2015年4月29日水曜日

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、序

※何やら「序」が続いて思わせぶりになるが・・・。

米国北カロライナ州にあるデューク大学の神学部長を務めるリチャード・B・ヘイズ教授が来日中である。

初来日と聞く。

なかなか得がたい機会なので、昨日、一昨日と、3回の講演に出席した。

せっかくなのでそれらの講演について、私的なコメントをまとめてブログ記事にしてみようと思う。

どれだけまとまるかは保障の限りではないし、講演の概要についても紹介しないかもしれない。

個人的に関心ある部分についての立ち入ったコメントで終わってしまうかもしれない。


と言うわけで、余り期待せず読んでいただければ、と思っている。


先ずは当ブログで何回かヘイズに関して書いたことを紹介してイントロとしたい。

 1. 『新約聖書のモラル・ヴィジョン』の著者として。

 2. 『イエス・キリストの信仰』において「ピスティス・クリストゥー」を論じたこと。

 3. 「新約聖書倫理学」への貢献について。

 4. 「福音書研究」における「キリスト論」への貢献について。


2. 『イエス・キリストの信仰』については、つい最近新教出版社から邦訳が出たところで(ヘイズ教授の来日に合わせて、訳者の河野先生が頑張ったお話を何度も聞きました)、講演中も特価で販売していた。


4. 「福音書研究」における・・・については、まだ記憶に新しいところで一つエピソードを紹介しておこう。

昨日の立教大学での講演に同席したK牧師が語ってくれたこと。

ロマ書研究として「○○論」をなさるそうだ。

最近の研究者として、ダグラス・キャンベルやクリス・ティリングなど何人かの名前を一緒に挙げながら確認した。

「○○論」については、このキリスト論記事に紹介してある動画に一つのヒントが示されている。

ヘイズはこの動画で、盟友であり、しかし方法論的にライバルであることが判明した、N・T・ライトに対して、「信条」のような後代に確立した神学的枠組みが、歴史的批評的聖書解釈アプローチとともに有効であり、有用であることをロマ書研究において主張している。

※ K牧師の研究対象について不利になってはいけないので、敢えてあいまいな描写にしていることをお赦しください。


それでは次回を、乞うご期待。

(4)『教会史遡行』から落穂拾い、序

人によって説教準備のためのベンキョウは様々だろう。

今年筆者が奉仕する教会が創立半世紀を迎える、と言うことは最近の記事でも何回か取り上げた。

で、その前史となる「キリスト教会史」全体を超特急で学ぶ「説教シリーズ」を紹介した。

久し振りに「リサーチ」している観がある。

普段からネットや本やらで「調べもの」みたいなことをやっていないわけではないが、しばしば興味本位で、脈絡も気にせず、「芋づる式」に追っかけている。


しかし、「キリスト教会史」全体・・・となると、そうもいかない。

やはりかなりトピックを絞り込まないといけない。

50年から100年のスパンを代表する「人物」や「運動」を吟味しなくてはならない。


しかし、そうやって選んだ人物や運動をリサーチした後、今度は「説教」に落とし込まなければならない。

聖書のメッセージやレッスンと擦り合わせなければならない。

そうやってできた説教のコンテンツを25-30分の時間枠で提示しようとすると、殆ど削る作業だ。

説教前もそうだし、説教中もさかんに削らなければならない。

準備した者にとっては興味深い逸話なども、時間との戦いの中では、どんどんカットされる。


そうして残ったものをどうしようか、と思った時に思いついたのが、今回のシリーズなのです。


「落穂拾い」というタイトルにしました。

「拾遺録」でもいいかもしれませんが、説教稿自体は記事にして発表していないので、不適です。


何も大したリサーチもしていないのに、「落穂拾い」などともったいぶったことしなくてもいいのに・・・という声も聞こえそうですが、恥ずかしながら、臆面もなく記事にしてみます。


よろしくお付き合いください。

2015年4月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年4月26日(日) 午前10時30分

 
朗読箇所 使徒の働き 8:1-25
説 教 題 「伝道と教育と聖書」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会史遡行(3)  リバイバリズム(19世紀の信仰覚醒運動)
  ・・・D・L・ムーディー(1837-1899)

