2017年4月26日水曜日

(5)ペテロの役割

ほとんど毎日のように、昼食後1時間程度の散歩に出る。

たいてい散歩のお供となるのが「音声ファイル(mp3)」だ。

音楽ではなく、様々な講演を歩きながら聴く。

ジャンルはある程度限られていて、多分一番多いのは聖書学、特に新約聖書学の講演だ。


今日はベイラー大学(アメリカ、テキサス州)に招かれて講演した、マーカス・ボックミュール教授


という題の講演だ。(聴きたい方は→音声ファイル

これを聴いたわけだが思いのほか面白かったので記事にしてアップすることにした。

ペテロが「イエス伝承」と「パウロ伝承」を繋ぐ役割を持っていたのではないか、ということを4人の高名な研究者(エド・サンダース、ジェームズ・ダン、ドミニク・クロッサン、N.T.ライト)の多大な研究の中からペテロのこの可能性を割り出すための資料を取り出し、それを評価する・・・という内容の講演だ。

個人的な印象を言うと、
新約聖書研究というと幾つかの独立峰的研究課題(ヨハネ文書、黙示録、ヘブル書、など)を除くと、大半は(キリスト教の成立の二大貢献者と目される)「イエス研究」と「パウロ研究」になり、いわばこの二つがメジャー・トピックのようになっている。 

だからボックミュールのこの二大人物を橋渡す役割を果たしたと思われる「ペテロ研究」は、半分メジャーで面白いのではないか・・・などと思った次第。

さて、英語を「聴く」のはダメな方は、この講演の内容が出版された本の1章として納められている。


Markus Bockmuehl,The Remembered Peter: In Ancient Reception and Modern Debate.
(WUNT I 262; Tübingen: Mohr-Siebeck, 2010). 
 
ちょっと専門的な内容なのでなんだが、ざっと概観するだけなら、二つの書評を参考にすると良いのではないか。
 
(1)簡単な方の書評(セメリオス所収) 
 
(2)かなり本格的な書評(このうちの[6]がこの講演に該当するもの)

2017年4月22日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年4月23日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:18-4:1
説 教 題 「主にある妻夫、子親関係」
説 教 者 小嶋崇 牧師


コロサイ(38)/パウロ書簡の学び(155)


「キリストにある」生き方⑦
 妻と夫、子と親  (コロサイ3:18-21)

2017年4月21日金曜日

今日のツイート 2017/4/21

口角泡を飛ばして
地球は平らか丸いか
言い合う喧嘩


最後にどちらが真理か
を決めるのは
議論のやり方の上手い方


*ブロデリック・グリアーさんは牧師。自分のウェブサイトを持っていて、ガーディアン誌やハッフィントンポスト誌などに寄稿しています。

2017年4月15日土曜日

明日の礼拝案内

イースター主日礼拝

2017年4月16日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 17:22-31

説 教 題 「命と息とすべてのもの」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※持寄り昼食会があります

2017年4月8日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年4月9日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネ福音書 12:12-16
説 教 題 「真の『ユダヤ人の王』とは」

説 教 者 小嶋崇 牧師

「真理」4

2017年4月7日金曜日

今日のツイート 2017/4/7

まーちょっと首をかしげる向きもあるかもしれませんが・・・。


2017年4月4日火曜日

(5)ひょんなことから繋がった

いつもよりさらに雑文の類になるがあしからず。

今朝たまたまYahooのニュースを見ていて眼に入ったのがこのニュースだった。

Guam Catholic Church sees a "perfect storm" of controversy

実は目に留まったのは「パーフェクト・ストーム」という表現だった。(カトリック教会内の問題ではなかった。 )

というのも、この4月から「N.T.ライトFB読書会」では『シンプリー・ジーザス』を読み始めたのだが、その3章に「パーフェクト・ストーム」と題が付けられているのだ。

それで、こちらのYahooニュースの場合はどのようにこの比喩表現を使っているのだろう、と興味が湧いたのだ。

読み進めるとすぐ、the Neocatechumenal Way lay group(以後 The Wayなどと略称が用いられている)、というのが出てくる。

はて、初耳なのかなー、と調べずにそのまま読み進めたが、このグループ/運動が世界大でカトリック教会内に様々亀裂や混乱をおこしているらしいことが感じ取れた。

では日本ではこの動きはどのように紹介されているのだろう・・・と先ずは「Neocatechumenal Way」の訳語を探してみた。

定訳なのかどうかは分からないが、「新求道期間の道=新求道共同体」、が求める訳語らしかった。


検索して幾つか記事を読んでみたが、その中で「カトリック高松教区の問題」がどうやら様々な記事の震源地らしいことが分かった。

問題が起こった期間司教であった「深堀司教」から、問題解決のため後任となった「溝部司教」への経緯を次ぎの二つの記事(説教スピーチ?)からうかがい知った。
・『お別れの言葉

・『溝部脩司教様基調講話

特に溝部司教のまるで「プロフェッショナル 仕事の流儀」ばりの「ミッションを遂行する」明晰さに感じ入った。

へーこんな人がいたんだ。もっと早く知っていればなー・・・と思って今度は「溝部司教」をターゲットに検索して行くと色々面白いことが分かった。

溝部司教は最後に京都で「望洋庵」という施設を作り、特に青年たちを指導した、ということ。

その間「京都新聞」の『ソフィア』というコラムに何本か短いエッセイを寄せていること。

もう一度行きたい土地(2012年12月23日)
「共同体」に燃えた青春(2013年9月1日)
出会いは偶然か、必然か(2013年12月20日)

面白い出会いがあった日であった・・・。

2017年4月1日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年4月2日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:41-47
説 教 題 「熱心にしていたこと 2」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2017年3月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年3月26日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 マタイの福音書 6:5-15
説 教 題 「罪の赦しの宣言」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(2)

2017年3月18日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年3月19日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:1-17
説 教 題 「キリストの体として集る時」
説 教 者 小嶋崇 牧師


コロサイ(37)/パウロ書簡の学び(154)
 

「キリストにある」生き方⑥
 教えと諭しと賛美と感謝と頌栄  (コロサイ3:15-17)

2017年3月16日木曜日

(5)タカ牧師のRR 2017/3/16

以前「タカ牧師のセブン」というのをやっていました。
(別にもうやめてしまったというわけではありませんが・・・。)

最近筆者と年齢の近い友人と会食しながらの話題の中で「英語を読む機会が減った」みたいなのがありました。

彼らはビジネス畑の人たちで、英語のものを読まないわけではないのですが、それでもやはり「ビジネス関連」からトピックや記事を探すことが多いみたいです。

というわけで牧師でありながら(かなり激しい)雑食系である筆者が時々「これ面白いよ。読んでみたら」と(高い確率でネットからの)推薦記事をお約束しました。

これって「タカ牧師のセブン」のカスタマイズ版ですね。

それならこの際ブログにも・・・と思った次第。

推薦記事のポイントは:
英語記事
②ビジネス畑の人へ異視点を提供するような
(どちらかというと)中年男性が読みたそうな
を規準に選んでみます。

ところで「タカ牧師のRR」のRRとは、Recommended Reading、の略です。

さて最初の記事なのですが、ジャンルから言うと《メンタルヘルス》になりますか・・・。

中年男性の健康リスク問題の第一

The biggest threat facing middle-age men isn’t smoking or obesity. It’s loneliness.


