhaps Lightfoot's name will be placed alongside the pantheon of the great British commentators on the Fourth Gospel.
とのらくら者さんが別なところで紹介していたベン・ウィザリントンⅢアズベリー神学校教授の発見がきっかけで本となる、ヨハネ福音書註解のことを書いています。(Lightfoots Commentary on the Gospel of John

日本ではとても有名な(故人ですが)F.F.ブルースについても音声ファイルのアーカイブを紹介しています。

まっ個人的には一番スリリングだったのは、N.T.ライトのメンターであった(博士論文指導教官だったが残念ながら完成前に亡くなった)G.B.ケアードの『新約聖書神学』のもととなった講義の音声ファイルが見つかり、公開されている。

この『新約聖書神学』は、筆者にとってとても思い入れの強いものなのです。 

2015年8月8日土曜日

(3)オウム真理教ノート 2015/8/8

先日知人から原稿を頼まれた。その方が編集する同人誌だ。

しかもオウム真理教絡みで。

ご丁寧にオウム真理教についての新聞切り抜きも幾つかいただいた。

というわけで今夏は少し考えをまとめる時間が必要になるかもしれない。


前回のオウム真理教ノートは5月初めだった。

まだ3ヶ月しか経っていないが何か1年も前のように感じられる。

やはりこの間憲法と集団自衛権行使の問題がありそちらに注意を取られたからだろう。


少し時間は遡るが、ハッフィンポストにオウム真理教事件から20年、学ぶべきだった「普遍性」とは 森達也さんに聞くという記事が掲載された。

フェイスブックで友達の一人がその記事を「シェア」していたので次のようにコメントした。
□□さんも「オウム真理教」をウォッチしているのですか。
コメントしてもらうとどんな「ウォッチ」をしているか分かるんだけどな。
そして筆者としてはこの記事の要点として二つがあるのではないか、と以下のようにコメントした。
森達也が指摘する2大ポイント:
①宗教組織としてオウム真理教がサリン事件を起こした内在的メカニズム
②サリン事件が引き起こした「日本社会の集団化」の内在的メカニズム
二つの点ともそれほど議論も解明も進んでいないではないか、と言う問いかけに対して、マイノリティー宗教集団ニッポンキリスト教はどう答えるのでしょうかね・・・。
どうでしょう。
□□さんの反応は以下のようなものであった。
私はオウムについてはほとんど知らないのですが、前に奉仕した教会の目の前に□□□□の青年信者のホーム(秘密の共同住居)があり、また八王子駅前での正体を隠した違法伝道が酷かったので、□□□□と闘うことになってしまいました。その関係で異端やカルト問題には少し気を配っている程度です。
ところで小嶋先生は、ニッポンキリスト教、と書かれていますが、この言葉には何か考えが含まれているのでしょうか?日本のキリスト教界、とか日本のキリスト教会、ではなく、ニッポンキリスト教。
続けて引用すると、筆者の応答は以下のようであった。
「ニッポン」は意味ありげに聞こえますね。
確かに幾分意味は込めました。

まだブログ等に書く段階ではないですが、一つは山本七平が使った「日本教」との関連で。

もう一つは山本/丸山真男/そして最近関連付けて書いている池田信夫・・・が問題にしている「空気の思想」辺りですね。

「空気の思想」辺のことは、森達也が指摘している「集団化」と重なる現象でしょう。

オウムのように「トンガッタ」ことをやる宗教団体に対する異質観が本来マイノリティー宗教が持つ社会的役割なわけだけど、「マジョリティー志向のキリスト教」の問題が「ニッポンキリスト教」に繋がると思いますね。

その程度のイミシン状態にしておきます。ご容赦。

とまあ、森達也が「オウム真理教未解決」として提起した「二つの問題」に対する糸口みたいなものを暗示しただけに終わった。

「二つの問題」のうち「①宗教組織としてオウム真理教がサリン事件を起こした内在的メカニズム」はこれまでオウム真理教ノートが追っかけてきたことだ。

しかし「②サリン事件が引き起こした『日本社会の集団化』の内在的メカニズム」に関しては、まだそれほど考え来ていない。

森は同記事で次のような警鐘を鳴らしている。
事件後、各地でオウム信者の転入拒否がありました。あのときこの国の戦後デモクラシーが試されたような気がします。オウム信者の住民票不受理は明らかに憲法違反。行政も当然それはわかっている。でも住民たちは不安を訴える。「受理しないでくれ」と多数派が言ってきたときにどうすればいいか。結局は多数に流されるわけだけど、言い換えればその程度のデモクラシーしか僕たちは獲得できていなかった。そういう意味ではまぎれもなく、オウムは戦後初めて登場した「公共敵」ですね。心ゆくまで思う存分戦える敵。その存在を前にデモクラシーが膝をついた。オウムだからとの理由で。でも例外は絶対に前提になるんです。
オウム真理教自体も問題だが、そのオウムを「公共敵」として排除するに当たり「憲法違反」も許容されるような「空気が支配する日本社会」はさらに問題だ、ということであろう。

