2017年3月1日水曜日

(3)隠れキリシタンになる前に 余波1(続)

この「隠れキリシタンになる前に」シリーズ第3弾目の記事となります。


第1回目では、最後に「今後の展開では、後日談や発展的考察が出てくるかもしれません。」と書いておきました。

一応少し動きがあり、何人かが集まって「この事態」をどう見るか意見交換する連絡会のようなものを構想しています。今月にはその最初の集まりが計画されています。

(もしこのシリーズ記事をご覧になり、「中に入って」日本の教会の将来を考えたい、という方がありましたら「先ずは」是非ご連絡ください。問合せ: sugamo_seisen*yahoo.co.jp)


前回(余波1)最後に予告のようなことを書きました。
「牧会の現場」から上がってくる「ケース(例証)」で巨大ジグソーパズルの一ピースを埋めることが出来るかどうか試してみたい。
どちらかと言うか、ほとんどと言うか、筆者は大局的な物言い(要するに「大風呂敷」)が多いです。

具体的なケース(例証)で補強するのが得意ではない。(要するにモノグサ)

今回トライするのは事実具体例なのですが、相談を受けた者の守秘義務に抵触しない範囲で表現しなければなりませんので、予めご了承ください。

(1) Aさんのケース

仮にその方をAさんと呼びます。

Aさんは地方の出身で数年前東京での暮らしにあこがれ、職も得ようと希望を持って上京しました。

数ヶ月もしないうちに、目的も殆ど達せないままに、東京暮らしのストレスに疲れ果て、その悩みを誰にも相談できずに、ある日憔悴しきった表情で教会にやってきました。

その後実家に戻りましたが、地元での「良い」就職は難しく、依然として東京での暮らしと仕事の希望を持ち続けて何回か上京し、その度に教会にやって来ては様々な話をするようになりました。

先日も就職のための講習会のようなもののために上京し、終わってからやってきました。

既に何回も会って話しているので気心が知れてきたのもあったと思うのですが、「実は今回お話したいのは(仕事とかそういうものではなく、宗教的なこと)・・・」と語り始めました。

ある日の夕方、ふと海と空の風景を眺めていたとき、突然「こんな美しい風景を眺めている自分はそのうち消えてなくなるのだ」と鋭く自分と言う存在のはかなさに目覚めた、というのです。

つまり、そう言う夕暮れ時の予想もしない瞬間に「必ずくる死」の自覚が突如彼を襲ったわけです。

おそらく一瞬背筋が凍りつくような恐怖であったと思います。

彼はその恐怖の体験を誰に話すことなく、彼の身近にいる人物の中では唯一の「宗教家」である筆者にその体験を告白してみたわけです。

(2)現代人の霊的リソース

打ち明けられた「宗教家」として先ず彼に語ったことは、それは特段驚くような体験ではなく、誰でも実存的に直面する危機的瞬間であること、しかし普段はそのことを構わないように、回避したり抑圧したりしているのだ、といったような説明をして安心してもらった。

逆に筆者が興味を持ったのは、彼にはそのような基本的「宗教的疑問」に対処する「霊的リソース」が備わっていなかったのか、身近に「参照する人物(リソース・パーソン)」はいなかったのか、ということ。

彼の実家は仏教だが、仏事の習慣がある他は殆ど実存的意義はないようだった。

親しい友人ともそんな話題は話せないようだった。

相応しい類の本や教えも(その時は)思いつかなかったようだ。

彼は特に教養があるという風な感じではなく、ほぼ平均的「霊性」の持ち主のように思う。

そんな彼に突如襲った「人生のはかなさ」に対処する手立てなく狼狽しなければならない「現代の日本」とはいったい何なのだ、というのが筆者の側の疑問である。

(3)来るべき霊的荒野の風景

第1回目で「寺院消滅」を紹介した。

曲がりなりにも日本社会における現代人の霊性を支えている寺院がそして神社が今後どんどん消滅して行くとすると、Aさんのような「人生の根源的問い」「生と死の問題」がふっと沸いた時、誰が相手をすることになるのか・・・。

余波1で若年層の「孤独死」を紹介した。

筆者はそれを「事故死」になぞらえた。

Aさんの三世代前までの「霊性」は、その次の(Aさんの親)世代で次第に希薄化し、三代目で殆ど有名無実になり、より弧独に生きる若年層の「霊性的な悩み」に直接答えられるような「霊的リソース」ではなくなっている現状をどうしたらいいのか。

最近流行の「パワー・スポット」「スピリチュアル」現象の要因のひとつは、葬儀や墓という「死」に伴う儀礼的宗教として「世代間を繋いできた」仏教や神道の若年層における空洞化をあらわしているのではないか・・・。