ということだそうです。


良かったら皆さんもどうぞ。

総ワード数: 約2500
英語レベル: 中(5段階の2~3)

2017年3月11日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年3月12日(日) 午前10時30分

朗読箇所 エペソ人への手紙 5:6-20
説 教 題 「光の子として歩む」

説 教 者 小嶋崇 牧師

「真理」3


あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――
          (エペソ人への手紙5章8-9節、新共同訳)
 

今日のツイート 2017/3/11

東日本大震災から6年のこの日。

ですが、ツイートは何か反・緊張です。

駅のプラットフォームに「Seven Sisters」という看板が見えます。

シスターたちが何人いたのか知りませんが、看板に合わせて七人でフレームしたのかも分かりません・・・。

いずれにしても「偶然のなせるわざ」なのでしょう。

「Seven Sisters」とは何なのか・・・場所だとするとここではないかと思います。

2017年3月9日木曜日

今日のツイート 2017/3/9

デーヴィッド・コンドン(この記事でも紹介しました)が「ツイッター神学校」というのを始めました。


第一回目は合計50個のツイートです。

テーマは「伝統(tradition)」

主に北米における福音派の神学的動向を幾つかの主要な要素(「聖書無誤論」「文化戦争」)を軸に分析し、プロテスタントの「反・伝統」的な性格が(今や)伝統に傾斜・回帰し始めている「神学的現在地点」を捉えています。

そこで「伝統」とどう対峙するか、という問題提起にルドルフ・ブルトマンの「ケーリュグマ的視点」を参照しています。(ツイートでいうと#41~#50)

非常にコンパクトにまとめられていて参考になります。
※しかし筆者の個人的な印象から言うと、分析と現状把握(#6~#40) は優れていると思いますが、「ブルトマンの扱い方」(#41~#50)に移行するにはまだかなり距離があるように思われます。

いずれにしても、(筆者の勝手なレッテルですが)「ポスト福音主義」の若手神学者の台頭株の一人と目されるコンドンの「神学的問題の捉え方」は傾聴に値すると思います。

2017年3月6日月曜日

(1)あなたは「神学者」ですか?

(警告: これはかる~い読み物です。)

あるいは「あなたも神学してますか?」と言い換えてもいい。

でも誤解を避けるために・・・

 (1)「なぜこうなのか」と物事の由来や因果関係を考える時に「神」ファクターを(ある程度)当たり前のように入れて考える(意識する)

 (2)上記の思考習慣を職業的に専門的に行っている

と整理すると、(2)が「神学者」と呼ばれる人たちで、(1)がその他多くの方々、となるのではないか。

(1)は拡大解釈すれば特に「信仰」や「宗教」を持たない方も、時と場合によっては「神学している」ことになると思う。

(1)のタイプの方々の「神学的思考」は生活の隅々で発生したりもするが、時間をかけて工夫して考える(省察する)までに至らないので未発達・未整理のままということが多々あろう。

これに対して(2)のタイプの方々は様々な方面から浮上してきた「神学的問い」をその方々が属する伝統に蓄積された文書類を参照しながらそれらの問いを深め、関心を持つ方々にその成果を問う・・・ことを生業としていることが多い。
※英語の方の表現で、「神学者は(生きている人よりも)(神学書を残した)死んだ人々と仲良くしている人たちだ。」のような言われ方がある。

これ以外、つまり(1)でも(2)でもない方々は差し詰め「世俗主義」下の温室育ちで、意図的にそうしているのではなく、たまたま「神」ファクターが全く選択肢にない人々、ということになろうか・・・。
※そのような方が実際にいることを電話カウンセリングで知りました。

2017年3月4日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年3月5日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:41-47
説 教 題 「熱心にしていたこと 1」
説 教 者 小嶋崇 牧師

彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(使徒2:42、新共同訳)
They all gave full attention to the teaching of the apostles and to the common life, to the breaking of bread and the prayers. (KNT)
※聖餐式があります。

2017年3月1日水曜日

(3)隠れキリシタンになる前に 余波1(続)

この「隠れキリシタンになる前に」シリーズ第3弾目の記事となります。


第1回目では、最後に「今後の展開では、後日談や発展的考察が出てくるかもしれません。」と書いておきました。

一応少し動きがあり、何人かが集まって「この事態」をどう見るか意見交換する連絡会のようなものを構想しています。今月にはその最初の集まりが計画されています。

(もしこのシリーズ記事をご覧になり、「中に入って」日本の教会の将来を考えたい、という方がありましたら「先ずは」是非ご連絡ください。問合せ: sugamo_seisen*yahoo.co.jp)


前回(余波1)最後に予告のようなことを書きました。
「牧会の現場」から上がってくる「ケース(例証)」で巨大ジグソーパズルの一ピースを埋めることが出来るかどうか試してみたい。
どちらかと言うか、ほとんどと言うか、筆者は大局的な物言い(要するに「大風呂敷」)が多いです。

具体的なケース(例証)で補強するのが得意ではない。(要するにモノグサ)

今回トライするのは事実具体例なのですが、相談を受けた者の守秘義務に抵触しない範囲で表現しなければなりませんので、予めご了承ください。

(1) Aさんのケース

仮にその方をAさんと呼びます。

Aさんは地方の出身で数年前東京での暮らしにあこがれ、職も得ようと希望を持って上京しました。

数ヶ月もしないうちに、目的も殆ど達せないままに、東京暮らしのストレスに疲れ果て、その悩みを誰にも相談できずに、ある日憔悴しきった表情で教会にやってきました。

その後実家に戻りましたが、地元での「良い」就職は難しく、依然として東京での暮らしと仕事の希望を持ち続けて何回か上京し、その度に教会にやって来ては様々な話をするようになりました。

先日も就職のための講習会のようなもののために上京し、終わってからやってきました。

既に何回も会って話しているので気心が知れてきたのもあったと思うのですが、「実は今回お話したいのは(仕事とかそういうものではなく、宗教的なこと)・・・」と語り始めました。

ある日の夕方、ふと海と空の風景を眺めていたとき、突然「こんな美しい風景を眺めている自分はそのうち消えてなくなるのだ」と鋭く自分と言う存在のはかなさに目覚めた、というのです。

