2017年8月19日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年8月20日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 4:7-14
説 教 題 「心が励まされる」
説 教 者 小嶋崇 牧師
コロサイ(42)/パウロ書簡の学び(159)
 

同労者たち ① テキコとオネシモ (コロサイ4:7-9)

2017年8月17日木曜日

今日のツイート 2017/8/17

カトリックの学者の方らしいが・・・恐らく悪意は殆どないと思われるが・・・何かしら「対立的で、少し挑発的な響き」を感じたので・・・取り上げさせていただきましょう。

プロテスタント側には「30、000の教派」がある。
「(それだけ多いと)一括りにできるようなものではない」。
「カトリックではない」という定義がプロテスタントの「最大公約数的なアイデンティティ」。

ですか・・・。

真っ先に思うのは(筆者がプロテスタントだからですが)、「ルターがカトリック教会から破門された」ことが引き金となってプロテスタント(教会)が生まれたということでは、カトリック教会は(3万のプロテスタント諸派の)今日的状況と無関係ではない、ということ。

やはりその辺りの当事者意識が余り感じられないような物言いは注意が必要だろう。

次に「30、000の教派」だが、これはカトリック側が(主に?)プロテスタント教会の信頼性を損ねる目的でしばしば使われるポイントだと言う。

つまり「カトリックvsプロテスタント」という対立的な構図での「数字による攻撃」で、プロテスタント側も「数字で反撃」している。(余り建徳的だと思わないので引用紹介は控える。)

次にカトリック教会の「本家意識」は無理もないと思う。「キリスト教の正統を護ってきた」自負はそれなりに認められてしかるべきだと思う。

しかしその場合でも「本家から分岐したグループ」をそれなりに把握する歴史意識は大切だと思う。


次に正教会側の「本家意識」をどう考えるのだろうか。
Due to a variety of complex circumstances, the Western church, known today as the “Roman Catholic Church,” split from the Eastern Orthodox Patriarchates of Constantinople, Jerusalem, Alexandria, and Antioch in the 11th century. Roman Catholics, however, see it from the opposite perspective, namely that the Orthodox Church broke communion with the Roman Catholic Church.
カトリック教会は正教会側が分離したと考えているが、カトリック教会が正統である東方正教会から「分岐」したのではないか・・・。

と、このサイトではそのあたりの歴史事情をさらに資料に当たって調べるように奨めている。


その中の一冊として、ティモシ・ウェアー『正教会入門』(新教出版、2017年)があがっているのでオススメだろう。

さらにユダヤ教/イスラエルとの関係ではどうなるだろう。


もともとがユダヤ人ではなかったキリスト者(の教会)は総じて「接ぎ木された野生のオリーブ」の意識でいる方が健全ではなかろうか。(ローマ人への手紙11章17節)


と、そんなことを思わされた午後であった。

2017年8月14日月曜日

(3)神学ジョーク、2017年 N.T.ライト


かつて「神学的ジョーク」の冒頭で書いたことですが
ジョークと言うのは英語圏でのパブリック・スピーチにおける必須なものです。
シリアスな内容の講演でも、その導入にちょっとしたジョークを入れることで聴衆の食いつきが良くなりますからね。
その中でも「神学的なもの」となるとやはりTPOになり、どうしても「宗派・教派の違い」をネタにすることが多くなるようです。(アリスター・マグラースの場合は“浸礼派”バプテストでした。)

今年5月の“Discerning the Dawn: Knowing God in the New Creation"という講演の冒頭、ライト師が使ったのが「神論」に関わるジョークでした。


(ジョークは1:00~2:10くらいのところ)

引き合いに出されたのは、John W. Bowker(著名な学者です)。

彼がある時忙しい合間を縫って招かれていた米国のどこかの講演に行ったときのこと。


講演題が・・・『今日の世界で「神」を語る』(Speaking of God in Today's World)・・・みたいな感じのことで、飛行機の中で一応内容をささっとまとめて颯爽と会場に出向き、何とか時間にも間に合い講演を始めました。

講演を締め括るに当たって
If the doctrine of Trinity didn't exist, we'd have to invent it.
と高らかに宣言し講演壇を離れました。

すると聴衆からは雷鳴のごとき拍手喝采。

隣の席の(別の)講演者が、「いやー、勇気ある、踏み込んだ発言でした。」

(ボウカー)「別にそんなこと言っていませんよ。しごく教理的にオーソドックスではないですか・・・。」

(隣席)「いや、ボウカーさん、この会議はユニテリアンですよ。」

(ボウカー)「じゃ、なぜみんな拍車喝采しているのですか。」

(隣席)「いや、ボウカーさん、彼らはあなたのアクセントが気に入ったんですよ。」



というわけで、ライト師のアクセントがアイリッシュか???みたいなところから始まったジョークでした。

2017年8月13日日曜日

(4)キリスト教原理主義と福音主義

先日、「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、10」を書いたばかりだが、その前の「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、8」と「(3)藤本満『聖書信仰』ノート、9」で「ファンダメンタリズム」を扱ってから、あらためてジョージ・マースデンの『Fundamentalism and American Culture』を読み直している。それも結構ゆっくりと。

今回書くことは「『聖書信仰』ノート」に入れても良かったが、風呂敷を広げすぎて(筆者も読者も)混乱するといけないので、独立させた。(なお「アメリカ宗教史」研究、関連の展開は「宗教と社会小ロキアム@巣鴨」プログにて取り上げようと思っている。)

昨年から今年と、トランプ大統領がもたらした旋風は米国福音派だけでなく、日本の福音派にとっても「パブリック・イメージ」の問題だけをとっても結構大きな意義があるように思う。

※たまたま今朝ツイートしたこの記事は的確にその辺の事情を捉えていると思う。


「ファンダメンタリズム」や「福音主義」のような基本的用語の整理ももっとしていく必要があるだろうなー、などと思っていたら意外なことに「日本の福音派のアイデンティティー」に関し長らく研究発表してきた宇田進氏の文章が「いのちのことば社」のウェブサイトにあるのを見つけた。

ここにリンクを貼っておこう。

「原理主義」と「福音主義」 第1回 ファンダメンタリズムの原点は?(前半)

「原理主義」と「福音主義」 第3回 エバンジェリカルをめぐって─アメリカ教会と日本教会(前編)

「原理主義」と「福音主義」 第3回 エバンジェリカルをめぐって─アメリカ教会と日本教会(後編)


冒頭
   このたび、4回にわたり特に「キリスト教原理主義」について拙文をつづることになったが、正直言って≪戸惑い≫を覚えている。
とあるのだが、「第2回」というのが見つかっていない。

一読して(この文章が書かれたのが割合最近だとすると)次の部分がやはり気にかかる。
 ブッシュ政権の“在り方”については大いに論ずべきであるが、ことファンダメンタリズム・福音派に関する著者の見方は、従来から日本のメイン・ラインの教会の中に広く流通してきたものの反復にほかならない。結局、忌避・拒絶 以外の何物でもない。
 以上のようないわば“定説”とも言えるネガティブな見解とは対照的な“稀なる見解”が最近登場している。それは、一定の理解と評価をともなった古屋安雄氏(聖学院大学)の見解である。
 古屋氏は前掲書の中で、一章を「日本の福音派」にあてている。種々問題を論じながらも福音派の成長に注目し、「日本においても福音派に期待するのである。日本基督教団をはじめとするいわゆる主流派の諸教会がいつまでも混迷と混乱のなかにあるならば、福音派の諸教会がそれこそ〈主流〉となる日がやってくるかもしれない」と“オープンで前向きな見解” を披瀝している。
 かつてウィリアム・ホーダーンは、エバンジェリカルはリベラルなものを一生懸命学ぼうとするが、その逆はほとんどみられないと指摘したことがある! また、プリンストン大学の社会学者ロバート・ウスナウは「リベラル派と福音派の両者とも、互いに相手の最も悪い面ばかりを前面に押し出し、それぞれの“よい部分”をまったく見ようとしない」とも批判している(『アメリカの魂のための闘い─福音派・リベラル派・世俗主義』(1989)。日本のキリスト教界はまさにその典型である!(強調は筆者)
過去に(もちろん今でも尾を引いているが)対立した自由主義、根本主義/福音主義両陣営がそれぞれに対する見方をすり合わせながら共に学ぶような機会がまだまだ少ないのだと思う。