またティールームオープンします

ティールームオープン、第2弾です。
期間限定オープン
5月3日(日)、12時00分~15時00分

けっこう寒く長く感じた冬が過ぎ

なんか雨が多いな、と言うサクラの季節も過ぎ

いよいよ新緑

ゴールデンウィークも間近になって来ました。

 
今年のツルバラは上手く咲いてくれるかな・・・


と期待して

「木工房・活水」のティールームの

「臨時オープン第2弾」 


どうぞ散歩の途中にでもお立ち寄りください。

お茶の無料サービスをご利用ください

工房見学も歓迎

趣味の手工芸品展示もあります

《お問合せ》 03-3946-8035

2015年4月24日金曜日

(2)巣鴨聖泉キリスト教会創立50周年、2



今年、5月5日が来ると、巣鴨聖泉キリスト教会は創立50周年となります。
半世紀です。

30周年を迎えた時、創立以来の歴史を十年毎に区切って回顧したことがありました。

「伝道」「教育」「交わり」だったかな。

使徒行伝で原始教会の様態を表わしたギリシャ語の「ケーリュグマ」「ディダケー」「ディアコニア」にあやかってのことでした。

9月には「創立50周年感謝記念礼拝」を持つ予定なのですが、その時に合わせて巣鴨教会の『略史』をまとめようと思っています。

そんなわけで「30周年」以降の「二つの十年」をどのようなタイトルで括るか色々検討しているところです。

そんなこともあって、「回顧」と言う作業をぼちぼちしているわけですが、礼拝での学びにもこれを持ち込んでみました。

しかし、巣鴨教会という一地域教会の半世紀を振り返るのではなく、その前史となる歴史を、原点(起点)である『一世紀』まで遡っていく回顧をしたい、と考えています。

 第二次大戦後のキリスト教、
 20世紀初頭のホーリネス運動、
 19世紀の信仰復興運動(リバイバリズム)、
 18世紀メソジスト運動、
 16世紀宗教改革、
・・・といった具合です。

そして、イエスの初代弟子たち、ペンテコステまで遡ることで、簡便ながら「全教会史のアウトライン」に近いものを提示し、それを参照しながら、巣鴨教会が「どこから来て」「どこに行くのか」を探ってみたいと思っています。

はー、かなり遠大な学びだ。

かなり無茶な感じはしないでもないが・・・。


既に2回の学びを終えました。


日本のホーリネス運動史(1900-)を軸に
・・・(1)第二次大戦戦後から今日まで(IGM/蔦田二雄)

・・・(2)中田重治の遺産
 
毎回どっさりお勉強しなくてはなりません。

説教に繋げるのは大変です。

でも(余計なことも含めて)色々準備の段階で学べることは感謝です。

2015年4月23日木曜日

(1)巣鴨聖泉キリスト教会創立50周年、1


 今年、5月5日が来ると、巣鴨聖泉キリスト教会は創立50周年となります。
 半世紀です。

 昨年そのことを思って計画を始めたのが、「創立50周年記念」プロジェクトとしての「内外整備工事」でした。

 一つは少しずつ懸案となっていた「玄関アプローチ」の整備。

 2001年の建替え工事で出た庭石大小を、筆者が並べ替えて飛び石状に置いたのですが、その後様々なイベントで足元のおぼつかない方も来会され、少しずつ心配になっていました。

(2001年11月23日)

(2003年8月24日)

(2005年11月15日)
近い将来には車椅子の対応も必要だろう・・・と言うことで、『車椅子対応玄関アプローチ整備工事』が一月の教会総会で決まりました。

 工事は3月に入って。

コンクリート洗出しのため下地を整備

ゆるくカーブをかけ
入口は花崗岩を並べ
もう一つの工事は「冷房設備」。

 実は会堂には冷房設備がなかったのです。

 初期の目論見は「屋上緑化」で何とかなる・・・でしたが、なかなかそれだけではうまく行きませんでした。

 それでこちらも一緒にと言うことで。
 
穴を開ける壁の厚さは24センチ

まあまあすっきりと収まりました
と言うわけで、3月一杯で全工事終了しました。

 
 