つまり、そう言う夕暮れ時の予想もしない瞬間に「必ずくる死」の自覚が突如彼を襲ったわけです。

おそらく一瞬背筋が凍りつくような恐怖であったと思います。

彼はその恐怖の体験を誰に話すことなく、彼の身近にいる人物の中では唯一の「宗教家」である筆者にその体験を告白してみたわけです。

(2)現代人の霊的リソース

打ち明けられた「宗教家」として先ず彼に語ったことは、それは特段驚くような体験ではなく、誰でも実存的に直面する危機的瞬間であること、しかし普段はそのことを構わないように、回避したり抑圧したりしているのだ、といったような説明をして安心してもらった。

逆に筆者が興味を持ったのは、彼にはそのような基本的「宗教的疑問」に対処する「霊的リソース」が備わっていなかったのか、身近に「参照する人物(リソース・パーソン)」はいなかったのか、ということ。

彼の実家は仏教だが、仏事の習慣がある他は殆ど実存的意義はないようだった。

親しい友人ともそんな話題は話せないようだった。

相応しい類の本や教えも(その時は)思いつかなかったようだ。

彼は特に教養があるという風な感じではなく、ほぼ平均的「霊性」の持ち主のように思う。

そんな彼に突如襲った「人生のはかなさ」に対処する手立てなく狼狽しなければならない「現代の日本」とはいったい何なのだ、というのが筆者の側の疑問である。

(3)来るべき霊的荒野の風景

第1回目で「寺院消滅」を紹介した。

曲がりなりにも日本社会における現代人の霊性を支えている寺院がそして神社が今後どんどん消滅して行くとすると、Aさんのような「人生の根源的問い」「生と死の問題」がふっと沸いた時、誰が相手をすることになるのか・・・。

余波1で若年層の「孤独死」を紹介した。

筆者はそれを「事故死」になぞらえた。

Aさんの三世代前までの「霊性」は、その次の(Aさんの親)世代で次第に希薄化し、三代目で殆ど有名無実になり、より弧独に生きる若年層の「霊性的な悩み」に直接答えられるような「霊的リソース」ではなくなっている現状をどうしたらいいのか。

最近流行の「パワー・スポット」「スピリチュアル」現象の要因のひとつは、葬儀や墓という「死」に伴う儀礼的宗教として「世代間を繋いできた」仏教や神道の若年層における空洞化をあらわしているのではないか・・・。

この現代的状況を「カルトの問題」と合わせて考えると、ある一つの像がおぼろげながら浮かんでくる。

今回はほんのり示唆するだけにとどまるが、既に「オウム真理教」関連で書いていることを挙げてく。


 (1)大田俊寛の指摘(筆者のブログ記事からの抜粋と、東洋経済誌記事の抜粋)
大田の「宗教学的人間観」が、第1章 近代における「宗教」の位置、1 そもそも「宗教」とは何か、で紹介されている。

 人間は、生まれ、育ち、老い、最後には死を迎える。死によって肉体は潰え、すべては無に帰るかのように見える。しかし、実はそうではない。死んだ人間が生きているあいだに作り上げた財産や、彼が伝達してきた知識は、残された者たちのなかでなおも生き続けるからである。この意味において人間の生は、その死後もなお存続すると言わなければならない。
 このように一人の人間の一生は、その誕生で始まり、肉体的な死を持って終わるわけではない。その人生は実は、生まれる前からすでに始まっており、死後もなお継続される。人間は、他者との「つながり」の中で生きてゆく存在なのである。(強調は著者、28ページ)

オカルト思想が栄え続けるワケ

――では、最後の質問です。霊性進化論というオカルト思想は、なぜ社会に蔓延し続けるのでしょうか?
大きな原因として、現代社会における霊魂観の貧困化、より具体的には、霊魂観の個人主義化、さらにはオカルト化、といった問題があると思います。
古今東西の諸文化の中で、「霊魂」に相当する概念を持たなかったものは存在しないと言っていいでしょうし、また近代以前の社会では、さまざまなバリエーションがあったにせよ、宗教と社会、宗教と政治が、なんらかの形で密接に関連していました。人間が死んだらどうなるのか、死者をどのように弔い、彼らの遺産をどのように継承していくのかといった事柄に関して、社会的な合意やルールが存在していたわけです。

――つまり、「死」がよりパブリックなものであったと。
はい。というより、むしろそれは、公共性の中心を占める事柄でした。ところがヨーロッパにおいて、宗教改革後の16~17世紀に宗教戦争が頻発し、それまで信仰によって一体化を保っていた社会が、むしろ信仰をめぐって争いを起こすという事態が引き起こされてしまった。そうした中で、どのような形の信仰が正しいのかを公的には決定しないという合意が成立し、それが近代における「政教分離」原則のバックボーンになっています。以降、霊魂観や信仰をめぐる問題が、公の場で議論されることは少なくなりました。
ただ、忘れてならないのは、現在のように「死後の世界」や「弔いの作法」に関する社会的な共通了解が存在しない状況というのは、長い人類の歴史においても、きわめて特異的な事態であるということです。政教分離をはじめ、近代の諸原則は、確かに一定以上の必然性や必要性から生みだされたものであり、それらを軽視することはできません。しかし、そこになんの問題も存在しないかといえば、そうではない。個々の人間の死に対して社会がどう向き合うのかということは、今も決して避けて通ることができない問題です。

――その空白を突いているのが、オカルト思想ということでしょうか?
そうですね。こうした状況に対して、本来であればまず、宗教の歴史や構造についての体系的な認識方法を提示し、問題の所在を明らかにする必要があるのですが、残念ながら現在の宗教学は、その任を十分には担えていません。その結果、一部の人間が考え出した恣意的な霊魂観が大手を振ってまかり通るという状況を許してしまったのです。霊性進化論は、そうした霊魂観のひとつであると言えます。そこでは、霊魂の存在が、社会や共同体という具体的基盤を喪失して個人主義化するとともに、「宇宙」や「霊界」という抽象的存在と直結するものととらえられるようになった。たとえば「宇宙における私の魂の霊的ステージ」などといった考え方ですね。こうして現代の霊魂観は、誇大妄想的でオカルト的な性質を帯びるようになったのです。
このような霊魂観を克服するためには、「魂とは何か」という問題をあらためて公に論じ合い、社会的合意を形成しなければならないでしょう。しかしそれは、いつ、どのような仕方で可能なのか。率直に申し上げて、現状では、私にも見通しがあるわけではありません。ただ、その前段階として、先ほど述べたように、現在の社会が抱えている困難や弱点の構造を、可能なかぎり明確化しておく必要があるのだろうと考えています。

 (2)オウム真理教に入門した「宗形真紀子」の宗教環境

宗形の育った宗教教育環境の欠如、「霊性的空白」がオウムに追いやったのではないか、と書いた。


(まだ続くと思う)

2017年2月25日土曜日

今日のツイート 2017/2/25

トランプ大統領となって一ヶ月が過ぎた。

初期の混乱がひと段落して鎮静化・・・に向かうとはとても思えない。

トランプ支持の「キリスト教原理主義=福音派」が定着して行くのではないか、と危惧しているところ。



明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年2月26日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 マタイの福音書 6:5-15
説 教 題 「祈りと実践」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(1)