以上、不要で不幸な混乱に巻き込まれないためにもなるべく正確な歴史知識を積み上げて行きたい。

2017年8月12日土曜日

明日の礼拝はお休みとなります

巣鴨聖泉キリスト教会での明日、

8月13日の主日礼拝はお休み となります。

どうぞお間違えありませんようにお願い申し上げます。


※今年は比較的過ごしやすい暑さの中ですが、熱中症等 健康にはくれぐれも留意してお過ごしください。 


(5)義認論ノート、4

義認論ノート、3」はかなり長い記事となってしまいました。

そのため「(2)なぜ義認論にとって『救いの順序』は問題なのか」が充分言い尽くせないで終わってしまいました。

「議論の流れ」を簡単に整理するとこんな感じです。 

「義認」を論ずる枠組みは何だろうか。

宗教改革以降、プロテスタント諸派で顕著なのは「義認」を「救済論」の中で論ずることだ。

特に「救いの順序(ordo salutis)」の枠組みを参照して論ずることだ。

しかし、それが余りにも(時系列的にも、論理的にも)詳細な点に渡ってまで整合させようとして聖書テクストの読み(釈義)を歪めさせている・・・

と言った辺りまでやってきました。


アンドリュー・マクゴワンの『義認と救いの順序』を用いてこの辺の整理をしようとしました。

「義認論」が抱える様々な問題点を「救いの順序(ordo salutis)」からくる問題に絞って指摘しても全部が解けるわけではないと思います。

伝道会議・分科会の議論の組み立てでは、(1)救済論の枠組み、に(2)教会論の枠組み、をプラスすることによって「義認」を「『救いの順序(ordo salutis)』のみ」の縛りから解き放つ方向を示唆しようとしました。


でも(2)教会論の枠組みに行く前に・・・

義認論ノート、3」で、「救いの順序(ordo salutis)」を使って「義認」の教理的な位置を解明しようとする(主に改革派系の)神学者の中に、「救いの順序」とは別の(パウロ神学)概念を用いて「義認」を論ずる流れ(school、学派)があり、これが影響力を増している(らしい)ことを指摘しました。

「キリストとの一体(union with Christ)」
です。(マクゴワンの論文ではordo salutis methodに対してunion with Christ methodとなっています。)

バルトの「救いの順序に拘泥すると、救済論が余りにも人間論になってしまう。もっとキリスト論的視点に戻すべきだ。」みたいな批判を紹介しましたが、実はアンドリュー・マクゴワンの『義認と救いの順序』論文にはもう一人(筆者から見て)重要な修正視点を提供した方がいます。


昨年80歳を迎えたウェストミンスター神学校の名誉教授のリチャード・ガフィン・ジュニア(Richard B. Gaffin, Jr.)は、1969年に同校で Resurrection and Redemption: A Study in Pauline Soteriology と題した博士論文を書きます。これが後に The Centrality of the Resurrection: A Study in Paul's Soteriology として出版されます。
ガフィンの主張は、パウロの救済論において「キリストの復活とキリスト者の復活とが密接にリンクしているゆえ、『キリストとの一体』が支配的である」ということです。

この視点から伝統的な「救いの順序」救済論の欠陥が指摘されます。
 (1)終末論的視点が欠落している。
 (2)「救いの順序」の各要素を独立した「行為(アクト)」と見るのは問題だ。

Nothing distinguishes the traditional ordo salutis more than its insistence that the justification, adoption and sanctification which occur at the inception of the application of redemption are separate acts. If our interpretation is correct, Paul views them not as distinct acts but as distinct aspects of a single act.(強調は筆者)

 (3) 「新生(regeneration)」が「信仰」より前に来る見方はパウロ的でない



(マクゴワンの論文にはバルトら新正統主義神学の立場の解釈との違いの指摘もありますが)このガフィンの主張はウェストミンスター神学校の中で受容され、救済論における「キリストとの一体」の主導のもと、「法廷的『義認』(forensic justification)」も堅持しながら、なお議論が進展しているとのことです。


以上「救済論」から「義認」を見た場合の「救いの順序」の限界と、パウロ神学的に見た場合の「キリストとの一体」の中心性・重要性をマクゴワン論文から見てきました。

特に、「キリストとの一体」強調において、ガフィンが指摘した「復活」すなわちパウロの「終末論」的視点は今後の「義認論」を修正して行く上で重要な意義を持っていると思います。


話題が少し離れますが、「義認論ノート」と並行して書いてきた「Salvation By Allegiance Alone」を先日完結し、その最後に「中間考察」の一つとして書いたことですが、ガフィン/ウェストミンスター神学校の義認論における動向はある意味「組織神学的救済論」から「新約聖書(パウロ)神学的救済論」に重点を移したもの、とも捉えることができるのではないかと思います。

かつてこのブログで、リチャード・ガフィン・ジュニアがライトと義認論について議論した動画を紹介したことがありますが、その時と比べ、このマクゴワン論文を読んだあとでは、「ライトとの違いはそれほど大きくない」というのが筆者の印象です。

むしろ、「復活/終末論的視点」の重要性、「救いの順序」の問題性、そして「法廷的『義認』(forensic justification)」の堅持、等において二人はかなり近いように思います。

読者の印象はどうでしょうか・・・。


(次回に続く)


2017年8月11日金曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、10

お待たせしました。(このシリーズまだ頓挫していません。笑)

前回が5月18日のアップですからかろうじてまだ 三ヶ月経っていませんね。

さてこの7章は6章の「ファンダメンタリズム」と8章の「新福音主義」へと飛ぶ前に日本での聖書信仰の受容を「戦前」という枠で紹介します。
 
7章 「戦前日本における聖書信仰」(109-122)
 

代表的な人物に即して、それらの人の神学教育(大抵は米国留学)背景と「聖書観」とを紹介しています。

個人的には筆者の属するグループ(ホーリネス系教会)の「生きた歴史」を語り聞かせられたこともあり(と言っても四方山話みたいな周辺的なことが多いと思います。※)、ある程度のことは知っていますが、このようにある程度整理されていると簡単な紹介ながら助けになります。
※特に「澤村五郎」について。実は戦後すぐ「献身を決めた」父が入学を予定していたのが、澤村五郎校長の関西聖書神学校だったと聞いています。
さて「三人(岡田稔、中田重治、澤村五郎)の聖書信仰の特徴」をまとめている箇所を引用抜粋してみます。 
岡田は当時を振り返って、高倉徳太郎の『福音的基督教』が広く行きわたっていたので、「福音主義」という用語よりも、「聖書信仰」のほうが、聖書に対する自分たちの立場を明確にする ことができたと述懐している。(111)
※筆者はこの引用部分から後者二者のように「信仰生活の実際」における聖書信仰というよりも、「聖書論」としての聖書信仰に自覚的であった、強調があった・・・という印象を受けました。
[中田] この聖書信仰はプリンストン神学的なものではない。むしろ、十八世紀の信仰復興運動を彷彿とさせるような聖書信仰である。神の言葉への信頼、野の草のような人間の知恵や言葉を論じるに足りないものとし、無から有を創造し、罪人に救いを与え、新創造をもたらす神の言葉、すなわち聖書に絶対的信頼を傾ける聖書信仰であった。そして、ムーディーを取り巻くリバイバリズムと米国ホーリネス運動から受け継ぎ、さらにはディスペンセーション主義の再臨観に染まった聖書信仰 であった。(115)
このように澤村の説く聖書信仰は、十八世紀の敬虔主義的・信仰復興運動的な流れにある。しかも彼の聖書理解にはディスペンセーション主義的色彩はなく、徹底して御言葉と聖霊の関係が強調 され、聖書は信仰をもって聞く者の生涯を聖霊が改革していく恵みの手段である。(116-7)
これらの記述を簡単に比較すると、
 岡田・・・P(プリンストン神学)
 中田・・・R(リバイバリズム)+H(ホーリネス運動)+D(ディスペンセーション主義)
 澤村・・・R(リバイバリズム)+S(聖霊)
となる。

