2015年6月22日月曜日

(4)断想 2015/6/22

(※《断想》と《雑想》の違いは前者の方が後者より幾分内容的にまとまりがある、という程度のものでさしたる違いはありません。その時の気分で選んでいます。あしからず。)

(1)日本福音主義神学会東部部会の公開研究会
日時:6月15日(月)14:00-17:00
場所:OCC508号室
テーマ:『今、再び人間の罪について考える』
講師:鈴木浩ルーテル学院大学教授
に行ってきました。

講演・・・というよりはトークといった感じでしたね。(ノリがよくなるまで、エンジンがかかるまで、結構時間がかかった感あり。)

(断想と呼ぶだけに軽い感想しか書きませんが・・・。)

講演の要約を掲載するのは勘弁してもらって、内容的にかなり重複する論文が入手できますので、もし興味ある方はそれをご参考までにお読みください。

少し長めの前書き、あるいは、義認論をめぐる環境の変化

また有能な“速記録者のレポート”もあるのでそちらも是非ご参照のほど。



筆者の関心あるポイントは『義認論』なのですが、くしくも昨年の同神学会東部研究会公開講演会でも『義認論』が深く関わ「『パウロ研究』の新しい視点」を紹介していました。(これこれ

今回の講演は『義認論』が宗教改革において中心的な位置を占めるようになった議論の筋道を、アウグスティヌスまで遡ってまとめていました。

宗教改革(主にルター)の義認論は、(主にカルヴァンのポイントである二重予定論とともに)あいまいさの残っていたアウグスティヌス主義神学を徹底したもの、と言う見方がそれですね。

つまり宗教改革をリードしたルターとカルヴァンという二人の神学者は、急進的アウグスティヌス主義者であった、ということ。

そこから引き出されるのは、ルターは原罪論を徹底させたゆえに義認論を確立した、という解釈です。しかし、この歴史的回顧による義認論解釈は、講師のトークの趣旨からするとまだイントロにしか過ぎない。本当に話したかったのは、現代における「原罪」を語ることの難しさ、罪の意識の低さ、ということでしたね。
 「ルターの信仰義認論の前提は、アウグスティヌス的人間論の断固たる再主張であった」というペリカンの命題は、「義認論の前提は原罪論であった」という意味であり、義認論の神学者ルターは、何よりもまず「原罪論の神学者」であり、「原罪論を強化した」ことが義認論の再発見の糸口であった、という意味である。心理学的用語を使えば、義認論は罪認識の深刻さを前提にしており、罪認識の深刻さに対応する教理なのである。言い換えれば、義認論は、原罪論という前提を失うと、その教理的インパクトも、そしてとりわけ、その心理的インパクトも失われるのである。・・・
義認論がその前提である原罪論を失ったこと、言い換えれば、罪認識がかつてなかったほど希薄化したこと、再度言い換えれば、「脱アウグスティヌス的環境」の中に義認論が置かれるようになったこと、それが義認論をめぐる、第三の環境の変化である。そして、それこそが、義認論にとっては、致命的な意味を持っているのである。それは、無論、義認論の再度の再解釈が要請されているということである。

鈴木氏が「義認論の環境」で第三の変化として指摘している「罪の希薄化という『脱アウグスティヌス的環境』」の問題は、福音派ではそれほど意識されていないように思いますが、「神学の文化的環境」という発想とも合わせて検討する必要があると思います。

しかし、そのことの前に、あるいは同時並行でもいいですが、福音派がしなければならない神学作業は、実はスコット・マクナイトが『福音の再発見』で指摘した「救い派(ソテリアン)」の「罪の扱い」ではないかと思うのです。

ルターの「実存を脅かす罪の縛り」の自覚はどこかに行ってしまい、大衆伝道で分かりやすく「救い」を得させるために「地獄」とセットで「個人的罪」が語られ、その処理をする「福音」に矮小化、陳腐化されてきた、という指摘です。


詳論は避けますが、鈴木氏が指摘した「義認論の環境」の第二の変化である(アウグスチヌスの影響を受けていない)東方神学の救済論も興味深いものでした。
図式的に言えば、人間が持つ根本的問題性が「罪の必然性」であるのなら、「救い」とはまずもって「罪の赦し」であるし、同様にその根本的問題性が「死の普遍性」であるとしたら、「救い」とはまずも
ってその克服である「永遠の命」でなければならないということになる。その結果、東方神学は義認論を深めることはせず、西方神学は神化論を深めることはしなかったのである。
東方の神学が「別な視角」を提供する、ということは実際そうで、筆者自身ウェスレアン・アルミニアンの流れに属しながら不勉強なので確実なことは言えないが、ウェスレーの聖化論には東方神学影響が流れていないか・・・を見てみることは必要ではないか。

義認論との関連で言えば、マイケル・ゴーマンがまさに神化論(セオーシス)を組み入れた議論を展開している本が、Inhabiting the Cruciform God: Kenosis, Justification, and Theosis in Paul's Narrative Soteriology.です。

ついでにもう一点。

神学的人間論としては『原罪論』が創世記3章からスタートしているとすると、聖書の包括的ナラティブとしては『神のかたち』(創世記1章)の視点が補われる必要があると思います。(これをやっているのがライトやマクナイトとですね。)

そのようにしないと「救済論」が脈絡を失って教会論や宣教論とシームレスに繋がっていかないのではないかと思います。

この点においても「聖書の包括的ナラティブ」、端的には「創造→新創造」は組織神学の各論が孤立化することを防ぐと思います。


(2)「罪」の復活

ちょっと長くなりますが、ちょうど講演の趣旨と沿うものなのでメモだけしておきます。

鈴木氏の嘆きにもかかわらず、一部の世俗の知識人の中には「罪の意識の希薄化」を指摘するとともにその重要性を認め復興する試みがあるようです。いわば、アウグスチヌスの現代性を発見するもののようです。

デーヴィッド・ブルックス(ニューヨーク・タイムズのコラムニスト)が最近著した本がそのような例の一つのようです("David Brooks: We Need to Start Talking about Sin and Righteousness Again", クリスチャニティー・トゥデー誌、2015年6月号)。
Brooks’s quest to fill that hollowness culminated in his latest book, The Road to Character (Random House). He pairs sketches of historical figures like Augustine and Dwight Eisenhower with analysis of our culture’s retreat from biblical notions of sin and righteousness.
 
 
さて、もう一つ例を挙げておきたいのですが、不十分になると思うのでやめておきます。

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