2017年2月24日金曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、8

また前回から大分間が空いてしまいました。

実は先日『聖書信仰と諸問題』を購入しました。

この書はいま解説している『聖書信仰』をかなり意識して出版された本です。

今後の解説は、表立って言及はしないと思いますが、多少なりともこの聖書信仰と諸問題』を意識して書き進めることになるかと思います。


さて 、今回扱う6章「ファンダメンタリズム」は脚注も入れると20ページあり、少し長いので2回に分けようと思います。

6章 「ファンダメンタリズム」(88-108) 
 A 「英米ー明らかに異なる二つの流れ」(88-94)

イントロに
・・・1920年代、保守的な神学者たちが宣言した「五つのファンダメンタル」となった。後の十二冊からなるトラクトシリーズ『ファンダメンタルズ』は、篤志家の協力を得て、無料で全世界に三百万部供給されたが、自由主義に対抗するファンダメンタリズムの基本的な教えを説明している。(88ページ)
とあるのですが、恐らく名前としてはその存在を知っている人でも、「現物」を所有していたり、見たことのある人は少ないかもしれません。(ネットには画像がありますが・・・。)


実はこの『ファンダメンタルズ』のⅦとⅧは筆者が(確か)このことと縁の深い某神学校の古本市で入手したものです。(一冊が25セントでした。)

ついでに目次のところをスキャンしたものをお見せします。



前々から「自慢したかった」のですが機会がなかった。(一体何の自慢になるのだ、と言われそうですがやはり「歴史」を証言するハードな証拠をもっていることはそれなりに・・・。)

さて、英米での違いを浮き彫りにする「証言」として、ジェームズ・オアが紹介されています。(90ページ)
神の啓示の書物としての聖書を守ろうとして「微細なデータに至るまで聖書には『誤りがない』と実証しなければ、啓示宗教への信頼全体が崩れてしまうとまで主張するのは、きわめて自殺的な行為である。」
と引用しています。

脚注によると、この引用は『啓示と霊感(Revelation and Inspiration)』(1910年)からだそうです。(リンクはオアーの著作の全文、フリーです。)

以下は周辺も含めた原文の引用ですが、オアの議論は「霊感の教理」は「啓示の事実・真実」に基づくのでありその逆ではない、というものです。

もしそれを逆転させて、しかも「無誤論」のような形で「キリスト教の真理性」を主張・証明しようとするならば、もしそれが実証されない時、「無誤論」とともに「キリスト教の真理性」の主張まで崩壊してしまう、という危惧に聞こえます。

オアが「the right method」に対して「The older method」と呼んでいる「霊感を先に論証することで啓示を証明する」アプローチのいわば名残のようなものとして「無誤論」が紹介されています。

そしてこのthe right method」を取るならば「無誤論」を必要としないことを「福音書」のケースに即して語っています。

福音書記者がたとい「霊感」されたとしなくても、彼らが記述した「人物」が、確かに「超自然的主張」をしそれが言葉と行いによって確かめられた「人物」として記録されているならば、(私たちは)福音書を通してその「人物」を信じることが出来るし、その方が「霊感された福音書を先ず信じた上でその人物を信じる」よりもはるかに無理がない。


「無誤な聖書」を主張していたホッジやウォーフィールドでさえ、「新約聖書」という「啓示の記録」より「イエス・キリストの啓示の事実」の方が先に存在し、そして仮に神が「完璧に無誤な啓示の記録」を与えなかったとしても、啓示の事実に基づくキリスト教は、そのような霊感された書物の存在に左右されずに成立したはずだ、と脚注[1]で言及しています。
I. Revelation and Inspiration — Their Relations.

1. It will have been seen that it is sought in the preceding pages to approach the subject of inspiration through that of revelation. This seems the right method to pursue. The doctrine of inspiration grows out of that of revelation, and can only be made intelligible through the latter. The older method was to prove first the inspiration (by historical evidence, miracles, claims of writers), then through that establish the revelation. This view still finds an echo in the note sometimes heard — ' If the inspiration of the Bible (commonly some theory of inspiration) be given up, what have we left to hold by ? ' It is urged, e.g., that unless we can demonstrate what is called the ' inerrancy' of the Biblical record, down even to its minutest details, the whole edifice of belief in revealed religion falls to the ground. This, on the face of it, is a most suicidal position for any defender of revelation to take up. It is certainly a much easier matter to prove the reality of a divine revelation in the history of Israel, or in Christ, than it is to prove the inerrant inspiration of every part of the record through which that revelation has come to us.

Grant the Gospels to be only ordinary historical documents — trustworthy records of the life of Christ, apart from any special inspiration in their authors — we should still, one may contend, be shut up as much as ever to the belief that the Person whose words and works they narrate was One who made super-human claims, and whose character, words, and deeds attested the truth of these claims. [1] It is assuredly easier to believe that Jesus spoke and acted in the way the Gospels declare Him to have done, than to prove that Mark and Luke possessed an exceptional inspiration in the composition of their writings — though, as has been already stated, there is the best reason for believing that they did.

[1] This has often been put as strongly as it can be by the stoutest defenders of the infallibility of Scripture. Cf., e.g., Bannerman, Inspiration: the Infallible Truth and Divine Authority of the Holy Scriptures, pp, 18 ff. Drs. Hodge and Warfield, arguing for an 'errorless Scripture,' write: 'Nor should we ever allow it to be believed that the truth of Christianity depends upon any doctrine of inspiration whatever. Revelation came in large part before the record of it, and the Christian Church before the New Testament Scriptures. Inspiration can have no meaning if Christianity is not true, but Christianity would be true and divine, and being so, would stand, even if God had not been pleased to give us, in addition to his revelation of saving truth, an infallible record of that revelation absolutely errorless by means of inspiration' (Presby. R$v. t April 1881, p. 227).
藤本氏は他にも「英米二つの流れ」の由来や背景を指摘していますが、やはりこの辺を丹念に検証しながら、聖書の性格や意義・役割を考えて行く必要があるのではないか、と思わされた次第です。

(次回へ)

2017年2月22日水曜日

(3)隠れキリシタンになる前に 余波1

昨日、筆者が所属する教会のグループである聖泉連合の教役者会があった。

昨日の場合は普段より議題が多かった。

しかし北から(盛岡)南から(名古屋)集まる面々の会議に滑り込むペースはいつものように殆ど変わらなかった(遅かった)。

(そのときは余り意識していなかったが)筆者が司会を買って出て、会議のペースを上げるため矢継ぎ早に冗談めいたことや、いくらか挑発的なコメントをした。

弾みをつけたかったのだと思う。

「普段と違う!!」ということで何人かの人から「今日は○○先生は元気がいいですね」と驚きとも皮肉とも取れる感想をいただいた。

結局5時間ほど6人の教役者の方々と一緒に時間を過ごしたわけだが、その間何度か言われた「普段と違う!!」「元気がいい!!」類のコメントを家に持ち帰って反省する羽目になった。