もちろんニュアンスを捨象しているので、これだけでは何の比較かということになるだろうが、たとえば6章で取り上げられた「ファンダメンタリズム運動」での「二つの流れの融合」と描写された「P(プリンストン神学)」と「D(ディスペンセーション主義)」を当てはめてみると・・・

潮流的には中田重治が恐らく最も米国根本主義を反映しているが、岡田と澤村に関してはやや部分的、ということが指摘されうるのかもしれない。

藤本氏の『聖書信仰』のテーマの一つが「多様性」の発見にあるとすると、このような背景の違いからくる「(聖書信仰の)ニュアンスの違い」がやはり大事な点なのではなかろうか・・・。

ディスペンセーション主義の再臨観」の前者は受け継がなかったが、後者は受け継いだ、ということになるのだろうか・・・。


(次回へ続く??? 一応まだ続くかもしれません。)  

2017年8月6日日曜日

(5)オープン神論サイドノート④

今年はまだ「オープン神論」についてのエントリーがありませんでした。

(5)オープン神論サイドノート①

(5)オープン神論サイドノート②

(5)オープン神論サイドノート③

今回ご紹介するのは「オープン神論」にサイドライトを当てている日本在住宣教師、デイル・W・リトル氏の「現代神学の概観」です。

さいわい日本語訳があるので、「オープン神論」言及箇所二つを引用します(イタリック強調は筆者)。


現代福音主義神学のアイデンティティの探求
おそらく、このような過去の神学に対する批判的な態度や作為的な単純化は、現代神学が今まさに混乱の中にあることを物語っている。現代神学のアイデンティティが危機に直面しているということだ。この混乱は特に福音主義神学の中で明らかである。福音派が現代神学書を読んでも、そのほとんどが福音主義でない立場で書かれた著作だろう。しかしながら、我々福音派としても、現代「福音主義」神学について学ぶ必要はある。福音派陣営は今や伝統的に受け入れられてきた福音派の基準とは異なる神学的見解を持った人々をも抱えている。ミラード・エリクソンによれば、福音主義神学は今や右派と左派に分かれているという。5 もはや「福音主義」という言葉は、同じ福音主義に立つ神学者の間でも、同じ意味で理解されることはなくなってしまったのである。
 ここ3年間、北米の学会である、福音主義神学会(ETS)の年会では、少数の左派の神学者たちの「オープン神論」(open theism)を議論してきた。2001年に、ETSは、そのようなオープン神論から遠ざかるという神学的声明を発表した。2003年には、ETSのメンバーは議論の上で、二人の左派神学者たちのメンバーシップ剥奪には反対する決定を下した。6 ようするに、現代福音主義神学の世界に足を踏み入れることは、混乱の経験をすることに他ならない。能弁で有名な福音主義神学会の少数派が、まだまだ、過渡期であると主張してきたとおりである。

現代神学の重要問題
[]代神学でも、それらの神学者たちから神論に重点を置く傾向を受け継いでいるが、今日では神の人格的な側面に強調点がある。つまり、現代神学は我々人間が経験するようなある種の限界を神にも設けようとするきらいがある。たとえば、未来に関して言えば、神は人間の自由な選択について、限られた知識しかないとしばしば理解されている(オープン神論)。つまり、神は、時間を超えた存在であるというよりも、時間の中に制約された存在としてみなされているというわけだ。
まあ「オープン神論」自体にそれほど関心持っているわけではないだろうと思います。

宣教の神学(Missionary Theology)にとって「現代の文脈」はどうなっているか概観してみよう・・・ということでの非常に大雑把なものでしょうね。

もちろん「福音主義神学」の立場からの概観ですので、セットアップの仕方が
神学の目的は、教会と深く関わっている。神学はその土台である聖書について教会を教えるものだ。しかし同時に、神学は教会の置かれている幅広い文化や世界を理解するために正しい見地を与えてくれるものであるとも信じる。神学は聖書と文化という二つの極の間で機能している。
となっています。

神学は教会に「聖書」を理解させ、かつその置かれた「文化」に対して正しい見地を与える、とそういう思索的作業をするというわけですね。


以上です。
 
ではまた何か見つけたら報告します。

2017年8月5日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年8月6日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 エペソ 2
:1-10
説 教 題 「恵みのみ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

宗教改革原理(2)


※次主日、8月13日の礼拝はお休みとなります。

2017年7月31日月曜日

(2)回顧: ブログ始めて7年

今日は7月31日。

この『大和郷にある教会』ブログを始めたのが、2017年7月3日。

毎年7月3日頃に「定点観測」をアップしていたのだが、今年はさぼった。

大分更新回数が減ってきたし、わざわざそんなことをするほどでもないかと思いスキップした。

たまに思いついて「新しいシリーズ」を始めるが、その都度何回か記事をアップすると途中で宙ぶらりんになる。

いいか悪いか「あのシリーズの続きはどうなっていますか?」と問い合わせが来ることもない。

で、放っておく事になる。

自分としては「終了」を打ち出していないものは多分やめていないだろうと思う。


さて、7年を回顧するにあたって「一番読まれた記事、ベスト10」を確認しようと思う。

それを通して何か分かることがあれば、つまりこのブログではどんな記事が読まれるのかを知って参考になることがあれば、今後の継続を構想するための資料にしたい。

では・・・。(最後の数字の「○○v」は閲覧数)

(1) 佐藤優「キリスト教神学概論」(2011年3月2日)・・・5,001v
(2) 北川東子と教養(2011年12月6日)・・・3,083v
(3) 牧師と言う職業(2011年8月16日)・・・2,443v
(4) ニュー・パースペクティブ・オン・パウロ(2011年7月20日)・・・1,927v
(5) 福音派は今どこに?(2011年2月4日)・・・1,606v
(6) 自然災害と宗教的解釈(2011年3月16日)・・・1,554v
(7) お一人様クリスチャン(2012年1月3日)・・・1,423v
(8) 唯一の聖なる公同の教会(2012年2月29日)・・・1,287v
(9) 主に神学ブログ 1(2012年11月21日)・・・1,205v
(10)若松英輔『イエス伝』(2013年8月29日)・・・1,157v

(次点) 「王なるイエスの福音」(2011年9月13日)・・・1,108v

こうして見ると、意外にも「神学的」つまり硬めの記事が多い。

どちらかと言うと「紹介的な軽めの記事」である 2、3、4、9
結構「ディスカッションしている記事」の 1、5、6、7、8、10

ということで、まあいくらかちゃんと書いた記事の数のほうが多かったのは少し嬉しい。

個人的な感想としては 5、6、7、8 あたりが読まれていることは嬉しい。


しかし、これらの記事より「いくらか硬めで、より日本的文脈での神学的ディスカッションをしている記事」である
 「犠牲」と「贖罪論」の問題性(2010年11月23日)・・・755v
 長谷川三千子と現御神(2014年2月15日)・・・151v
とか
 加藤周一のカトリック洗礼(2012年7月15日)・・・832v
 池澤夏樹「多神教とエコロジー:世界を支配する資格」(2010年10月6日)・・・232v
なんかも(もっと)読まれると嬉しいかな、と思っている。

以上、7年の回顧・・・でした。

これまでこのブログを読み続けてくださった読者の方に感謝!
(まだ続くと思いますので、続けてお読みください。)

2017年7月31日
ブログ主

2017年7月29日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年7月30日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 テモテⅡ 3
:10-17
説 教 題 「聖書のみ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