2015年4月19日日曜日

(2)主に神学ブログ まとめと展望

暫く前「現代の英語圏神学者」シリーズを立ち上げたので、幾つかある「シリーズもの」を整理していこうと思っている。

今回は「主に神学ブログ」シリーズ。


このシリーズでは、日本語のキリスト教/クリスチャン・ブログから適宜選出して紹介している。

以下にこれまでの経緯概観も兼ねて、シリーズ開始からの記事を順に列挙してみる。

日本のクリスチャン・ブログ・・・このシリーズを始めるきっかけになった記事。

主に神学ブログ・序・・・単なる前置き。

主に神学ブログ 1・・・「どこかに泉が湧くように」(百姓とんちゃん)

主に神学ブログ 2・・・「教会・礼拝・聖書・説教・伝道・神学」(春原禎光すのはら・よしみつ牧師)

主に神学ブログ 3・・・「関口康:説教・神学・日記」(関口康牧師)※ただ「日記」に変名した模様。

主に神学ブログ 4・・・「のらくら者の日記」(H牧師)※2015年1月から更新休止中

主に神学ブログ 5・・・「自然神学・環境・経済」(LogosOfficeさん)

主に神学ブログ 6・・・「日本人のためのキリスト教神学入門」(佐藤優)

主に神学ブログ 7・・・「伊那谷牧師の雑考」(大杉至牧師)

主に神学ブログ 8・・・「鏡を通して」(山崎ランサム 和彦神学校校長)


神学の話題を取り上げるとなるとやはり牧師(元も含め5名)のブログが多いのかなー、と言うのがヒトマズの感想。

でも神学校教師や大学の神学部で教鞭を取っている方が、ブログで専門的なことを記事にしている、などとはあまり聞いたことはないし・・・。

この「まとめ」を記事にするにあたって《神学》 《神学校》 《神学者》 などで一応検索をかけてみた。(「主に神学ブログ」記事を書く時にやることなので、もう何度か繰り返しているのだが・・・。)

一応今回ヒットしたものの中から、二本書けそうな気がしている。


読者の方で、もし適当なブログがあったら教えて頂けるといいなー。


それでは乞うご期待!!


2015年4月18日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年4月19日(日) 午前10時30分

 
朗読箇所 コロサイ人への手紙 1:9-23
説 教 題 「敵意を打ち砕く十字架」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(16)/パウロ書簡の学び(133)

2015年4月14日火曜日

(3)ウェスレー著作集(英語)売ります

 暫く前に野呂芳男著「ウェスレーの生涯と神学」をこのブログで「売ります」したらあっという間に売れてしまった。(後から「書き込みが結構あった」と苦情も来たが・・・。)


今回「柳の下の泥鰌」になるかも分からないが、第2弾目をトライしてみる。



画像は「全集」の第1巻目(532ページ・・・厚さ約4.5センチ)、全16巻です。

Zondervan社の「The First Complete Unabridged Edition in Nearly 100 Years」と言うものです。

ウェスレヤン・カンファレンスが1872年に出版したものの写真オフセット印刷、と説明されています。

画像ではよく分かりませんが大分焼けています。

ですので余り高い値段は付けられません。

何しろ洋書ですから買い手が付くかどうか・・・。

1巻あたり100円としてセット価格1,800円1,600円で先ずは試してみます。

なお他に送料手数料(1,000円)を頂戴いたします。

お問い合わせは
sugamo_seisen@yahoo.co.jp
まで、

 ①氏名
 ②住所
 ③電話番号
を明記の上お申し込みください。

※このセットは(またもや)筆者自身が購入したものではありません。父が購入したものです。その父も殆ど使わなかった模様。今回狭くなった書棚スペース確保のため売り払うことにしました。

2015年4月13日月曜日

(5)現代の英語圏神学者①、スタンレー・ハウアーワス余録・続(完)

