2015年5月17日日曜日

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、3

最初に整理しておきます。

東京説教塾が主催した、2015年4月27日(月)に、キリスト品川教会で持たれた、デューク大学神学部神学部長リチャード・ヘイズ教授の二回の講演についての報告をしています。

今回で東京説教塾分が終わり、その後立教大学キリスト教学研究科での公開講演を報告します。

※講演後に知ったのだが、リチャード・B・ヘイズは、来年神学部長を辞し、サバティカル休暇後教授に戻るとのこと。デューク大学ウェスレー/メソジスト研究者マドックス教授が次期学部長選対委員会を率いる。(デューク大学広報


ヘイズ日本講演、1・・・「信仰のまなざしをもって聖書を読む: 神学的釈義の実践」の前半
ヘイズ日本講演、2・・・「信仰のまなざしをもって聖書を読む: 神学的釈義の実践」の後半

そして、今回「日本講演、3」は、「この世界を覆す:よみがえりを説教する(Turning the World Upside Down: Preaching Resurrection.)」について報告します。

どうやら下になっているテキストは、
Chapter 14. The Resurrection of the Body: Carnis resurrectionem (Roger E. van Ham, Exploring and Proclaiming the Apostles' Creed, pp.260-272)
のようです。

タイトルから分かるように、使徒信条についての本です。

目次を「グーグル・ブックス」でご覧くださると分かりますが、信条の各項目ごとに寄稿者が「解説」と「説教」を書いています。

ヘイズは「からだのよみがえり」の「解説」の方を担当したわけです。

出版年は2004年ですから、少し古いですが、今回のテキストはそれを大きく2点改変しているようです。

(1)「からだのよみがえり」の理解を困難にする「復活」の概念を解説する部分がイラストレーションを入れたりして拡張しています。


上掲書では、By raising the man Jesus、で始まりますが、今回のテキストにはテッド・ウィリアムスと言う有名な野球選手が遺書に残したと言う、「死後身体蘇生」についてのエピソードが冒頭に置かれています。
(ヘイズが言及したボストン・グローブの記事ではありませんが、それから10年後のこの記事にも遺体の冷凍保存などについての経緯が書かれています。)

実際にテキストがないので比較はできませんが、「復活」概念に対する理解の混乱は、
 (A)一方でキリスト教会の中に連綿として受け継がれてきた「死んで天国へ行く」式の非身体的(たましいだけの)永世観があり、
 (B)もう一方では科学的世界観から来る「物質主義」の影響がある、
と指摘します。

※あるいはヘイズはこの時点では、N. T. ライトの、The Resurrection of the Son of God (2003)、はまだ読んでいなかったのかもしれません。

※ちなみに、この講演後の質疑応答でのことですが、復活の身体性についての質問と応答(ヘイズは第一コリント15章の『肉の体』と『霊の体』の対比も使って説明しようとしたが、通訳もポイントを拾いきれなかった印象)後、聴衆に向かって、Do you know N. T. Wright, his Surprised By Hope?と問いかけ、(ほぼ無反応の聴衆に向かって)It needs to be translated.とアッピールして、この辺の理解の混乱に関しては、ライトと彼の復活に関する本が必読であることを指摘した。 

(2)復活の行動化
上掲書は「説教」が別に組まれているので、「解説」までで終わっているようだが、今回のテキストは「実践」として「復活」を教会としてどのように「行動化」するか、と言う課題と取り組んでいる。

最初にウェンデル・ベリーの「Manifesto: The Mad Farmer Liberation Front」と言う詩の最後の部分を引用する。
As soon as the generals and the politicos
can predict the motions of your mind,
lose it. Leave it as a sign
to mark the false trail, the way
you didn't go. Be like the fox
who makes more tracks than necessary,
some in the wrong direction.
Practice resurrection.
ベリーのゲリラ的と言うか、対抗的と言うか、抵抗運動の実践を「復活行動化」と意味ありげに呼んでいるもののニュアンスを、ヘイズは以下のような『(復活と言う将来的なものを今に)体現化』するものとして:
 1. 平和作り
 2. 持ち物の共有
 3. 和解の食卓
を提案する。


これらの復活に基づく(規範習慣的)行動(practices)は、(主に)使徒の働きのナラティブから、「対抗的共同体」の性格として位置づけられる。

論述しないが、ジョン・H・ヨーダーの『社会を動かす礼拝共同体』倫理学に、ライトの「新創造」を付加したような味わい、と言った印象のものだ。


まだまだ「試論」あるいは「素描」の印象だが、(恐らく)ヨーダーやハウアーワスらの倫理学的洞察を透過しながら提示されたこれらのシンプルな「習慣」が、復活を体現する教会としてのアイデンティーティー・マーカーとして『現実』に切り込んで行く時に、その真価を発揮する・・・ということのようだ。 



余り助けにもならない報告かもしれないが、今回はここまで。 

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