宗教改革原理(1)

2017年7月27日木曜日

(5)義認論ノート、3

今回3回目になりますが、一応の繋がりで言えば「救いについての『教理』」が発端みたいなものになります。

そこでも言及していますが、N.T.ライト読書会ブログに連載している「Salvation By Allegiance Alone」(現在5回まで終えています) の書評紹介と並行して「義認論ノート」を進めています。

つまり、大きく括れば「救済論」(組織神学でいう「救いの教理」のこと)関連のことをいろいろ書いているわけです。


さて「義認論ノート、2」の終わりのところに「今後の展望」として二つのことを挙げました。
(1)救済論(特に『救いの順序(オルド・サリューティス)』の問題)
(2)教会論(特に制度的教会論に対するアレルギー的反応というか、その蓄積でいわば福音派教会論が弱体化したという問題)
というわけで今回はこの「救済論」との関連で「義認論」について少し書いてみたいと思います。

もう既に頭の中が混乱している方も多いと思いますが、この「○○論」がいろいろ出てくると面倒くさく感じるのは誰でもそうかと思います。

しかし話の整理上やはり使わざるを得ない!! ご勘弁ください。

(1)義認(論)と『救いの順序(オルド・サリューティス)』の関係

さて、残念ながらネット上にキリスト教神学専門用語である『救いの順序』の(日本語)解説は余りないみたいです。ウィキペディア記事 では改革派神学とその修正版とも言えるアルミニアン神学の「二つの流れ」、として短く解説されていますが。)

その少数あるうちのものでも「義認論」に絡めて、しかもその問題点について指摘するようなものは見当たりません。

ですのでごく簡単に「義認論と『救いの順序』とはどういう関係にあるのか」を説明し、それから「なぜ義認論にとって『救いの順序』は問題なのか」を述べて行きたいと思います。


「義認」については新約聖書の言葉でもあり、それ以後教会史においても重要な神学概念であったことは明らかだと思います。

(筆者の関連で言えば、拙訳N.T.ライト『義認』があります。ライトの指摘によれば新約聖書の「義認」概念からある意味逸脱してその後の教会史における神学的展開があります。あのアリスター・マグラスの『義認の教理』もこのライトの指摘を受けて書かれている部分があります。)

しかし大雑把に言って、宗教改革時に神学論争で「救済論」が際立って注目を集めるまで、教会の神学の中心は、歴史的に言えば、「三位一体論」「キリスト論(キリストの人格とわざ)」を中心にたどってきているように思います。

中世における贖罪論(atonement)も、神と世界との和解(贖い)が成立する根拠としての「キリスト」論、特に「受肉論」に沿って(特に東方神学で)展開してきたように思います。

義認論と一番関連がありそうな「司法概念枠組を取り込んだ贖罪論の諸説(身代金説、満足説)」も、「受肉論」があまり説明しなかった「贖いの手段(としてのキリストの犠牲的死)」に焦点を当てる補完的なものと位置づけることが出来るのではないかと思います。
For while many of their utterances might seem to imply that the Redemption was actually accomplished by the union of a Divine Person with the human nature, it is clear from other passages that they do not lose sight of the atoning sacrifice. The Incarnation is, indeed, the source and the foundation of the Atonement, and these profound thinkers have, so to say, grasped the cause and its effects as one vast whole. Hence they look on to the result before staying to consider the means by which it was accomplished.
つまり宗教改革時までは「(罪ある)人は如何にして救われるか」は「神学の中心問題」ではなかったと言えるのではないかと思います

ルターの個人史的側面(実存的問題としての深まり)の影響もあるでしょうが、義認の問題は単に教理上の進展としてではなく、極めて実際的救いの問題として焦点が当てられることになったという風に言えるのではないかと思います。
一昨年の福音主義神学会での鈴木講演の指摘にあるように、 「義認論は罪認識の深刻さを前提にしており、罪認識の深刻さに対応する教理」ということ。つまり宗教改革者(ルター、カルヴィン)は「原罪」を重んじた「急進的アウグスチヌス主義者」であった、ということにも繋がることかと思います。

ある意味「救い」という問題を軸にして、神学は「神についての学問」であることから「人についての学問」へと大きく回転した、とそう言う側面があるのではないかと思います。(後にバルトがこの強調を「人間論(anthropology)」として批判することになります。) 

この「人間論的展開」として見ることが出来るのが、宗教改革後のプロテスタント神学で救済論が『救いの順序(オルド・サリューティス)』として整えられていった経緯ではないかと思います。

義認論について言えば(詳細は後述)、ルター、カルヴィン以降の救済論が「義認の段階」も含め、「人はいかにして救いに与り、かつ救いの完成に向かって段階的に進んでいくか」 という『救いの順序(オルド・サリューティス)』構築に組み込まれて行くことになります。

換言すれば、「個人の救いの完成」という視点から構築される『救いの順序(オルド・サリューティス)』救済論は、客観的な救いのわざとしてのキリスト論 から、「自分はいま救いの完成過程のどこに位置するのか」という主観的な問題関心 に方向転換した、と言えるのではないかと思います。

※この救済論をめぐる「大きな展開」は、スコット・マクナイト『福音の再発見』で跡付けようとした 《福音の文化》が《救いの文化》に飲み込まれる過程 とほぼ並行するものと言っていいかと思います。(その①その②


(2)なぜ義認論にとって『救いの順序』は問題なのか



このポイントが昨年9月の「N.T.ライトの義認論」(日本伝道会議分科会)の時発表した、後半部《ライトの義認論の応用》として挙げた二つのうちの一つです。(確か時間がなくてこのポイントについては殆ど言及できなかったと思います。)

ここではまず(筆者の目から見て)重要な論文を紹介します。論文のタイトルがそのものズバリです。

A. T. B. McGowan, "Justification and the ordo salutis," in Bruce L. McCormack ed., Justification in Perspective: Historical Developments and Contemporary Challenges. (2006, Baker Academic).


この本はNPPによって(宗教改革以来の)伝統的な義認論が大きく見直しを迫られている状況で出されたかなりコンプリヘンシブな論文集です。ライトの論文、New Perspectives on Paul (http://ntwrightpage.com/Wright_New_Perspectives.htm) も収められています。
「N.T.ライトの義認論」発題1 資料で使った引用はこの論文からです。

(本文が100%同一かどうか確認はしていませんが、幸いなことにマクゴーワンの同タイトル論文がダウンロードできます。この論文を読んで頂ければ筆者がここで書くことの意図はかなりご理解いただけると思います。)

問題点の一つを先ず挙げると、『救いの順序』は聖書テキストにある程度基づいているとはいえ、贖いの順序をより細かく分解し繋げたりするときに異なる神学的強調点 によってその求められる論理的整合性が恣意的になっていく傾向があるようです。

たとえば「改革派」と「アルミニアン」の違いだと・・・

Some of the discussions about the ordo salutis in seventeenth century Reformed theology were occasioned by internal debates. For example, Arminius and the Remonstrants wanted to put faith before regeneration, in order to emphasise the human decision, as over against the Reformed view that regeneration must precede faith, in order to emphasise sola gratia

義認について言えば、マクゴーワンは「転嫁(imputation)」「信仰」「悔改め」を論じていますが、やはりシステムとしての改革派神学との整合性がニュアンスを決める要素になるようです。少なくとも新約聖書本文に戻ってたとえばパウロのロマ書の議論の中での整合性を論ずる、というのではないようです。

ということは、NPPが提起した「一世紀ユダヤ教の歴史的文脈」の問題は等閑視されることになるのではないかと思います。少なくとも「改革派神学」内部での整合性の方がより優先するのでしょう。


「キリストとの一体(the union with Christ)」


改革派神学者たちは救済論を『救いの順序』だけで整えようとしたのではなく、別のもう一つの論である「キリストとの一体(the union with Christ)」と並行して論じたようです。

これがある意味バランスとなって「神学システムの洗練化」の行き過ぎを防いだのではないかと思います。

しかし、バルトとなると『救いの順序』への批判が「人間中心主義」となったようです。
For Barth, questions such as whether regeneration precedes effectual calling, or whether justification has a logical priority over regeneration, are largely irrelevant. For him, all of these are embodied in Christ and we come to share in all of them as we are united with Christ.