思わぬ展開で、『余録』とその『続編』と言うおまけが付いてしまった。

余り関心のない読者にはマニアックな話題かもしれないがご容赦を。


今回、完結編ではハウアーワスとヨーダーの関係を取り上げる。

現在中断しているのだが、3年ほど前から出席している「ヨーダー読書会」を通して、The Politics of Jesus、を始め何冊かヨーダーの本を読んでいる。

ヨーダーについては、そう言うわけで、「進行中の人物」でもあり、また「(既に故人であるが)渦中の人物」でもあるので、この記事であまりあれこれ書くことは控えたい。

今回はただハウアーワスとの繋がりで浮上する幾つかの「点と線」について・・・。


ご存知のように、ハウアーワスはヨーダーとともに平和主義者であり、ハウアーワス自身は合同メソジストのメンバーでありつつ、神学的スタンスはメノナイトの伝統から影響を受けている。

ハウアーワスの平和主義神学に最も大きい影響を与えているのがジョン・ハワード・ヨーダーと言って差し支えないと思う。

・・・以上は「点」について。


20世紀の北米「神学と倫理」シーンにおいて、一個人が「平和主義者」であるか、それとも「義戦(正戦)論」に立つ、あるいは「現実主義」に立つ「戦争容認者」であるかは到底「イデオロギーを巡る対立的立場」で済まされる話ではない。

以下に紹介するハウアーワスの師匠(メンター)であった「ポール・ラムゼイ誕生100年記念」パネル・ディスカッション動画にある通り、多くの者たちは「平和主義者」として青年期を過ぎた後「現実主義者」に転向する(せざるを得ない)、と言う曲折を歩んでいる。


※3人のパネラーが、最初、三者三様の「ラムゼイ回顧」をするが、ハウアーワスがラムゼイ若かりし頃の「平和主義」シンパのエピソードを語っている。
 次に「平和主義者」だったジェフリー・スタウトが、イェール大神学部時代にラムゼイの本を読んで自身の平和主義理論武装を「ぶっ壊された」エピソードを紹介している。
※このスタウトの回想スピーチには、アカデミックな世界の人間模様についてかなり赤裸々で感情的なエピソードが含まれていて、幾らか内部事情を知っている者にとっては思わず「胸キュン」となる。筆者が見てきたユーチューブ動画の中でも「ベスト5」に入る内容豊かな一本。秘蔵版だ。

このスタウトの回想後、ハウアーワスが補足を継いでいる部分(35分40秒過ぎ)にヨーダー絡みのものが入っている。

ヨーダーが「キリスト教倫理学会」会長を務めていた時(1987-88)、晩餐会で「To Serve God and Rule the World」と題した(黙示録からの)会長スピーチをした。

ポール・ラムゼイが一緒に席についていたハウアーワス夫妻に、That man was hiding his light under a bushel. と評するコメントをした。

義戦論者で学会の重鎮であり、もう死期も近づいていたラムゼイが平和主義者ヨーダーへの賞賛の言葉として語ったこのコメントが、ハウアーワスには格別思い出深いものだったわけだ。

※ポール・ラムゼイ(Paul Ramsey)については神学遍歴⑨をご参照ください。
ちなみにそこで言及した「・・・デューク大学に寄贈された『ポール・ラムゼイ・コレクション』・・・」について、この動画でハウアーワスがその消息を紹介している。何とプリンストン大学も神学校も寄贈に応じなかったのでデューク大が頂いちゃった、とのことだ。へえー、そんなもんか・・・である。


議論を待つまでもなく、ヨーダーの神学的遺産はやはりThe Politics of Jesusなのだろう。以下にそのテーゼが要約されているように、イエスの倫理と教会論が一体となったキリスト教倫理へのアプローチは当時はユニークで画期的なものであったと言えよう。
His thesis, simply put but thoroughly and eloquently argued, was that Christian ethics begins not by finding ways to set aside the radicalness of Jesus' ethics, but rather by finding ways in community to take those ethics seriously. In other words, the church is to bear the message of the gospel by being that message.... (Mark Nation, John Howard Yoder: Mennonite Patience, Evangelical Witness, Catholic Convictions, p.25. からの引用。元はDavid Weiss, "In Memory of John Yoder...")
ヨーダーのインパクトは最近邦訳されたリチャード・B・ヘイズ『新約聖書のモラル・ヴィジョン』の


