2015年6月1日月曜日

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、4

これがシリーズ最終となります。

Did Moses Write about Jesus?

The Challenges of Figural Reading

モーセはイエスについて書いたのか?

比喩的読解の挑戦

は、4月28日、立教大学(キリスト教学研究科主催)を会場に行われた講演です。
講演については主催者サイトで以下のように説明されています。
 本講演は、四福音書の著者たちが、イスラエルの聖書をイエスのアイデンティティーに関する証言として解釈した、その驚くべき仕方について例証し、探求することを目的とする。
 内容的には、最近のヘイズ氏の著作である "Reading Backwards: Figural Christology and the Fourfold Gospel Witness, Waco: Baylor University Press 2014"で探求された、いくつかの解釈学的提案について要約的に報告し、省察を加える予定である。
となっている。

Reading Backwardsに関してはこちらのサイトで簡単にライトの推薦文を紹介しておいた。

With his characteristic blend of biblical and literary scholarship, Hays opens new and striking vistas on texts we thought we knew--and, particularly, on the early church's remarkable belief in Jesus as the embodiment of Israel's God."
--N.T. Wright, Professor of New Testament and Early Christianity, University of St Andrews

講演を通訳した河野師は英語テキストの翻訳もしてくれて参加者に配られた。今回の講演三つともまるで英日両語テキストを比較しながら聞くようなインターリニヤー状態でした。(笑)

ではアウトラインだけ英語のまま掲載します。

I. Introduction: The Evangelists as Retrospective Scriptural Interpreters
 A. The Multivocality of the Gospels
 B. Mark: Figuring the Mystery of the Kingdom
 C. Matthew: Torah Transfigured
 D. Luke: The Story of Israel's Redemption
 E. John: Refiguration of Israel's Temple and Worship
 F. The Challenges of Diversity
II. Gospel-Shaped Hermeneutics?
多分以下の部分を引用するだけでも輪郭がうっすらと感じられると思います。
...the four canonical Gospels are hermeneutically intertwined with the Scriptures of Israel. The more closely I have studied this phenomenon, the more I have been drawn to the conclusion that the OT teaches us how to read the Gospels and that--at the same time--the Gospels teach us how to read the OT. The hermeneutical key to this intertextual dialectic is the practice of figural reading: the discernment of unexpected patterns of correspondence between earlier and later events or persons within a continuous temporal stream.
四つの正典福音書がイスラエルの聖典と解釈学的に絡み合っている仕方について、・・・私は、この現象についてより詳細に研究すればするほど、旧約が私たちにどのように福音書を読むべきかを教えている、との結論へと導かれてきました。この間テクスト的弁証法に対する解釈学的な鍵は、比喩的読解( figural reading) の実践にあります。それはつまり、連続する時間的な流れの中における、先の出来事と後の出来事、あるいは先の人物と後の人物との間の、予期せぬ対応関係のパターンを識別するということです。
比喩的読解についてエリッヒ・アウエルバッハの考察をベースにしているのですが、その部分を続いて以下に(日本語翻訳だけ)引用します。
比喩的解釈においては、間テクスト的な意味論上の効果は、双方向に流れることができます。つまり、先のテクストが後のテクストを照らすとともに、その逆もある、ということです。しかし、ある比喩的対応関係の二つの極の、時間的に秩序付けられた連結は、その比喩の把握(the comprehension of the figure)ーーエリッヒ・アウエルバッハが intellectus spiritualis (霊的洞察)として描写した理解の行為ーーが、回顧的 (retrospective) でなければならないことを要求します。特に、この講演の主題との関連で言えば、旧約の比喩的・キリスト論的読解は、イエスの生、死、および復活の光において、ただ回顧的にのみ可能である、ということです。したがって、律法と預言者はイエスの生涯における出来事を意図的に予告している (predicting) 、といった読み方は、比喩的解釈の視点からすれば、解釈学的な大失敗ということになるでしょう。(強調は筆者)

ここでヘイズによって主張されていることを少し強引に説明してみます。

「旧約(預言)は新約のイエスにおいて成就した」と言う時の単純な《時間的関係》での《意味関係》を、解釈学的な関係で捉え直せば、実はそのような理解は回顧的解釈によって可能になることなのだ、と言うことだと思います。

少し体験的な例を用いて説明してみましょう。

ルカ24章に以下のような箇所があります。
さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(24:44-47、新共同訳)
昔ここの箇所を読んで、「次のように書いてあります」とあるので、旧約聖書のどの箇所だろう、などと思ったことがあります。

実際にはダイレクトにそのように言及されている箇所はない(と言うのが筆者の理解です)が、何箇所かそれに近いような箇所はあります。

《キリストの受難》で言うと有名なのが、イザヤ書53章の『苦難の僕』です。

昔は聖書の真理性を説明するのに、「ほらここにはキリストの苦難の予言が書いてあるでしょう。これは何とそのことが起こる600年前に既に書かれていたのですよ」みたいな使い方があったようです。

これだと、《時間的関係》で先(古い)のものが、後に来るものの意味を明示(予告)していた、と言うかなりダイレクトな対応関係となります。

一般の聖書読者は「聖書預言」をそのようなダイレクトな対応関係のパターンとして理解しているのではないかと思います。

しかし、ヘイズは(預言に限らず)むしろ「予期せぬ」ものであったり、「逆であったり」する間テクスト関係が(四福音書と旧約聖書の間に)成り立つことを論証しているわけですね。

特に「イエス・キリスト」と言う歴史の出来事と旧約聖書(と言う書かれたテクスト)との間に成り立つ関係で言うと、福音書の中で度々弟子たちの「無理解」や「戸惑い」で例証されるように、目の前でイエスが行っている出来事の意味や意義は、その時点では明らかでなかったが、イエスの死と復活の後に「ああ、そう言うことだったのか」と言う風に理解されるパターン、がそうであったということです。

例えばこの箇所が最もよくその点を指摘していると思います。
イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。 (ヨハネ福音書2:19-22、新共同訳)
また、イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入場した出来事も同様に解説されています。
イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。
 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」
弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。 (ヨハネ福音書12:14-16、新共同訳)
これらは言ってみれば福音書記者(弟子の視点)のそっと挿入された自画像的説明で、読者への解釈法的ヒントにもなるものです。

ヘイズはこのような解釈視点を、エリッヒ・アウエルバッハの文学理論的洞察を援用しながらシステマティックにやっているのだと思います。


ではここで、ヘイズ日本講演、1で説明を延期した「神学的な解釈」の第9ポイントに少し触れます。
9. Theological exegesis thereby is committed to the discovery and exposition of multiple senses in biblical texts. Old Testament texts, when read in conjunction with the story of Jesus, take on new and unexpected resonances as they prefigure events far beyond the historical horizon of their authors and original readers. The NT's stories of Jesus, when understood as mysterious fulfillments of long-ago promises, assume a depth beyond their literal sense as reports of events of the recent past. Texts have multiple layers of meaning that are disclosed by the Holy Spirit to faithful and patient readers. 
ここで言われる、multiple sensesmultiple layers of meaningを聖霊の啓示によって発見して行くのが神学的な解釈であり、それを四福音書の読解で実践しているのが、Reading Backwards、あるいはそのダイジェスト版報告であるこの講演、と言うことになるかと思います。


かなり洗練された内容の講演の報告ですので、本当に本の一部しか言及できませんでしたが、Reading Backwardsを購入して読んでいただくか、または下記の動画で各福音書について講演したものがあるので、それを参照して頂くとよいかと思います。

1. Torah Reconfigured (マタイ福音書)

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