...Rather, Barth's objection [regarding the ordo salutis in the Westminster Confession of Faith] is that, by placing such a heavy emphasis upon the application of redemption and upon the means by which the individual believer finds peace and assurance, it seeks '... to make Reformed theology into anthropology'.


さて、大分長くなってしまいました。少し収まりが悪い止め方になりますが、ここで一旦休止します。

次回少し言い残したようなことを含めて、第二《応用ポイント》であった
(2)教会論(特に制度的教会論に対するアレルギー的反応というか、その蓄積でいわば福音派教会論が弱体化したという問題)
に移って行きたいと思います。



 

2017年7月25日火曜日

(5)タカ牧師のRR 2017/7/25

今度で2回目なのでまだ「タカ牧師のRR」って何?という方には・・・。

RRとは、Recommended Reading、の略です。

1回目は「中年男性の健康リスク」を話題にしましたが、2回目になる今回の「タカ牧師のRR」はこのブログでも何度か取り上げたことのあるNYT(ニューヨーク・タイムズ)のコラムニスト、
デーヴィッド・ブルックス
青年教育のチグハグ(Mis-Educating the Young)(2017年6月25日)
にしました。

内容はと云うと・・・昔と違って現代の青年には「人生やキャリアを段階を踏んで昇って行く」ようなものがない。

現在の社会はそれだけ「従来の構造がバラケて」しまっている。

それだけ「将来に繋がる教育」が見えにくくなっている

というのです。


良かったら皆さんもどうぞ。

総ワード数: 1000以下
英語レベル: 中(5段階の2~3)

2017年7月23日日曜日

今日のツイート 2017/7/23

久し振りに・・・


解説なしです。よろしく。

※ lit はリタラチャー(文学)ですね。

2017年7月22日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年7月23日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 マタイの福音書 
9:9-13
説 教 題 「行って学びなさい」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(6)、礼拝と倫理2

2017年7月15日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年7月16日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 4:2-9
説 教 題 「賢い対応、時と言葉」
説 教 者 小嶋崇 牧師

コロサイ(41)/パウロ書簡の学び(158)
 

その他の勧め ② 未信者に対して (コロサイ4:5-6)

2017年7月8日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年7月9日(日) 午前10時30分

朗読箇所 第二コリント 1:15-24
説 教 題 「あなた方に対する私たちのことば」

説 教 者 小嶋崇 牧師

「真理」7


2017年7月6日木曜日

(5)義認論ノート、2

去年の今頃は「N.T.ライトの義認論」(第6回日本伝道会議・分科会)の打ち合わせのため、(神学)ディベートの相手となる橋本氏、それから進行役のJEA神学委員の関野氏、佐々木氏とお茶の水で初顔合わせをしていた(7月1日だった)。

夏の間はライト読書会ブログ上で橋本氏と全部で9回、土俵作りと云うか下準備のディベートをやったのだった。

今になって、少しずつ小出しの印象は否めないが、9月の正味45分の(何と短い)討論会を思い返しながら「準備した資料」を点検し整理してアップしようとしている。

それは2017年、宗教改革500周年を迎えて案外タイムリーなことかもしれない。

あらためて、「義認論」の意義は何なのか、と問うこともいいのかもしれない。


さて下記に多少時系列的な「振り返り」となるが、伝道会議・分科会を前にした7月1日の(1回だけとなった)「打ち合わせ会議」のために、筆者が《神学ディベート・分科会》で想定していたというか、「多分現実的な中身はこんなところだろうな・・・」と考えていたことを紹介しておこう。

○○先生

・・・・・・。
僭越ながら、「ライトの義認論」に関し、討論者自身の満足よりも「日本伝道会議で取り上げる『メリット』をいかに多くするか」、と云う視点から少し「討論の枠組み・方向性」を考えてみました。
何はさておき、「討論における(神学議論的)内容」を4人で議論する前に、「全体で90分と云う時間的制約」、そして想定される参加者(信徒も含む)の「ライトの義認論」に対する理解度の問題、いずれも「外的条件・制限」を優先的に考慮せざるを得ない と思われます。さすれば自ずと選択肢は狭まってくる、とそのように考えます。
(1)90分と云う時間的制約
 フロアとの質疑応答に30分取っておくことを考えると、「イントロのような事柄・・・10分」、「討論・・・45分」くらいの時間配分かと予想します。
(2)参加者の「ライトの義認論」に対する理解度
 牧師・伝道師の方々をメインに考えたとしても、やはり「最近取りざたされているNPPとか、ライトとか大丈夫なの?」くらいの関心がスタートラインと想定した方がいいと思います。「義認論」の、つまりロマ書・ガラテヤ書の釈義的問題等に「入る議論」は無理だと思います。基本
 「『義認論』て何なの?」
 「なぜ論争されているの?」
 「それ日本での伝道や牧会に影響あることなの?」

等の質問に概観的な「見取り図」を提供する「一助」、という位置付けでいいのではないかと思っています。
※個人的には恐らく討論のポイントは、「それ日本での伝道や牧会に影響あることなの?」が一番重要ではないかと思いますが。
一応以上の線で考えますと、《討論・・・45分》のポイントは、
(1)宗教改革時の「信仰義認論」と、(NPP)ライトの「義認論」とをどう整理すればいいのか、という課題
(2)以上の課題を日本で「聖書学・神学」に従事したり、関心を持ったりする方々は、どのように取組み、どのように「日本での今後の伝道・牧会」に応用させれば良いのか、という課題
以上の二つの課題を討論ポイントとして扱えばいいのではないかと思います。
以上、私見ですが、今のところの感想まで。
小嶋
さて以上がほぼ一年前考えていたことであった。

アウトラインとしては、9月28日の発表内容はこの時すでに固まっていた。

ただ、終わってみて思うのは、「(1)90分と云う時間的制約」には予想以上だった。

というのも、義認論に関するアカデミックな材料を大胆に薄める代わりに、「伝道・牧会」という応用面への展開を濃くしよう、と欲張ってしまったのだ。

それで思いのほか「発表内容」の論理的繋がりがかなり理解するのに難しくなってしまった印象がある。

しかし「フロアーとのQ&A」を30分確保したことで、「理解しきれない」問題のほんの一部は解消されたのではないかと思う。

今改めて一年後に「義認論ノート」として発表するのも、この負い目と言うか不足分をいくらかでも補えたらいいな、との期待からである。


さて、では「発題1」の文章にコメントしてみよう。

後半、つまり「伝道・牧会への応用」部分が以下のようになっている。
 「パウロにとって義認は救済論と教会論の両方を合わせたもの」とのライトの議論が正しければ、プロテスタント諸派、特に「福音派」の神学と実践に大きな 問題を投げかけます。
 それは、従来の福音派においては、「救済」においても「敬虔」においても個人的で主観的な視点が強いため、「福音」を正しく伝承し保守するために不可欠な「聖礼典」「職制」、いわゆる「教会の外的しるし」を中心とする伝統的「教会論」がかなり弱体化していることです。
 伝道が実を結ぶためには、「福音」の明証性ともに、福音の伝承を媒介する制度的教会に対する正しい見識が必要ではないでしょうか。
この部分がまことに残念ながら「欲張りすぎ」たのでした。とても5分ではポイントさえ提示するのも困難であった、と。(実際的な設問で、イメージ的にはかなり伝えられると思ったのですが・・・。)

ここで提起しているのは、「福音派の神学と実践」に対して、「ライトの義認論」は(ある意味)問題を自覚して分析させ、また解いて行く方向付けを与えるのではないか・・・ということです。