第3章「キリスト教倫理に対する史的イエスの意義」などでも取り上げられていますが、N.T.ライトとの関わりについては以下のように述べています。
 第3点ですが、ライトの研究にとって、イエスの関心を現実の世界史の中につなぎ止めることは本質的に重要です。ライトによれば、イエスが思い描いていた未来は、この世界から遊離した天国における彼岸的運命ではありません。それは、イスラエルの民の、この地上で継続する生における具体的な政治的未来なのです。
 その他の点でもそうですが、この点においてライトの構想は、ジョン・ハワード・ヨーダーが『イエスの政治』で描いた描写と深く結びついているように思われます。興味深いことにライトは、ヨーダーについて特に論じているわけでも、彼と対話しているわけでもないようです。(106ページ)
さてヘイズのこの観察にコメントするというよりも、ライトとヨーダーのアプローチに関する大雑把な印象として思うことなのだが・・・。

 ご存知のようにヨーダーはカール・バルトのもとで博士をやったのだが、ヨーダーにとっての「倫理」は教義学と倫理学のような関係(バルト)と言うより、もっとイエスの生とその延長と言うアナバプティスト神学的伝統に基づくものだったのではないか。

 その点においてライトの史的イエスの探求が歴史的・神学的・教会実践的総合の中で提示するあり方と、より近い相貌を帯びたのではないかと思う。

 最後にウォルター・ブルッゲマンとの絡みについても一言。

 ブルッゲマンが『預言者』から取り出そうとしている「モデル」は、「教会の文化幽閉」問題に対する批判であり、カウンター・カルチャー志向であったのではなかろうか。

 彼の場合は旧約聖書学者であったため『預言者』が最も有効なモデルとして提示されたのだが、ヨーダーの場合は『イエス(の政治)』の方が当然より高位のモデルとして位置づけられるだろう。
 
 (蛇足だが、ライトの場合は最早『イエスの政治』はモデルではなく、神の国宣教の終末的実現と、聖霊に推進された使徒・教会の遂行となるわけだろう。)


※長くなりました。これにて完。ようやく「二人目の神学者」を物色できます。

2015年4月11日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年4月12日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ローマ人への手紙 15:1-13

説 教 題 「現代人の渇望③関係」
説 教 者 小嶋崇 牧師


《現代キリスト教入門》4

2015年4月6日月曜日

(4)34年ぶりの再会

昨日のイースター礼拝のこと。

急なことであったが、アズベリー神学校で一緒だったSE夫妻が出席された。


何でも2週間ほどの「第2のハネームーン旅行」だそうな。

しかし驚いたのは長い間コンタクトがなくとも筆者の名前を覚えていたこと。

(何しろこちらはなかなか名前を覚えていない方なので、Sの名は何とか覚えていたが、姓は記憶があいまいであった。)


Sはどちらかと言うと「やんちゃ」の感じで、勉強よりもテニスとか色々活発に動き回るのが好きで、とてもアカデミックなタイプには見えなかった。



が、その後は教師/研究者(キリスト教青少年教育・伝道)の道に進み、英国、ニュージーランド、シンガポールなど国際的な生活をしている。

礼拝後の雑談ではまもなく、今関心持っている「神学的」話題となり、James K. A. Smithについて共に関心を持っていることが分かった。


Sの関心領域はLiturgical Theologyとのことだが、社会学や文化人類学にも関心があり、Christian Smithにも結構関心があることが分かった。
(クリスチャン・スミスの『ビブリシズム』については当ブログでも何度か取り上げた。)

筆者の知らない情報として「メモメモ」したのは、スタンフォード大文化人類学教授Tanya M. LuhrmannのWhen God Talks Backと言う本だ。