この現代的状況を「カルトの問題」と合わせて考えると、ある一つの像がおぼろげながら浮かんでくる。

今回はほんのり示唆するだけにとどまるが、既に「オウム真理教」関連で書いていることを挙げてく。


 (1)大田俊寛の指摘(筆者のブログ記事からの抜粋と、東洋経済誌記事の抜粋)
大田の「宗教学的人間観」が、第1章 近代における「宗教」の位置、1 そもそも「宗教」とは何か、で紹介されている。

 人間は、生まれ、育ち、老い、最後には死を迎える。死によって肉体は潰え、すべては無に帰るかのように見える。しかし、実はそうではない。死んだ人間が生きているあいだに作り上げた財産や、彼が伝達してきた知識は、残された者たちのなかでなおも生き続けるからである。この意味において人間の生は、その死後もなお存続すると言わなければならない。
 このように一人の人間の一生は、その誕生で始まり、肉体的な死を持って終わるわけではない。その人生は実は、生まれる前からすでに始まっており、死後もなお継続される。人間は、他者との「つながり」の中で生きてゆく存在なのである。(強調は著者、28ページ)

オカルト思想が栄え続けるワケ

――では、最後の質問です。霊性進化論というオカルト思想は、なぜ社会に蔓延し続けるのでしょうか?
大きな原因として、現代社会における霊魂観の貧困化、より具体的には、霊魂観の個人主義化、さらにはオカルト化、といった問題があると思います。
古今東西の諸文化の中で、「霊魂」に相当する概念を持たなかったものは存在しないと言っていいでしょうし、また近代以前の社会では、さまざまなバリエーションがあったにせよ、宗教と社会、宗教と政治が、なんらかの形で密接に関連していました。人間が死んだらどうなるのか、死者をどのように弔い、彼らの遺産をどのように継承していくのかといった事柄に関して、社会的な合意やルールが存在していたわけです。

――つまり、「死」がよりパブリックなものであったと。
はい。というより、むしろそれは、公共性の中心を占める事柄でした。ところがヨーロッパにおいて、宗教改革後の16~17世紀に宗教戦争が頻発し、それまで信仰によって一体化を保っていた社会が、むしろ信仰をめぐって争いを起こすという事態が引き起こされてしまった。そうした中で、どのような形の信仰が正しいのかを公的には決定しないという合意が成立し、それが近代における「政教分離」原則のバックボーンになっています。以降、霊魂観や信仰をめぐる問題が、公の場で議論されることは少なくなりました。
ただ、忘れてならないのは、現在のように「死後の世界」や「弔いの作法」に関する社会的な共通了解が存在しない状況というのは、長い人類の歴史においても、きわめて特異的な事態であるということです。政教分離をはじめ、近代の諸原則は、確かに一定以上の必然性や必要性から生みだされたものであり、それらを軽視することはできません。しかし、そこになんの問題も存在しないかといえば、そうではない。個々の人間の死に対して社会がどう向き合うのかということは、今も決して避けて通ることができない問題です。

――その空白を突いているのが、オカルト思想ということでしょうか?
そうですね。こうした状況に対して、本来であればまず、宗教の歴史や構造についての体系的な認識方法を提示し、問題の所在を明らかにする必要があるのですが、残念ながら現在の宗教学は、その任を十分には担えていません。その結果、一部の人間が考え出した恣意的な霊魂観が大手を振ってまかり通るという状況を許してしまったのです。霊性進化論は、そうした霊魂観のひとつであると言えます。そこでは、霊魂の存在が、社会や共同体という具体的基盤を喪失して個人主義化するとともに、「宇宙」や「霊界」という抽象的存在と直結するものととらえられるようになった。たとえば「宇宙における私の魂の霊的ステージ」などといった考え方ですね。こうして現代の霊魂観は、誇大妄想的でオカルト的な性質を帯びるようになったのです。
このような霊魂観を克服するためには、「魂とは何か」という問題をあらためて公に論じ合い、社会的合意を形成しなければならないでしょう。しかしそれは、いつ、どのような仕方で可能なのか。率直に申し上げて、現状では、私にも見通しがあるわけではありません。ただ、その前段階として、先ほど述べたように、現在の社会が抱えている困難や弱点の構造を、可能なかぎり明確化しておく必要があるのだろうと考えています。

 (2)オウム真理教に入門した「宗形真紀子」の宗教環境

宗形の育った宗教教育環境の欠如、「霊性的空白」がオウムに追いやったのではないか、と書いた。


(まだ続くと思う)

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