「救済論」と「教会論」とを一つに見るもの、という「ライトの義認論」の意義は、神学的整理としてよりよい(かもしれない)というポイントにとどまらず、教会の伝道・牧会という実践面への視座を与えてくれる、というポイントとして(日本の教会に限りませんが)宗教改革系列であるプロテスタントの中の特に福音派に対して大きな意義を持っているのではないか・・・という議論にしようと思ったのです。

今回「義認論ノート 2」は既に長くなってしまったので、今後の解説の大枠を提示しておくと、
 (1)救済論(特に『救いの順序(オルド・サリューティス)』の問題)
 (2)教会論(特に制度的教会論に対するアレルギー的反応というか、その蓄積でいわば福音派教会論が弱体化したという問題)

となります。

そしてこれら二つを繋ぐのが(特に「義認」に関連付けて言えば)「洗礼論」ではないかと睨んでいます。

但しその場合の「洗礼論」は単なる神学上の議論としてではなく、教会の成員を生み育てる入口としてどのように「洗礼」は役割ずけられてきたか、という(主に西洋のキリスト教会の)歴史的実践から来る「洗礼」の神学的位置付けの問題、ということになると思います。


ということで、「次回へ続く」


2017年7月4日火曜日

(1)屋上緑化 2017

夏が(ほぼ)やってきた(近づいてきた)。

トップライトからの夏日対策のため屋上に上がるついでに屋上緑化の点検をしてみたら・・・。






2001年新築時に施工した緑化はその後雑草との闘いから一時期かなり弱ってしまった。

2010年7月の「屋上緑化」レポートではかなり回復した様子を伝えたが、今回の点検で健在であっただけでなく、かなりしっかりした定着を観察できたように思う。


4種のセダムのうち細かいタイプのものが絨毯のように敷き詰められた感じになっていてその感を強くした。



さあ今年も、屋上緑化遮光ネット・(そして一昨年に加わった)エアコン、で「暑い夏」を乗り越えるぞ!!

2017年7月1日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年7月2日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:41-47
説 教 題 「家々でパンを裂き」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2017年6月27日火曜日

今日のツイート 2017/6/26

ちょっとややこしい内容なので、経緯を少しでも確かめてから・・・と思っているうち一日遅れになりました。

これなんですけどね・・・

よく分からないんですよ。(←昨日の段階。よく分からなかったので少し経緯を確かめた)


こういう経緯らしい・・・

(1)「チャンネル桜の木坂麻衣子氏」という人物が朝日新聞6月23日朝刊掲載記事「パレルモ条約は対テロリズム目的ではない」を解説したパッサス教授の(英語)発言を聞き間違えた(結果捏造した?)と批判した。

(2)その際の朝日新聞記事の当該部分和訳は「テロのように思想に由来する犯罪に対応する目的で作られてはいない。」

(3)この英語発言部分を木坂麻衣子氏は(報道ステーションでも放映された)動画から聞き取り・文字起こしをし、以下のように提示した。
It is not meant to cover idea logically motivated offenses suggest terrorism.
そしてこの文の直訳として与えられたのが
論理的に動機づけされた諸々の攻撃はテロを示唆しているという考えは(TOCには)含まれない
(4)木坂麻衣子氏はこのことを英文メールでパッサス教授に確認し、朝日新聞側の手落ちではないかとのパッサス教授の返事とともに発信した。

(5)この一連の中で何人かのツイッター・フォロワーたちが「木坂麻衣子氏自身が英語の聞きとりを間違っている(朝日新聞の和訳文の方が正しい聞き取りに基づいている)」と指摘し以下のような英文になることを指摘した。
It is not meant to cover ideologically motivated offenses such as terrorism.

(6)(プロの翻訳家である)勝見氏が乗り出してパッサス教授に文意等を含め確認し、木坂麻衣子氏が間違っていることを検証し、彼女に間違いを承認し、番組を削除するよう勧めた。

(7)木坂麻衣子氏は自分の英語聞き取りの間違いであったことを認め、謝罪し、番組は削除された。


大体だが以上のような経過をたどったようだ。

改めてこんなレベルでの「英語聞き取り」でこんな騒動を起こしてしまう「ネット空間」の情報事情のあやうさを思わされた次第。

ちなみに当該発言を含んだ「パッサス教授とのインタヴュー」動画はこれのようだ。

(当該発言部分は1分32秒付近から始まる)

問題を「英語聞き取り」だけに限っていうと、間違いがどちらの方にあるかは明瞭である。
(正) It is not meant to cover ideologically motivated offenses such as terrorism.
(誤) It is not meant to cover idea logically motivated offenses suggest terrorism. 
どういう風に明瞭であるかは「普段英語で文意を追っている」、つまり日常的に英語でコミュニケーションしている者たちにとって明瞭ということだが・・・。(普段英語を使用している人の耳には「上段」のように聞こえる。「下段」のようには聞こえない・・・と思う。つまり英語で文意を追う人はわざわざ意味をなさないようには聞かない。)

仮に間違った方の文(のように聞こえた)としても、文章の構成とか文意から、そして前後の文脈から、殆ど意味をなさない「下段」で意味を通すのは困難なので自分の聞き取りを疑うのが自然と思うが。

スクープネタ発見!? という手柄に誘導された木坂麻衣子氏が「ideologically motivated」リスニングをしてしまったとしたら・・・皮肉なことですね。

この「ツイッターまとめ」を見ると、木坂麻衣子氏に「英語に対する自信過剰」があったようです。

自信過剰が招いた勇み足であったとすると、その自信過剰さはやはりかなり重症と思いますね。
彼女があとから間違いを認め関連記事等の訂正削除がなされたのがせめてもの不幸中の幸い。


ああー何てややこしいことを、と言いたいところですが、プロ翻訳家勝見氏のジャーナリスト精神というかネット世界におけるボランティア活動には敬服です。

2017年6月24日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年6月25日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 ルカの福音書 
20:45-21:4
説 教 題 「神殿礼拝とコミュニティ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(5)、礼拝と倫理 1

2017年6月17日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年6月18日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 4:2-9
説 教 題 「私たちのためにも」
説 教 者 小嶋崇 牧師

 

コロサイ(40)/パウロ書簡の学び(157)
 

その他の勧め ① 祈りのパートナー (コロサイ4:2-4)

2017年6月14日水曜日

(5)義認論ノート、1

第6回 日本伝道会議 2」でお断りしたように、このスレッドは今後「義認論ノート」として継続を試みてみようと思います。

前回は、ジョン・ハワード・ヨーダーが1960年代後半に、つまりまだNPPと称して脚光を浴び始めるる前に、新約聖書学(釈義学)で「義認」の社会・倫理的側面に光を当てる研究が出始めていることを指摘していた、ということをノートしておきました。

その研究の先鞭をつけた一人としてヨーダーが名を挙げているのが(誰あろう、カール・バルトの息子の)マーカス・バルトです。 (前回記事の引用英文を参照)


(1)マーカス・バルト(Markus Barth, 1915-1994)について

マーカス・バルトについては既にこのブログでも1度取り上げています。(この記事

残念ながらネット上には「マーカス・バルト」 で検索してヒットするものはありません。
「マルクス・バルト」で検索すると辛うじて一つ二つ見つかるくらいです。
(※ もちろんドイツ語、英語で検索すればそんなことはありませんが。)

というわけで簡単な紹介ですが、マイク・バード(ユーアンゲリオン・ブログ)の「マーカス・バルト」記事のリンクを貼っておきます。

(2)マーカス・バルトの『義認(Justification)』について

 『バルト父子』でも少し紹介しましたが、昨年の「N.T.ライトの義認論」を準備している間もマーカス・バルトの『義認』は念頭にありました。

 「教会共同体的側面を重視した」ライトの「義認論」が決して特異なものではなく、宗教改革伝統の偏りを矯正する(結構大きな)流れにあることを「マーカス・バルト」を関連付けて指摘したかったのですが・・・。