どうも・・・
世俗化・世俗主義の現代にあって、「神と会話ができる」霊性とはありか、
と言うことを福音主義キリスト者(ヴィンヤード・グループ)の中に入って調査した結果を本にしたものらしい。

と言うことでこの本のテーマが最近の関心に共振して、少しリサーチしているところである。

なかなか刺激的な「再開」の機会となった。


※「34ぶりの再会」は、2年前、別のアズベリー神学校時代の友人との再会を真似した安直なタイトルとなった。

(5)現代の英語圏神学者①、スタンレー・ハウアーワス余録

このシリーズのトップバッターに「スタンレー・ハウアーワス」を選んだら、MH氏から以下のようなコメントとリクエストをいただいた。
ハウアーワス教授とペアで語られることが多いヨーダー先生、また、ハウアーワス教授・ヨーダー・ブルッゲマンの3しゃにかんするTaka牧師の整理が聞きたかったりして。

と言うことでどこまでできるかやってみましょう。

先ずは情報の少ない「ウォルター・ブルッゲマン(あるいはブリュッゲマン)」から・・・。


「ウォルター・ブルッゲマン」で記憶の糸を辿ると、アズベリー神学校時代のレイマン(Fred. D. Layman)教授の「聖書神学」クラス付近の記憶領域に入る。

神学遍歴⑤で『中間時代の神学』クラスについて書いたが、教授の名前は書いていなかった。
恐らくその時点でも忘れていたのだろう。

今回この件で名前を思い出そうとして一苦労した。レイマンを最初Lehmanで検索したのだが辿りつかなかった。

しょうがないので「こう言う機会だから、旧い講義ノートでも探してみてみよう」とあっちこっちひっくり返したら、何とか見つかりました。

『中間時代の神学』で書いたように、その頃の記憶では何と言っても「James Muilenburg」の印象が強かったようです。

(と、この時点ではまだ繋がっていないのですが、実はJames Muilenburgはウォルター・ブルッゲマンの師匠なのです。後ほど紹介。)

BT605: OT Theologyクラスでは、レイマン教授が指定した専門雑誌等論文から選んで、「梗概(シノプシス)」を書く、と言う課題があり筆者が選んだ中に、ブルッゲマンもマイレンバーグも見つかりました。
Walter Brueggemann, "The Kerygma of Deuteronomic Historian." Interpretation, vol. 22, no. 4, pp.387-402.
James Muilenberg, "Imago Dei." The Review of Religion, vol. 2, no. 4, pp.392-406.


さて、アズベリー時代に筆者はウォルター・ブルッゲマンをどう評価していたのか・・・。

簡単ですが、「まだレーダーの外の方」だったように思います。

かと言って無視していたわけではありません。
恐らくこの時期にThe Prophetic Imagination (1978年のペーパーバック初版)を購入していますから、それなりにその後の活躍を予感していたのかもしれません。

ヨーダーのThe Politics of Jesus (1979年のペーパーバック第6版)もこの頃買ったと思われますが、ヨーダーの方が「どう整理していいのか困る」と言う点では一枚上手だったと思います。



※せっかくですので、お世話になったレイマン教授のネットから入手可能な論文を紹介しておきます。


ウォルター・ブルッゲマンはNYのユニオン神学校で神学博士を修めますが、その指導にあたったのがジェームズ・マイレンバーグ教授でした。

なかなかの名物教授だったようで、アメリカの最も著名なキリスト者著作家の一人、フレデリック・ビークナー(Frederick Buechner)が「満杯の教室でまるで旧約聖書の世界がそこに出現したかのように“演じる”マイレンバーグ教授がいた」頃のことを回想しています。


※(興味のある方に)ブルッゲマンがビークナーをインタヴューしている動画


どうやらヨーダーのことを続けて書くには長い記事になってしまいましたので、「続編」で取り上げることにいたします。

2015年4月4日土曜日

明日の礼拝案内

イースター主日礼拝
 
2015年4月5日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネの福音書 19:41-
20:31
説 教 題 「逆転無罪」
説 教 者 小嶋崇 牧師


※昼食会があります。