2017年9月20日水曜日

(5)義認論ノート、6

義認論ノート、5で以下のような「アウトライン」的なものを提示しておきました。

    今後の展望
     (1)教会員の資格問題
     (2)(聖礼典、特に)洗礼と教会員資格問題
     (3)教会史の流れ

これから書こうとしていることは筆者にとって「依然としてかなり込み入って見えている」ことがらです。

はたして読者にどれだけ伝えられるのか・・・あまり自信はありません。

しかし、概観的にボンヤリとでも何かが見えてくれば御の字としたいと思います。


(1)最初に押さえておきたいこと

それは、
「義認」と「洗礼」は、一世紀のキリスト教会において《体験》としても《認識》としても、ほぼ同じか密接に繋がっていた
であろうということです。

「パウロがロマ書やガラテヤ書で論じている義認は『救済論』でもあり『教会論』でもある」というN.T.ライトの立場を支持して「義認論」を考えてきた筆者としては「バプテスマ」を「義認」と結びつけることには大きなメリットがあると考えています。

それはバプテスマ(の体験)が、
 (A) 「義認(罪人を無罪と宣言し赦免する=罪の赦しを与える)」という救済論の側面と、
 (B) 「(バプテスマを受けて)教会員となる」という礼典、つまり教会論に関わる側面と
両方を最も自然に繋げてくれるように思うからです。

しかし、「義認」を「洗礼」と繋げて議論するのはそう簡単ではない。というか却って渦中に栗を拾うようなことになりかねない。そのような理由と言うか背景が実はあるのです。(実際このノートが遅々として進まないのは、あっちでこっちでこんがらかった糸をほどくような苦労をしているからです。

筆者は(どこかに書いたと思いますが)教派的には「ウェスレアン・アルミニアン」という流れに属します。ということはプロテスタントの大きな流れでいうと「英国国教会=聖公会」と「改革派」になります。

しかし19世紀末頃日本に伝わってきた「きよめ派」の背景で言えば、リバイバリズムや伝道優先的な体質で、ウェスレーのように礼典を重んじたりする点や、改革派のような信仰告白に基づく教理と神学の伝統も、あまり受け継いでいません。

要するに「義認」にしても「洗礼」にしても掘り下げて論ずるDNAが殆どないのです。つまり最初からハンディキャップがかなり大きかったと言えます。

「義認論」のため様々な資料を読んできましたが、自らの体験と比較照合することが殆ど出来ないばかりか、次々に新しい要素に遭遇してそのたび新規に学習しなければならないことが多々ありました。

ですから「知ったような顔で書いている」ように見えても、結構辻褄の合わないことが見つかると思います。そのあたりご寛容のほどよろしくお願いします。

それは簡単に言えば新約聖書の時代と、その後の教会史で「洗礼の意義や役割がかなり変化してしまった」ということです。(そしてそのことは、ライトが指摘したように、義認もまた新約聖書での意味から離れ拡大して運用されるようになったこととも並行しているのではないかと思います。義認論ノート、3参照)

ルターの宗教改革は、カトリック教会に定着した「サクラメント(洗礼はその中の一つ)」が孕んだ問題から出てきた腐敗や行き過ぎに対してあったわけですが、確かにルターは「信仰義認」の原則は打ち立てましたが、その原則で「洗礼」が関わる問題を一挙にクリアーしたわけではありません。

ご存知のようにルター派教会や改革派教会は依然として「幼児洗礼」を維持してきました。(しかし改革派の場合は後述するようにリバイバリズムの影響で礼典を重んずるハイチャーチの伝統はかなり後退します。)

それに対し急進派とされた再洗礼派は「成人洗礼」に徹することで新約聖書時代の教会の洗礼のあり方に戻ろうとしました。

混乱はいまも続いています。(先鋭化して論じられることはなくなったようですが・・・。)



(2) 身近な例を使って

「義認論」の問題を教会論(端的には「洗礼」)の角度から探るために、昨年の日本伝道会議分科会「ライトの義認論」でも使った「設問」をここでも使ってみようと思います。

念頭にあるのは、ライトが指摘した「義認の教理とはつまるところ『救いの確証』のためである」というポイントです。信仰生活、教会生活の背景が異なると「洗礼」と「救いの確証」が対照的な関係になることを示してみたいと思います。
 あなたは以下の二つのうち、どちらのタイプのクリスチャンですか?

 (A)(クリスチャン家庭に育ち)気がついたら「クリスチャンかなー、まだかなー」、と実ははっきりした自覚がないまま過ごしてきました。でも洗礼も受けていますし、クリスチャンといえばクリスチャンだと答えています。
 (B)ある伝道集会みたいなところで(「招き」とか言うのがあって、何となく前に出て行ったらいろいろカウンセリングがあって、最後に「イエスを個人的な救い主と心に受け入れます」と祈りました。その後、どこか教会に繋がる様にと勧められたので、近所の○○教会に通っています。はい、自分はクリスチャンです。
A タイプのクリスチャンとは、教会史的に言えばカトリック教会、そしてプロテスタントの中でも依然として「国家/社会と教会とが同心円的関係」やその名残のある教会です。幼児洗礼がスタンダードでしょうから成人してから「クリスチャン」とは何か???と悩んだり、あるいはただ習慣で教会に通うタイプです。

このタイプの(特に真面目な)クリスチャンは、「救いの確証」問題を抱える比率が高いと考えられます。(ルターやウェスレーが思い浮かびます。)

B タイプのクリスチャンとは、先に挙げた再洗礼派がさきがけといえますが、むしろ現代の福音派教会で伝道を通してクリスチャンになる方により多く見られると思います。

このタイプは「明確な回心」を経て教会に加わることが多いので、逆に洗礼とか教会とかは「後付のもの」に感じられる比率が高いと考えられます。

この「設問」のポイントは「洗礼」と「キリスト者の自覚」とが離れていることです。

A タイプでは自覚の伴わない洗礼(特に幼児洗礼)が大きな要因と考えます。

B タイプでは「回心主義」の福音派教会に典型的ですが、「個人の信仰(の決断)」が重要視され、先ず「回心=救いの体験」があって後「洗礼」がいわば「外面的なしるし」として追加的になされる傾向があります。これらの教会は「非典礼的」な傾向が強く、押しなべて教会論が弱体化しています。


以上がうまく「今後の展開」のイントロとなってくれるといいのですが・・・。

もしピンと来ることが少なかった場合は、このブログで書いた「福音のパラダイムシフト」を読むようオススメします。

高い比率で問題意識が共有されていますし、「洗礼」と「回心体験」とを近接させる必要を指摘しています。(特に、福音派のパラダイム・シフト②

また説明が足りていないですが、回心主義福音派で「洗礼」が「罪人の祈り」に典礼的側面を乗っ取られてしまったと テルフォード・ワークが Evangelical Sacraments: Supporting Cast for the Sinner's Prayerでズバリ指摘しています。

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