2015年12月6日日曜日

(4)牧師は神学者か 3

シリーズ3回目となります。

牧師について日頃いろいろ考えていることに触れてくる記事があったので、その記事を紹介しながら何本かまとめていこうと思う。
1では、ヴァンフーザーの『牧師は公衆神学者』テーゼを紹介しました。(正)
2では、アンドリュー・ウィルソンの「両立は困難」という主張を紹介しました。(反)
(3)では、ディヴィッド・フィッチの「機能的神学者」論を紹介します。(合)

ディヴィッドのこの議論への入り方は、(2)に対する反論であるとともに、(1)の修正版ということになると思います。

 ※前置きとして、現在の博士号保持者の就職状況が非常に厳しいことを指摘しています。

将来牧師となる人がやるべきドクター・レベルの研究は教会のミニストリー(わざ)と機能的に繋がっているものであるべきだ、と主張します。
(「機能的」神学者は、イタリアのマルクス主義者アントニオ・グラムシのコンセプトから借用しているものです。)

ここには「神学」的反省作業(リフレクション)がミニストリーの「現場」から離れてはいけない、むしろ「現場」に繋がって生起する反省がそのままミニストリーにフィードバックされる、という循環効果が見られているようです。


ディヴィドは(ジーザス・クリード・ブログの、そして『福音の再発見』著者の)スコット・マクナイトともにノーザン神学校で教えているのですが、このたび新しく「ドクター・オブ・ミニストリー」を開設するに際し、その理念や目的をまとめているのですが、言っちゃ悪いですが、このプログラムの宣伝に記事を書いてる面がありますね。

同時に、マクナイトだけでなく、カルヴィン系以外(ウェスレアン、非カルヴィン系バプテスト、アナバプテスト、など)の神学的指導者のコーリションであるMissio Allianceの問題意識や戦略を反映しているようです。

それは、大雑把に言ってきたアメリカはクリステンダムを脱したことを自覚して、宣教のヴィジョン再構成すべきだ、という主張です。

この認識に従って牧師のミニストリーへの準備や訓練に相応しい再構成、さらに「牧師神学者」として機能するための学際的アプローチや発信環境整備に言及しています。

なかなか刺激的アイデアが盛られていますが、まだ十分練られているとはなってないのでは、感じますが・・・。

しかし、この論考は非キリスト教国で、ポストモダン情況を迎えている日本の「神学的文脈化」を考える上で参考点が多いと思われます。

関心ある方は是非お読みください。


0 件のコメント:

コメントを投稿