いずれにしてもこの辺のことをこの夏の宿題にして、依頼された原稿に繋げていこうと思う。

明日の礼拝はお休みです

巣鴨聖泉キリスト教会での明日、
8月9日の主日礼拝はお休みです。

どうぞお間違えありませんようにお願い申し上げます。

※(東京の)連続猛暑日更新はひと段落のようですが、暑さの中熱中症等 健康にはくれぐれも留意してお過ごしください。

2015年8月6日木曜日

今日のツイート 2015/8/6

えー、という感じのツイート。


この方のプロフィールは以下のようになっている。
山本芳久(やまもと よしひさ)
東京大学大学院総合文化研究科准教授
1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科(哲学専門分野)博士課程修了。中世最大の思想家トマス・アクィナスを軸に、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の比較神学的・比較哲学的考察を進める。
『トマス・アクィナスにおける人格の存在論』、
「イスラーム哲学―ラテン・キリスト教世界との交錯」
(『西洋哲学史Ⅱ』所収、講談社)など。
信仰者としてのスタンスはどうなのか分からないが、これを読んで実はこの方の「信仰者としてのスタンス」について「はてな?」、と思ったのだ。

「キリストの死と復活」を、「死んで甦る神」というモチーフとして捉えた場合、それは世界の神話の中に類似のものが見つかり、その結果キリスト教の特殊性は減ずるが、普遍性は増加するゆえ、「キリスト教の真理性を裏付ける」ことになる。

と言い換えてみたのだが、何か分かったような分からないような主張だ。

まっ、比較宗教の領域では、このような議論はそもそもが初歩的なものであり、単に類似性を指摘することは、比較する意義があることを示すに過ぎない。

とすれば、「キリスト教の真理性を裏付ける」までにはまだ幾多の多様な議論を必要とするであろうから、一ツイートでここまで書くのはいかに何でも飛躍といわざるを得ない。

とまあ、そんな風に思ったわけでした。


(4)「イチオシ!」の入れ替え

水村美苗の『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』を紹介しイチオシ!に推薦したのは去年の7月21日だった。

この欄に陳列するのがこれほど長くなるとは予想外だった。

入れ替えできずにいるあいだ、『日本語が亡びるとき』の増補版が出た。


「日本語という『国語』で文学し(かつそれを用いて国民教育を受けること・受けられること)」の歴史的特異性と貴重性を議論した水村の本と主題や方向は少し違うが、

日本語という国語ベースで科学教育し、かつノーベル賞級の成果を出すまでの言語環境はそうない、と主張する松尾義之『日本語の科学が世界を変える』も似たような問題意識で貫かれている。


さてここまでは今日からイチオシ!を入れ替えるためのさよならセレモニーでした。

では今朝読了したばかりですが(だから少し躊躇の気持ちもあるのですが)、きょうからイチオシ!に陳列する作品を紹介します。


金鎮虎著、香山洋人訳

最も素直な感想は「オモシロイ」だ。

それほど考えずに読んでいたが、読み終わって少し考えてみると、オモシロイ要素の幾つかはこんなものかと思う。

(1)韓国のキリスト教会(特にプロテスタント)事情を赤裸々に伝え分析する

 日本においては韓国教会は「成功モデル」として長らく関心の的であった。
 特に「成長する教会」としてその数量的勢いに圧倒されてきた。
 しかし著者はほとんど何の感傷もなく、その実体にメスを入れている。その「切加減」が容赦ないところに「全体像を把握しようと肉薄する情熱」がうかがい知れる。

(2)分析手法に社会学的洞察が濃く組み込まれている

 朝鮮戦争後の韓国教会の歴史を「近代化」の視点で捉えている。
 特に、産業化・都市化・消費資本主義・階層化・二極化など。

 これを背景に主流派とペンテコステ(純福音教会)の教会成長戦略を支えた「神学」が分析されている。
 ※筆者にとってこのような「近代化」と「キリスト教」を関連付けて分析する古典的名著は、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だ。
 ヴェーバーの場合分析対象は一国の近代化ではなく、欧米という一大文明圏であった。そのため取られた方法論はもっと慎重で複雑・重厚だ。
 その点この著作では社会学的な概念構成は単純であり、教会神学の「イデオロギー」的表出については詳しくない。
 イデオロギー表出とは、マルクスの弁証法的唯物論の立場からすると「(神学のような)上層構造物は経済関係という下層構造に規定される」、というような捉え方。
 ヴェーバーの視点はイデオロギー部分に当たる「文化的要素」を独立した関係におき、政治・経済要素とは「相関」 する、という立場。
 故に出来上がった近代化の因果関係については、プロテスタント倫理が「意図せずして」近代化に寄与した、とのアイロニカルな歴史像を提示した。
 韓国近代化と教会の関係はより自覚的でいわば共犯関係が成立していることは頷けるが、詳細叙述についてはまだこれからではなかろうか。
 たまたま思い出したが、日本の近代化論にあって、丸山のリードのもとなされた武田清子の一群の「明治期日本人キリスト者の思想史的研究」のようなものが必要ではなかろうか。
(3)問題意識が(筆者があまり関心なかった)民衆(ミンジュン)神学

 米国遊学時既に「民衆神学」については、解放の神学や文化脈化(コンテクスチャル)神学の関連で聞き及んでいたが、ついぞ関心を持つに至らなかった。

 著者の金鎮虎氏は第三世代の民衆神学者、だという。

 結論の部分に「民衆」の側に立った教会論の輪郭のようなものが素描されている。

 これに関しては目下はあまり言わない方がいいだろう。


日本ではまだこのレベルの神学的著作は少ないように思う。

その意味でも一読に値するのではないか。

さらに、隣国との複雑な関係にある日本のキリスト者にとって、批判や羨望を越えたところで、つまり神学的な方法論として、社会学的分析を縦横に用いたこのような著作は一つのモデルとしても読めると思う。

様々な示唆に富むし、また議論の糸口を幾つも提供してくれるように思う。


さて図書館から借りて本書を読んだが、自費購入するとするか・・・。