明け方うつらうつらしながら一つの解を得た。

と思ったので、この記事を書き始めたのである。

つまり、筆者の「普段と違う」言動、その雰囲気を意識下で醸成していたのは、先日ブログ記事で「隠れキリシタンになる前に」と書いた事柄にある、と。

初めは最近意識するようになった「老人性イライラ」がハイテンションに形を取って出たのかな、と思った。

でも考えているうちに、「教会が衰退して行くのをただ傍観している現状(事実と言うよりそのように見える状態)」に対する腹立たしさのようなものがふつふつと沸いていたのかもしれない、と思い至った。

そこまで思い至って過日の言動を省みるに、どうやら筆者は何らかの「目を覚まさせる」ような物言いを画策していたみたいだ。

(少々失礼な言葉で)仲間の教役者たちのほっぺたを引っ叩くような・・・。

 「このまま事態を放置していていいのか!舟は沈み始めているぞ!」

普段は至って「常識を大事にする人」のように振舞っているのに、突然「覚醒者」ぶったことを言うのは憚られた。それで通路を変え、別なトピックで仲間たちに発破をかけるような言動をしたのではないかと・・・。



さて導入が長くなりすぎた。

(1) 幾つかの線が交差する

(3)隠れキリシタンになる前に」では「ある方」が属する「一プロテスタント教会の衰退」とその取り組み(あるいはその無策)を聞いた範囲で、しかし幾らか筆者の知見を付加・脚色してまとめた。

書いてから思ったのだが、まだ別の幾つもの事象から線を引っ張ってきて「この事態」がかかえている問題に交差させることが出来る、と。

 (A)「お一人様」現象

 ※かつてこのブログでも「お一人様クリスチャン」で書いた事柄。

 (B)「シーライズム」(ロバート・ベラー他『心の習慣』、ミヒャエル・フス『愛の力に祈る――宗教間対話の現状について』8頁の脚注20に簡単な「シーライズム」の紹介がある。)
 
 (C)「新宗教の信者激減 10年後に消滅する教団も

 「・・・日本の新宗教が信者を増やしたのは、高度成長期に地方から都会に出てきた人を取り込めたことにある。希薄になった人の繋がりを宗教に求めたからだ。しかし、現代の若者は何か困ればスマホがあり、人間関係はSNSで築く。それでは宗教の出る幕がない・・・」

 (D)「東京23区だけで238人 20~30代の『孤独死』なぜ増えた

 「・・・若者の孤独死が増えたのは契約、派遣社員、フリーターの増加も一因です。彼らが数日間、無断欠勤したぐらいでは、会社は心配してくれない。・・・一人っ子が増え、一人でいる方がラク、友達関係も希薄という若者が増えたせいもある。」

(2)「既成宗教団体」の衰退(あるいは消滅)がもたらすもの

(1)で挙げた「引っ張ってきて交差させることが出来る線」はまだあるが、要するに「隠れキリシタンになる前に」でも紹介した中外日報の「人口減少社会」記事にもあるように、
今回の国勢調査で、高齢者や外国人のほかに5年前と比較して増加しているのは世帯数だ。総人口減少にもかかわらず、世帯数は2010年の時点より145万世帯増えて、1世帯当たり2・38人となった。1970年は3・45人だから、世帯規模も著しく縮小した。
人口減少にもかかわらず「世帯数の増加」つまりそれは「お一人様」現象として出てきていることの社会構造変化面でもあるだろう。

しかし「お一人様」現象が単に「個人のライフ・スタイル」選択にとどまらず、戦後の高度経済成長期の都市化、人口集中という構造変化、さらにポスト経済成長期・ポストバブル期の人口の大都市一極集中という社会構造的変化と重ね合わせると何が言えるだろうか。

一方で既成宗教団体の衰退・(近未来の)消滅(可能性)があり、もう一方で「個人化・孤独化」の深化がある。

つまり、人と人を結ぶ絆帯の役割を担ってきた伝統的宗教(仏教寺院・神社)が近代化によって次第に衰退し、代わって様々な新興宗教が近代社会のひずみを吸収してきた。

しかし、ここにきてそれらの新興宗教ももはや「既成宗教」となり、新しい社会の動向に相応しく人々の宗教的ニーズに対応しきれていない状況が明確になって来ている。

(殆どのキリスト教団体の趨勢はこの流れの中で左右すると思われる。)

衰退して行く既成宗教、そして新興したが今や既成となった宗教団体が対応できずに、口を開けた隙間がどんどん広がっている(ように見える)。


この隙間を埋めるように様々な新々宗教が参入するが、一部巨大化・カルト化するが残り多くは泡沫現象として消えて行く。

既成宗教を置き換えるような勢いにはなっていかない。

(1)(D)の「若者の孤独死」増加はいわば「パックリ開いたクレバスに落下する事故」のような印象で筆者には受け止められた。



そんな図が(以上挙げた点を結んだだけでも)描けるのではないか・・・。


もちろんこれは「単なる図」であって、「説得力のある絵」ではない。

真実はディテールで検証されなければならないことは言うまでもない。


次回「牧会の現場」から上がってくる「ケース(例証)」で巨大ジグソーパズルの一ピースを埋めることが出来るかどうか試してみたい。

2017年2月20日月曜日

(5)『スキャンダル・オブ・ザ・エヴァンジェリカル・マインド』の今

米国福音派はトランプ大統領の隆盛と共にもはや「キリスト教原理主義」とほぼ重なって見えるようになってきている観がある。

実際はもっと複雑な内部事情があると思うのだが、恐らく「外の人」にそれを説明することはかなり困難になって来ているかもしれない。

そんな兆候の一つともされかねないのが小論壇誌『ブックス&カルチャー』の閉巻だ。
このツイートによれば「大衆福音主義迎合タイプの映画は続編を出すが、一級の(小)論壇誌は廃刊に追い込まれる。」、ということになるのだろう。

実はツイッターを始めて間もなく、この『ブックス&カルチャー』のツイッター・アカウントをフォローしてきた。

しかし、やりくりが大変そうなのが伝わっていた。

ツイートの数がかなり減って行った。

そして2016年を最後に「店を畳んだ」。

そういった事どもを思い返したのは、このツイートだ。

(順番から言えば最初にこのツイートを掲げるべきなのだが・・・。)

いやー、この記事本当面白かった。

こんなツイートもしたくらい・・・。

この記事の中で、ジョン・シュマルツバウアーが、『ブックス&カルチャー』を編集に携わってきたジョン・ウィルソンが(標題に使った)マーク・ノルのThe Scandal of the Evangelical Mind (1995年)に言及している部分を紹介している。

