2017年5月6日土曜日

(3)救いについての「教理」

昨年9月、第6回日本伝道会議での「N.T.ライトの義認論」の事後報告もまだ終わってないのですが・・・

この3月『Salvation By Allegiance Alone(救いはアリージャンスによってのみ)』、という「宗教改革三大原理」の一つである「信仰義認」の「信仰(ピスティス)」解釈を巡って書かれた挑戦的な本が出版されました。

Salvation By Allegiance Alone、とは、「救いとは、信仰により、恵みによってのみ(Salvation By Grace through Faith Alone)」という公式的言い回しをもじって付けられた本のタイトルなわけです。


この『Salvation By Allegiance Alone』という本に関しては、既に幾つかのブログなどで取り上げられ紹介されています。(このことについては、N.T.ライト読書会ブログで扱っていく予定です。)


さて、この投稿では「救いの教理」をどう取り扱うか、という問題について「初歩的」なことを書いてみたいと思います。

初歩的といってもここでいう「初歩的」とは、宗教改革の伝統に立つプロテスタント教会の中では初歩的と考えられている「人が救われるのは、自分がする良い行いの功徳によるのではなく、神の一方的な恵みによってであり、ただそれを信ずることでいただけるのである。」という救いの基本的な理解 に関わることなので「初歩的」としました。

以下に「救いについての『教理』」を考えるためのテストケース を一つ紹介したいと思います。

これは「実際にあった」こととしてある場所で報告されたものです。
投稿者の許可を得て使用させていただく文章であることを予めお断りしておきます。


私は、26年ぐらい前にパプア・ニューギニアの奥地に伝道に行きました。そこでマーティンという男性と出会ったのですが、彼は、重病にかかり、骨と皮だけになり、もう立つことも座ることもできず、ただ、死ぬのを待っていました。

彼は、それまでキリストについて聞いたこともなく、教会に行く人間を軽蔑していました。しかし、私は、彼のそばに行って、イザヤ書40章の最後の部分をピジン語で読み、次のように言いました。
「昔、イスラエルという国に来られたイエス・キリストは、良い業を行い、多くの人を助けたけれど、人に理解されず、殺された。しかし、蘇って今も生きている。あなたがイエスの名を呼べば、イエスは必ずあなたのところに来て、あなたを救う。」
そして彼の体を抱きかかえるようにして祈り、彼にイエスの名を呼ぶように促すと、彼もイエスの名を呼びました。そして、私に言いました。「私は、私自身をイエスに差し出した。私は、イエスが私を救うことを信じる」と。

彼は祈りました。Bigpela hamamas Bigpela hamamas. Tankyu tru Jesus=Great joy! Great Joy! Thank you very much, Jesus.

彼は、立てなかった足で立ち上がり、家の周りにいた野次馬に向かって言いました。Jesus Krais emi stap laip=Jesus Christ is alive

彼は、その3日後に天に帰りましたが、その直前まで家族や訪れてくる人たちにイエスを信じるように語り続けました。その姿は多くの村人に衝撃を与え、イエスを求めて多くの人がやってくるようになったのです。

オーストラリアに帰って、ある保守的福音派教会でこのことを話した時、次のように言われました。「あなたは、イエスの十字架の代罰をその人に伝えなかったし、その人はイエスの代罰を信じたわけではないから、彼は救われていない。地獄に行ったと考えるのが妥当だ。

日本に帰国してからも同じように言われたことがあります。(強調は筆者)
さて、はたしてこのマーティンという方が「救われた」のかどうか・・・どちらなのでしょうか、という初期設定で「救いについての『教理』」を考えてみたいと思います。

この方(投稿者)がマーティンを「伝道」したやり方を、「救われるためのステップ」としてまとめると次のようになると思います。
 (1)イザヤ書40章の・・・読み
 (2)イエス・キリスト(がどういう方かを福音書のアウトライン要約でまとめ)
 (3)「救われる」ためにイエスの名を呼ぶことを示し
 (4)マーティンを信仰の応答に祈りで導いた

これに対し「(マーティンは)救われていない(だから地獄へ行った)」と判断した人の根拠は
 (1)イエスの十字架の死が(マーティンの罪の)代償であることを示さなかった
 (2)マーティンの信仰はこの「代償死(の教理)」に基づいたものではなかった
ということになります。

ここで一つ背景を明かします。

2016年10月に「第5回N.T.ライト・セミナー」を開催したのですが、テーマである《福音理解をめぐって》で以下のような質問をパネラーにしました。
 余り説明していることが出来ない限られた状況、危機的状況にある人に、ズバッと福音を伝えなければならない。どうしますか。
マーティンのケースはちょうどそんな具体例ではないかと思います。

信仰の《対象》と《応答》をどこに絞って福音を語るか、提示するか・・・という問題を討論するために敢えて「極限状況での福音伝達・提示」を問うてみたのです。

マーティンの場合、個人伝道した方(投稿者)は
 (1)福音の提示は・・・かなり省略し(アウトライン程度)
 (2)福音への応答 を・・・イエスの名を呼ぶに絞りました。

これと比較すると批判した方は
 (1)福音の提示は・・・「イエスの十字架の死」に重きを置き、
 (2)福音への応答 を・・・「イエスの十字架死が代償であった」と信ずることに絞りました。

※簡潔なレポートなので「細かいニュアンスの問題」は省略して論じています。

一体「人を救う」のは何によるのか、というのがこのレポートが問いかけるものです。

二つの問題をそれぞれ独立させて論じることが出来ると思います。
 (1)提示される福音の核心は何か?
 (2)提示された福音に対して応答する「信仰の対象」は何か?

これを以下のように比較点を強調してまとめてみます。
 (1)福音の核心は、
  (A)イエスの十字架の死なのか、
  (B)(イスラエルのメシアとして宣教し、十字架刑に処せられたが三日目によみがえらされた)イエスその人なのか。

 (2)信仰の対象は、
  (A)「イエスの十字架の死が罪人を救う代償であった」という教理なのか、
  (B)(十字架にかかって死なれたが今や復活して天におられる)主イエス・キリストなのか。

筆者がこの問いを解くのに大事だと思っているのは・・・
 (1)「福音」とは何か、という問いが基本的なものであり、
 (2)その「福音」に応答するにあたっての、
  (A)福音の「提示」の仕方や、
  (B)提示された福音に応答する時の「信仰」のあり方は、
  「『福音』とは何か」という「福音の核心」の理解に従属する
 というものです。

今回は「問題提起」だけにとどめます。

しばらくは、N.T.ライト読書会ブログでの『Salvation By Allegiance Alone(救いはアリージャンスによってのみ)』を書評したブログ記事を紹介することで、「問題の所在」や「神学的整理の仕方」を探ってみたいと思います。

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