上記マイク・バードの記事にも紹介されていますが、マーカス・バルトにはこのポイントをズバリタイトルにした論文があります。

Jews and Gentiles:
The Social Character of Justification in Paul,”
Journal of Ecumenical Studies 5 (1968): 241-67

マイクが何箇所かこの論文から引用していますが、ここに二つお借りします。
"For Paul one's justification is closely related to the question of Jewish-Gentile unity." (p. 242)

"For the two themes, justification by faith and unity of Jew and Gentile in Christ, are for him obviously not only inseparable but in the last analysis identical." (p. 258)


さて、Markus Barth, JUSTIFICATION、ですがかなり手の込んだというか、普通と違う論述スタイルを取っています。

Introduction:
 1. Justification as a juridical act
 2. The Old Testament as a methodological key
 3. Narration with wonder and admiration

FIVE ASPECTS OF GOD'SJUDGMENT
 The First Day: The Last Judgment Is at Hand
 The Second Day: The Mediator Is Appointed, Acts, and Dies
   Interlude: Black Thoughts About the Death
 The Third Day: The Judge's Love and Power Reverse Death
 The Fourth Day: The Verdict Is Carried Out
 The Fifth Day: The Last Day Is Still to Come
イントロの3で言っていることが気に入ったので引用します。
The form chosen for the body of this study is meant to correspond to the goal and route of the experiment. Instead of a systematic treatment of justification, an "admirer's narration" of the miracle of justification will be given. The more conventional sort of "scholarly" argument will appear only in the footnotes. The action of justification itself calls for a substantive report that enumerates in sequence the ongoing events and changing situations. The footnotes can take no more than a subordinate role. The more dramatic the forensic action, the more the trial itself and the account of it will come to resemble a drama. (p. 21 強調は筆者)
これはなかなか含みのある言葉です。

ヒント的にしか今はコメントできませんが、「義認」ということを組織神学的に叙述することよりも、義認をもたらすドラマチックな出来事を物語る方がより相応しいのではないか、とのバルトの神学的センスだと思います。

神学的に「説明する」よりも、先ず聖書自体に語らせる方法を取っているのではないか・・・と読んでいて感じます。

(その背景であろうと思われることについてはまた別の機会に譲りたいと思いますが、「組織神学的」なことを脚注に置く、と云う選択が示唆的です。)  

もう一箇所考えさせられた箇所を引用します。 『バルト父子』でも引用したのですが、今回は少し付け足します。
[G]od has "made  him who knew no sin for us become sin," he made him "bear the sins," so that he became a sin offering. Thus God has "condemned sin in the fresh": the judgment was carried out on the body of Jesus Christ, the Son of God and the Son of David. With his death he pays "the wages of sin." By doing this he sums up the history, the guilt, the chastisement of Israel. He is in person the full representative of this people.
   This does not mean that the accursed Christ dies in the place of those whom he represents. On the contrary, when the king who typifies all Israel dies, every one of his servants is "crucified with him." ...In turn, since the Israel that Jesus Christ represents is representative of "all fresh," the whole world, every man is also "co-crucified" with Christ. Whether or not all men know yet of this death, whether or not they believe in God and in the Messiah and witness he has sent, they are legally dead. The delivering over of their advocate is fatal for them. His death is their death. (p.46 下線は筆者)
つまり、一般(大衆的も含め)的にキリストの「代償死」を「本来なら私たちが死ぬべきところを、私たちの代わりとなって」と理解しているのですが、

そうではなく、キリストが死んだのは「イスラエルの、そして人類すべての代表として」死んだので、法的にはすべての人はキリストと共に十字架に磔にされて死んだ、のだと。

それは事後的に知ることとなったとしても、あるいは全然知らなくても、客観的にそうなのだ、というロマ書5章6-8節のロジックも支持している(と脚注で)解説しています。

一般的理解としては、(十字架の出来事を福音書で読みながら)「あー、本当だったら罪人である自分があそこで死ぬはずだったのが、イエス様が私の身代わりになって死んでくださった。私が死を免れ生きていられるのはイエス様のおかげなんだ・・・」みたいなことになるのだと思います。

マーカス・バルトはそうではない、確かにイエスは代表として死んだのだが、それは私たちの代表として死んだのだから、私たちもそこでイエスと一緒に死んだのだ」と解釈しているわけです。

この解釈はやはり義認論・贖罪論の「キリスト代償死」に関わる部分がどこか聖書テキストに沿っていないのではないか、と見直しの必要を示唆していると思います。


以上で今回のところは終わりです。

(次回へと継続して行くと思いますが、今回のように「考えるヒント」を提供するくらいが関の山かと思いますが、関心を持って読んでくださる方があれば幸いです。)

2017年6月10日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年6月11日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨハネ福音書 3:1-15
説 教 題 「新しく生まれる」

説 教 者 小嶋崇 牧師

「真理」6


※礼拝後、昼食会があります

2017年6月3日土曜日

明日の礼拝案内

ペンテコステ主日礼拝
 
2017年6月4日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:1-47
説 教 題 「心の集まるところ」
説 教 者 小嶋崇 牧師

※聖餐式があります。

2017年5月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2017年5月28日(日) 午前10時30分
 
朗読箇所 マタイの福音書 19:16-30
説 教 題 「捨てることと受けること」
説 教 者 小嶋崇 牧師

主の祈りと実践(4)、神の国と冨の問題 2

2017年5月23日火曜日

2017 友の会バザー

友の会バザーご案内

日時☆2017年6月8日(木)午前11時~12時20分
場所☆巣鴨聖泉キリスト教会
 豊島区巣鴨1-3-19
     活水工房(教会隣り) 豊島区巣鴨1-3-20

※開始時間前に「整理券」が配られます。

出品物:
 * 友の会ならではの吟味された・・・手作りのパウンドケーキ、マドレーヌ、ごませんべい
 * 丁寧に心をこめて作った・・・エプロン、布巾、ピロケース、鍋帽子
 * 恒例の雑貨、中古衣料など

☆収益金の一部は被災地に寄付されます。
 
主催:東京第一友の会 文京方面
 


2017年5月21日日曜日

今日のツイート 2017/5/21

先ずはこれ。
それから、これ
そして、これ

感じ方は人それぞれなのだが・・・「一流の方」と「神対応」にはちょっと???と思った。

2017年5月20日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年5月21日(日) 午前10時30分

朗読箇所 コロサイ人への手紙 3:18-4:1
説 教 題 「主に対してするように」
説 教 者 小嶋崇 牧師


コロサイ(39)/パウロ書簡の学び(156)

「キリストにある」生き方⑧
 奴隷と主人  (コロサイ3:22-4:1)

2017年5月19日金曜日

今日のツイート 2017/5/19

(3週間ほど前になる「今日」ですが・・・)

キリスト教会が掲げる「聖句看板」として最も有名な聖句の一つが・・・

しかし、この聖句が「マイクロバスの定員数」(?)とかぶってしまいトホホなことになったみたいです。



2017年5月18日木曜日

(3)藤本満『聖書信仰』ノート、9

また前回から大分間が空いてしまいました。

遅々として進まず・・・ですが、継続を力として何とかまた一歩。


さて、2回に分けた後半になるわけですが、

 6章 「ファンダメンタリズム」(88-108)
  A 「英米ー明らかに異なる二つの流れ」(88-94)

で、
聖書批評学に対してキリスト教保守(ファンダメンタリズム)は、英では積極的な対応、米では消極的な対応、と異なる二つの流れが生じた
ことを見たわけでした。



6章 「ファンダメンタリズム」(88-108)
 B「ファンダメンタリズムによる聖書信仰の伏流ー前千年期王国論と創造科学」(95-108)