Like many little magazines, Books & Culture was a response to a problem. As Wilson remarked in a recent podcast, "It was not accidental that The Scandal of the Evangelical Mind came out in '94 and the first issue of B&C in '95." Lamenting the persistence of anti-intellectualism within American evangelicalism, Scandal was an "epistle from a wounded lover," articulating Mark Noll's "hope that we American evangelicals might yet worship God with our minds."
どうやら『米国福音主義の知的生活・文化』は退潮傾向にあるといわねばならないのだろう。
 

2017年2月19日日曜日

(3)隠れキリシタンになる前に 20年後(?)の日本の教会を見据えて

論文の題めいた投稿記事ですが、先日ある方のところに行って聞いた話を基にしています。

いくらか脚色がないわけではありませんが、この種の物言いは余り正面切って話されることがないので、多少は許されるかなと思っています。

「20年後」としましたが、10年後かもしれないし、あるいは逆に30年後かもしれない「近未来予測」というか悲観的予測に基づいたシナリオと申しますか・・・。


その方はあるプロテスタント教会の教職をしています。

その教会の近未来に対してかなり悲観的な展望を持っておられます。

話を聞きながら、このプロテスタント教会の「辿りつつあるコース」、そして「待ち受ける将来」は半周か一周遅れで(多分カトリックも含めた)他のキリスト教会諸派の上にも降りかかるかもしれないと思っていますし、この方は自分の所属する教派だけでなく「日本のキリスト教会全体の将来」として懸念・危惧されていることを感じました。

(1)既に悪循環は始まり、それは悪化の一途を辿っている

仮に「20年」というスパンで見てみるとします。その方の教団は既に20年前に「教勢」の衰退を自覚していました。

大きな背景的要素は: 「教職者と信徒の高齢化と減少」と「青年層信徒の不在」でした。後者は「教職者候補の減少・枯渇」となって現れました。
 ※教団が特定されないように「教職者」という一般名で表記しておきます。

これらの大きな課題に対して「対策」を施さなかった訳ではないのですが、如何せんそんな簡単には状況を変えることは出来ませんでした。

教職者数が足りなくなり、一人の教職者が幾つかの教会を兼牧するようになりました。

高齢化して行く教職者に負担増となって行くことにより、教職者たちは現状維持に手一杯になり、将来の展望を拓く様な構想を抱いたり、将来への布石を打つようなことが出来なくなりました。

それから20年後、衰退が目に見えてはっきりしたところで、もう一度「打開策を練る会議」が持たれました。

しかし、20年間の不振を、打開策の不備を、客観的に分析・検証するようなことは出来ず、また今となっては「より根本的(出直し的)対策」が必要なはずなのに、会議をリードする「キーワード」や「コンセプト」は20年前から何も変わりませんでした。

20年後の打開策会議は(空洞化と言いたいところですが)「頭がストップしたまま」推移した、とのことです。(「失われた○十年」というフレーズが思い浮かびます。)

(2)別な道の模索

数値データから言っても、教団指導部の姿勢から見ても、もはや「教勢」挽回は不可能と見たこの方は悲観的な予測に基づく「生き延びる」対策を練り始めました。

それは「今ある教会の姿」を記録に残し、それをアーカイブすること。

そして「次世代」あるいは「次々世代」に生まれてくるかもしれない信仰者が(ネット経由で)これらのアーカイブされた記録を基に集会を復活させる、というものです。

このために残された時間はそれほど多くはないだろう、とこの方は見ています。

今のうちにできるだけ「日本というキリスト教信仰不毛の地」で生き延びたキリスト信者たちの「生きた信仰の記録」を残しておきたい、とこの方は考えています。

(3)話を聞いた筆者の感想

筆者もどちらかというと「悲観的予測・観測」を基に将来を構想する方ですが、この方ほどでは・・・と感じつつ話を聞かせてもらいました。

将来というのは本当に分からないことがあります。

西洋近代とともに当然と考えられた「世俗化(セキュラリゼーション)」は明らかに修正を迫られ、いまや「ポスト・セキュラー」がポストモダン西洋の合言葉となりつつあります。

ただ個々の既成宗教団体の将来を予測させる最も基本的データの一つである「人口動態変化」とそれに伴う(既に社会に定着した)宗教団体の変化は「連動する」と見ていいでしょう。

既に日本においては仏教寺院、特に地方の中小の寺は急速に消滅して行くと観測されています。


主に仏教界のニュースを扱う中外日報も、「人口減少社会」という社会のインフラからくる構造的変化を「宗教的真理の価値は変わらないとしても、伽藍や教団制度などを支える社会的基盤の変化を無視できない。」と警鐘を鳴らしています。

将来は分からない。しかしある程度分かっている社会的構造変化にはかなり抜本的な教会の構造変革を少なくともイメージしたり構想したりしておくことは必要だ、と筆者は考えています。

残念ながら、キリスト教会(だけの)「全体の推移」については統計やデータを揃えるのですが、それらを「教勢」変化とだけ捉えて、社会の動向と「連動した変化」として捉えない傾向が依然としてあるように思います。(たとえばこのようなデータ

やはり日本においてはキリスト教はあまりにも弱小すぎて、日本社会(の動向)から遊離したところで「セルフ・イメージ」や「将来像」を描きすぎているのではないか・・・と思ったりするのです。

(今回のレポートには、今後の展開では、後日談や発展的考察が出てくるかもしれません。しかし何度も言うように、将来は分からない。)

2017年2月18日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年2月19日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:1-17
説 教 題 「寛容を身に着けるとは」
説 教 者 小嶋崇 牧師


コロサイ(36)/パウロ書簡の学び(153)
 

「キリストにある」生き方⑤
 メシアの民の性格  (コロサイ3:12-14)

2017年2月11日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年2月12日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネ福音書 8:31-47
説 教 題 「真理は自由にする」
説 教 者 小嶋崇 牧師


「真理」2 
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-2、新共同訳)
 

今日のツイート 2017/2/11

日米首脳会談でのマリーン・ワン機上の両首脳の写真に対するツイートの一つです。



上の画像では安倍首相をちゃんとファーストネームで呼んでいますが・・・

(国内では)「ポチ」と揶揄されたり・・・

(英国視線からは??)「誘拐された(日本は身代金を払わなければならない???)」と皮肉られたり・・・

いろいろありますね。

[追記: 約43分後]

どうやらビル・クリストフ記者は安倍首相の姓と名とを取り間違えたと見ているようです。当方てっきり親しみをPRするためにそうしたのかと思いましたが・・・。

2017年2月9日木曜日

今日のツイート 2017/2/9

映画『沈黙』が引き金となったのかもしれないツイート。




残念ながら、最初に入信した『集団』での体験が、『福音派』で括られて次ぎの警告ツイートとなっている。

2017年2月8日水曜日

今日のツイート 2017/2/8

セオロジカル・ディファレンシズ・・・神学的見解の相違から解雇される、ということだが、
確かに出版社の雇用条件には社の神学的立場に同意することを求め、更にそれを毎年更新するという条件がウェッブサイトに掲げられてはいるが。

Hiring Considerations

The status of InterVarsity Christian Fellowship/USA as an equal opportunity employer does not prevent the organization from hiring staff based on their religious beliefs so that all staff share the same religious commitment.
Pursuant to the Civil Rights Act of 1964, Section 702 (42 U.S.C. 2000e 1(a)), InterVarsity Christian Fellowship/USA has the right to, and does, hire only candidates who agree with InterVarsity's Statement of Agreement: Purpose and Doctrinal Basis.

The Hiring Process

If you are hired, each year you will be asked to re-affirm and sign InterVarsity's Statement of Agreement.

確かに彼の神学的立場はいわゆる福音派のものとは異なっているとは言えるのだろう。恐らく問題はその相違をどの程度厳密に規定して雇用条件として運用するかではなかろうか。



というのも編集者が余りにも雇用者の神学的立場に合致することだけを戦々恐々やっていたら必要な冒険もできないだろうと思うからだ。


福音派の場合「神学的見解の相違」で神学校の教師が解雇される等の事件は度々起こるが、その度にこのようなコントロールの実質的意義はなんだろうか、と考えさせられるのだ。

2017年2月4日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年2月5日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:41-47
説 教 題 「使徒の言葉を受け入れた」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2017年1月28日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年1月29日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ヨハネの黙示録 3:7-13
説 教 題 「固く守るべきもの」
説 教 者 小嶋崇 牧師


わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい
               (黙示録3:11、新共同訳)
 

2017年1月21日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年1月22日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ルカの福音書 11:1-4
説 教 題 「試みに会わせないでください」
説 教 者 小嶋崇 牧師

いのり(10)

2017年1月20日金曜日

(5)新カルヴィン主義動向、6

たまたまこういうツイートに出会いました。

要するに「neo-Calvinism」と「"new Calvinism"」は同じではないので区別しましょう・・・という「公報」(気取りの?)ツイートというわけです。

で、違いと言うのが(アブラハム)カイパー主義者が「neo-Calvinists」と言うのはいいのですが、「new Calvinists」とされるYRRとは何ぞや、と思ったわけです。

ちょっと調べてみたらなるほど、YRRとは
Young, Restless, Reformedの頭文字を取ったわけですね。

この「新カルヴィン主義動向」の2でも少し用語の整理をしておきましたが、あらためて思うにコリン・ハンセンが2006年にクリスチャニティー・トゥデー誌に書いたこの「Young, Restless, Reformed」という記事が新カルヴィン主義がまとまった動きとして認知される端緒となった記事なのでしょうね。

この「新カルヴィニズム」運動を、定義の問題も含めてまとまって紹介している記事がこれです。

これを読めば概略ほぼ分かるので、どうやらこのシリーズもそろそろ終了としましょう。

2017年1月14日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年1月15日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:1-17
説 教 題 「出自は問題とならない」
説 教 者 小嶋崇 牧師 

コロサイ(35)/パウロ書簡の学び(152)


 「キリストにある」生き方④
  様々な出自の問題 (コロサイ3:11) 



そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。311節、新共同訳)
   
In this new humanity there is no question of "Greek and Jew," or "circumcised and uncircumcised," of "barbarian, Scythian," or "slave and free." The king is everything and in everything. (KNT)

この新しいいのちに生きる者には、国籍、人種、教育、社会的地位の違いなどは、全く問題ではありません。そんなものには何の意味もないのです。大切なのは、キリスト様を、しっかりつかんでいるかどうかです。そして、キリスト様を自分のものにする機会は、だれにも平等に与えられているのです。(リビングバイブル)
 

2017年1月10日火曜日

(4)民主主義と「ポスト真実」


民主主義社会において「ポスト真実」現象を支えているのは、有権者の政治との関わり方でもある。
・・・と(一応私が思うに)「ポスト真実」現象の一面を平易に語ってる記事です。

Ordinary citizens searching for the convenient satisfaction of immediate necessity are Donald Trump’s unwitting allies in an unseen war on democracy. It’s difficult to blame them. Most Americans are busy leading frenetic lives. In sound bites, they receive what passes for news; there’s no time to confirm its veracity. Politicians like Trump tell them what they want to hear; it pleases them. But quick solutions displace efforts to understand complicated challenges for which there are no easy answers.

「断片的な情報をニュースとして受け止め、その真実を確かめもせず、」忙しい日常生活をしていると「自分の耳に聞こえのいい情報を安易に濾過して聞くようになる」ところをトランプ候補のような戦術の人につけ込まれやすくなる・・・
といった感じです。

今日のツイート 2017/1/10

説教との比較でキャプチャーして見ました。

《観察1》
まあ「40分の講演」というと、説教としては長い方になりますね。


《観察2》
「説教原稿を読む説教」だとこう言う苦労はありませんが・・・。

その場合でも「会衆とのラポート」のため挿話の一つや二つは入れるでしょうが。
ラポート: 心が通い合って[互いに理解合って]いる状態.
「・・・講演では『言わなくてもいいこと、言わない方がいいこと』ばかりしゃべる・・・」のは、ラポートを求めすぎて脱線しやすい、ということもあるかも。

話の上手い人は往々にしてこの誘惑に負けやすいのでは。


《観察3》
筆者は「説教要旨」だけプログラムに書いておいて、実際は「時間内に収める」ことを枠としてある程度自由に語ります。

終わってから「予定・予想していなかったことを語った」中で、記録に留めておきたい気持が出る時はありますが、あえて「説教集」のような形にすることは今は考えていません。


2017年1月8日日曜日

(3)とりあえず一言

(1)この記事を書くに至ったいきさつ

 お友達のMH氏が新教出版社の月刊誌『福音と世界』(2017年1月号)に「万人祭司」に関して自己の教派的伝統からの小論(『万人祭司とキリスト集会派』)を書き、その号をご恵贈くださった。

 筆者とは別に贈呈を受けたK牧師がフェイスブック上で感想を披露なさった。

 その時点で筆者は小論を一読していたが、まだお礼のようなものは私的にも公的にも書いていなかった。

 まだ何かを書く気には至っていなかったが、お礼も言っていなかったので、K牧師の感想にかぶせる形でちょちょっと(フェイスブック上で)書いた。

 そうしたらMH氏がブログで自身の小論にコメント等を寄せた方々の文章からトピックを取り上げて3本の記事にしてアップした。

 その3番目の記事「『福音と世界』小論の著者としてのちょっとした応答 3」が

 「タカ牧師からの問題提起」

となっていて、ちょっと面食らったが、最近ブログ上での対論や討論はとんとなかったのでピンボケになるかもしれないとも思ったが、少し「反応」してみようと思った次第。


(2) プロテスタント諸教派の比較・・・メリット、デメリットで論ずることについて

 MH氏の記事は筆者のコメントを全部掲載した模様だが・・・

    (1)メリット、デメリットを判定している基準は何か。
    (2)分裂・分離した後「キリストの教会の一体性」をどうするのか。

    あるブログで「信仰進化」というカテゴリーで記事を書き出したのですが、MH氏もこのカテゴリーで書ける「動く標本」(失礼!)のような印象です。

と、このような書き出しで始まる文章を書いたわけでした。

しかし、最初の(1)の「メリット、デメリット」に関してはK牧師の以下のコメントを受けてのことでした。
    有給聖職者を置かないキリスト集会派ゆえのメリットもあるし、とは言え、専門教育を受けた者がいないゆえのデメリットもあるなぁと。多くのプロテスタント教会における牧師と信徒という関係ゆえのプラスもあるけれど、専門家に任せておけばいいという甘えや専門家ゆえの権威主義といったマイナス面も起きかねないことも感じます。