ざっくりしたポイントは、
(1) 無誤論的聖書信仰が教派や他の背景の違いを越えて、広くキリスト教保守派に広まって(浸透して)20世紀初頭のファンダメンタリズムを形成した。
(2) その背景には、「ディスペンセーション主義神学」と「創造科学」が「字義通りの聖書解釈」を実践したが、その理論的根拠を(最初からではないらしいが)ウォーフィールド型の無誤論に求めた・依存した。
というところでしょうか・・・。プリンストン神学と、ディスペンセーション主義神学、通常であれば余り隣近所になりにくそうな二つが繋がったであろう背景を指摘していますね(100ページ)。


筆者は「ファンダメンタリスト連合」に含まれている「ホーリネス諸教派」(95)の系譜にある教会で育ったのですが、実は「ディスペンセーション神学」や「創造科学」の影響は殆ど受けていません。

「千年王国」という用語はもしかしたらどこかから耳に入っていたかも分かりませんが、その諸説に関しては全くといっていいほど無知でした。(現在もさほど変わりませんが。)
 ※そんな程度の経験知ですから「この記事」や「この記事」で書いたことで尽きてしまいます。


「創造科学」はどこかの時点で「ヘンリー・モリス」とその著書くらいは目にしたことがあるかもしれませんが、それでも関心を持ったことは一度もありませんでしたし、その影響を自分の周囲に感じたことはほんのわずかしかありません。

そう「ほんのわずか」、論争の断片を記憶しているくらいです。

父(牧師)が昔「日本福音主義神学会」に少し関係していた頃かと思いますが、創世記の「創造」の記述の「日」を文字通り24時間の一日と取るか否かが「聖書信仰」の試金石・・・みたいな話をしていたのを耳にした程度です。

父は青年期(19歳)にキリスト教に回心していますが、それからまもなくのことと思いますが、信仰的に「疑い」の悩み・問題を抱えた時「聖書と心中する覚悟というか境地に立った」と語ったことを何度か聞いたことがあります。

筆者のように何世代目かのキリスト者となると、そのような「追い込まれた状況での信仰の飛躍」体験はほとんどありません。

神への信頼を通奏低音(丸山真男が日本思想の特徴を描写する時に用いた表現バッソ・コンティヌオの訳語とか)として生きてきた感じで、いちいち(神学)論争の度ごとに自らの信仰態度を決定し・表明する・・・ということには馴染んでいませんしむしろ忌避する傾向があります。

そんな筆者の偏見から見ると、「一日」の解釈を巡って聖書信仰の真贋をテストする・・・ような極端な論争にヒートアップするようなことはもはや「忠誠テスト」であって、解釈の客観的妥当性を巡る論争には思われません。


と、今回は「書評ノート」とは名ばかりの回顧録になってしまいました。

(次回へ続く???あるいはまだ続くかもしれません。)

2017年5月13日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2017年5月14日(日) 午前10時30分

朗読箇所 創世記 50:15-21
説 教 題 「本当に良かったといえる人生」

説 教 者 小嶋崇 牧師

「真理」5


※礼拝後、昼食会があります

今日のツイート 2017/5/13

格言ですね。

2017年5月11日木曜日

(4)第6回 日本伝道会議 2

先日アップした(3)救いについての「教理」でもイントロに書いたのですが、昨年の「第6回 日本伝道会議」 の「事後報告その1」を書いた後そのままになっていました。

その続きを書こうと思うのですが「紀行」としての続きはあきらめて、「救いの教理」について書いた流れを受け、「義認論ノート」として書いてみます。

「ライトの義認論」をめぐる神学討論会のために下準備として読んで「メモした材料」が色々あるのですが、なかなかまとめて紹介するのは骨が折れるので、「義認論ノート」として小出しで発表しようと思います。

と云う構想はかなり前からあったのですが、(そしてある程度までは書き溜めたのですが)、たまたまその呼び水みたいな文章を読んで、ようやくアップすることにしました。


以上が「序」とでも言うべき部分です。

次に「イントロ」が待ち構えています。
経緯と云うものがあるので即「義認論」にはまだ入れないのです。残念ながら・・・。


(1)5月27日のライト読書会
の案内をブログにアップしたばかりなのですが、今度読むライトのテキストは

A Royal Priesthood?
The Use of the Bible Ethically and Politically
A Dialogue with Oliver O'Donovan

に入っているのですが、この「Royal Priesthood」論集はちょうど3年前に購入してブログでも記事にしていました。

この「Royal Priesthood」繋がりで、ジョン・ハワード・ヨーダーの
The Royal Priesthood: Essays Ecclesiastical and Ecumenical
を同じ時に購入していたのです。 

と言うか、こちらの方が「ヨーダー読書会」のテキスト用に必要で購入したわけでした。
そして「最初に紹介した方の論集」はRoyal Priesthood」繋がりでついでに購入したのでした。

ヨーダーのThe Royal Priesthood、はその後読書会で少し読み進めたのですが、まもなく読書会自体がストップしてしまい積読状態になっていたのです。
 

先日、5月のライト読書会の準備も兼ねて、Royal Priesthood」繋がりで「ヨーダーの方の論集」を少しページをパラパラやっていたら・・・「義認論」関連の箇所に出くわしました。
Few assumptions have been more widely shared in Protestant thought than the identification of the messages of Paul and Luther with the promise of a new hope for the individual in his subjectivity. Luther in his rejection of the cultural religion of the Middle Ages, ..., raised as his banner the pro me of the forgiven sinner. That God is gracious to me is the good news that Zinzendorf, Wesley, Kierkegaard, and today both Rudolf Bultmann and Billy Graham ... have derived from Luther and have labored to keep unclouded by any effort to derive from it ... a social program or any other human work. To safeguard the pure gratuitousness of grace, any binding correlation with human goals or achievements must be studiously kept in second place.
     This assumption ... is now being dismantled under the impact of the exegetical theology of this century. ... Today such scholars as Markus Barth and Hans-Werner Bartsch are finding as well even in the writings of Paul, yea even in Galatians and Romans, a hitherto unnoticed dimension of community extending even into the meaning of such words as justification. (P.73 下線は筆者)
この論文の初出は1967年ですから、まだ「サンダース、ダン、ライトらの名前が登場するNPP論争」が始まる前です。

(もっともクリスター・ステンダールの『The Apostle Paul and the Introspective Conscience of the West』は1963年ですが・・・。)

前段落では、ルターの「福音の再発見」が極端に個人的・主観的なものであり、それがジンゼンドルフ伯爵、ウェスレー、キルケゴール、そして不思議な縁(?)ですが、(20世紀を代表する聖書学者)ブルトマンと大衆伝道者ビリー・グラハムに受け継がれている、と指摘しています。

ヨーダーにとっての問題関心は、この「極端に個人的・主観的信仰」を純粋に守ろうとするばっかりに「倫理的側面、社会的な脈絡」を切り離してしまう傾向なのですが、(次段落では) 近年のパウロ研究(釈義学)がこの主観的信仰の土台とも思われた「義認(justification)」にまで「共同体」のニュアンスが含まれていることを見出し始めている、と指摘しています。

この「義認(justification)」への適用に関してヨーダーは「イエスの政治」(1972年)で展開している議論を参照するよう脚注で述べていますが、確かに第11章「恵みによる、信仰による、義認」でこの新しいパウロ研究の視点を紹介しています。

「イエスの政治」を購入して読んだ当時はこのあたりの論争点にはまったくと言っていいほど無知でした。
We could in fact most properly say that the word "justification" ... should be thought of in its root meaning, as a verbal noun, an action, "setting things right," rather than as an abstract noun defining a person's quasi-legal status as a result of a judge's decree. To proclaim divine righteousness means to proclaim that God sets things right; that it is of his nature and the nature of his covenant that he is a right-setting kind of God. (P.229)
と、かなりライトの「義認」解釈と重なると言うか、むしろライトが改革派神学との整合性を保持しようとするニュアンスがあるのに対して、「共同体」ニュアンス方向に舵を切っている印象です。 

(2)マーカス・バルトの義認論
(この続きに関しては「義認論ノート」で、次の機会に・・・)