K牧師のこのコメントは、MH氏の小論(福音と世界1月号)のテーマである「万人祭司」についてと言うよりも、教会が(有給で)牧師を置くことのメリット、デメリットで、教会形成の実際問題として考え方、みたいな意見ではないかと思う。

それに対して筆者のコメントでの「メリット、デメリット」云々の意図は、広く「教会論の問題」が念頭にあってのことだったように思う。

宗教改革(と、その後も含め)の教会論は、第6回日本伝道会議の「N.T.ライトの義認論」でも問題提起をしたが、最近増々その感を強くしているところである。

   ※以下のような部分の指摘がそうです。
それは、従来の福音派においては、「救済」においても「敬虔」においても個人的で主観的な視点が強いため、「福音」を正しく伝承し保守するために不可欠な「聖礼典」「職制」、いわゆる「教会の外的しるし」を中心とする伝統的「教会論」がかなり弱体化していることです。
 伝道が実を結ぶためには、「福音」の明証性ともに、福音の伝承を媒介する制度的教会に対する正しい見識が必要ではないでしょうか。


(3)「真の教会のしるし」

 神学校時代に覚えた「(真の)教会のしるし」、
(1)神の言葉を正しく説教する、
(2) 聖餐を正しく執行する、
が思いがけなく「義認論」で浮上してきたのだが(それについての経緯はここでは書かない)、聖職者制(職制と普通呼んでいるが)のメリット、デメリットが云々される文脈だと、突き詰めれば、この「真の教会のしるし」の議論に繋がっていく必要があるのではないかと思った次第。

この辺のことはまだまだ考察中で上手くまとめきれていないのだが、職制の考え方として「教職と信徒」の関係の問題というよりも、「使徒職」からの繋がりが先ずあるのではないかと思う。

聖霊の賜物としての「教える」ことが、ある意味「万人祭司」の考え方を支持する新約聖書的基盤であるが、そのラインでの問題ではなくもっと「神の言葉=福音の真理の(伝承と)弁証」に関わるのが(使徒)職制の意義ではないかと思う(Ⅰコリント15章)。

そのラインと並行すると思えるのが「聖餐」 である。

聖餐も、聖職者階級が独占していた「救いの恵みの配給」を万人祭司によって打ち破る・・・みたいな意義ではなく、福音の「見える言葉」としての聖餐を保守する役割としてのものであり、これも使徒職に遡る(Ⅰコリント11章)と言う認識である。

つまり、(1)神の言葉を正しく説教する、(2) 聖餐を正しく執行する、がなぜ職制と関わり、なぜ万人祭司的なオープンな考え方でやることに(少なくとも現時点で)なじまないかは、「福音」ということの「伝承」的側面から出てくる要請ではないかと思う。

新約聖書に遡ると第1コリント15章冒頭にあるように、「福音は厳密な伝承」を要請するプロセスであった。同じく聖餐も(福音を表すゆえ)同レペルの「伝承」のもとに執行された(と考えられる)ゆえ、「制度」として客観性がまがりなりにも保持され今日に至っているのではないかと思う次第。

職制と言うのは、「福音」の伝承が真正であることを管理し、客観的に保証する必要に伴う「必須の制度的枠組み」であることが大事な認識ではないかと思う。

この目的に沿った人的選択と訓練が重要視すべき問題となるのではないか。


以上試論的な域を出ないが「とりあえず一言」。

2017年1月7日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年1月8日(日) 午前10時30分


朗読箇所 ローマ 3:1-21
説 教 題 「神は真実な方である」
説 教 者 小嶋崇 牧師



人はすべて偽り者であるとしても、
神は真実な方であるとすべきです。 (ロマ3:4)

2017年1月5日木曜日

(2)第6回 日本伝道会議(紀行)1

もう昨年になってしまいましたが、9月27日~30日、神戸で開催された第6回日本伝道会議(JCE6)に出席しました。

今回が初めての「日本伝道会議」でした。

この会議に出ようと思いたったのは、「N.T.ライトの義認論」をめぐって神学ディベートが「分科会」の一つとして取り上げられるのを聞いたからでした。

しかもその分科会での発表というお鉢が回ってきたため、という責任半分の参加理由でした。

会議には29日まで出席して帰ってきました。


帰ってから「報告」を書こうと思っていたのですが、結局年を越してしまいました。


今頃になって書くのは少ししんどいですが、あれこれ思い出しながら(先ずは)紀行文的にまとめて行こうと思います。


《1日目のできごと》

伝道会議は27日からでしたが、前日の26日に開催地神戸に入りました。


神戸は3年前にも行ったのですが、せっかくだから一日でも、と観光を試みようと思ったわけです。

午前中のフライトで羽田を発ち、神戸空港からポートライナーで三宮に移動して先ずは腹ごしらえ。

事前に調べておいた「神戸牛が安く食べられる」お店に行きました。



ロイン三宮店のミニステーキ定食です。
肉の厚みを二種にしてバリエーションを楽しめるようにしています。

ランチの後は腹ごなし。
新幹線『新神戸駅』の下を通り抜けて「布引の滝」へ。

道を聞いた地元のおじいさんが滝へ行くというので、途中パラパラとおしゃべりをしながら一緒に歩いて行きました。

当たり前でしょうが、神戸を誇りにしている方で、(東京に比べて神戸が)如何に住み良い街か・・・と話し掛けられるので7割方相槌を打っていました。


ここで一休みした後道を戻り神戸の町に戻らず山腹を横切って北野に出るコースを行きました。



北野ではお金のかかる観光は何もせず、ただ適当に歩き回り広場のような公園で観光客を眺めていました。


北野の街を降りて行くとカトリックの教会があったので、中に入り一瞬静まりの時を持ちました。


それから元町にある宿に入り、夕方になって夕食のため外出して元町辺で探したのですが適当なところが見つからず、家族亭でカレー蕎麦を注文しました。外れでした。


これだけでは少しお腹が満ちないので、宿の近くにあった肉屋のコロッケを買って食べました。


(次回に続く)